松坡文庫研究会 - 逗子開成ニュース

【松坡文庫研究会】田辺松坡『菱花山館詩鈔』の刊行

2024/03/12

【松坡文庫研究会】田辺松坡『菱花山館詩鈔』の刊行 (松坡文庫研究会代表 袴田潤一)

 松坡文庫研究会では田辺松坡先生の若い頃の漢詩111首が採録された漢詩集『菱花山館詩鈔』を刊行しました。研究会の2023年度の活動の一つの成果です。

『菱花山館詩鈔』画像.jpg

 鎌倉女学院 松籟文庫蔵「田辺文書」には松坡先生の多くの詩稿があり、一昨年末、その中に「菱花山館詩鈔」と題されたまとまった自筆原稿を見つけました。稿本は一行17字、12行の原稿用紙47枚に毛筆で書かれ、所々に推敲の跡が見られます。採録されている詩は80タイトル111首で、詩型(五言古詩・七言古詩・五言律詩・七言律詩・五言絶句・七言絶句)ごとにまとめられています。111首のうち、新聞や雑誌に発表されたものが27首あり(発表作と稿本とでは語句の異同が若干見られる)、それは明治19(1886)年頃から明治33(1900)年頃まで、つまり、松坡先生20代後半から30代後半に及びます。この稿本は松坡先生が版行の意図をもって自ら過去の作品を撰び、若干の推敲を加えたものだと思われます。但し、成稿の時期については不明です。『菱花山館詩鈔』が版行された形跡がないので、先生は何らかの事情でそれを断念したのではないでしょうか。

 ところで、「菱花山館」は松坡先生の堂号です。昭和9(1934)年の夏に建てられた水道路の新居を「菱花山館」と号したこと、鎌倉市中央図書館の松坡文庫(田辺新之助旧蔵書)の多くに「菱華山館」蔵書印が捺されていることから、先生が堂号として「菱花山館」を使っていたことは判っていましたが、若い頃から「菱花山館」号を使っていたことは、この稿本によって知ることが出来ました。

 松坡文庫研究会ではこの稿本を何とか活字化して版行できないかと考えました。時あたかも、今年は松坡先生の没後80年に当たり、先生の志を実現することは先生への供養にもなる筈です。

 111首を会員の中の5人で分担し、デジタル化の作業を進めました。毛筆で書かれていること、難しい漢字や異体字が使われていることもあり、入力は難航しました。その後、校正を重ねて印刷原稿が完成したのが昨年の終わり。年が明けて限定20部の試作版を作り、更に検討を加えて、このたび『菱花山館詩鈔』限定非売品200部(A5版)を印刷・刊行しました。

 完成した詩集は、松坡先生に所縁のある人々や団体、教育機関、図書館、鎌倉市内の寺社等に寄贈いたしました。

 漢詩人田辺松坡の業績を多くの人に知っていただくことに少しでも役立てれば研究会としても嬉しい限りです。

※非売品として作成しましたが、ご希望の方には頒布いたします。詳細は本ホームページ右上のお問い合わせメールにて、逗子開成中学校・高等学校・校史編纂委員会宛にお問い合わせ下さい。

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【松坡文庫研究会】第8回講演会「大橋康邦と田辺松坡」

2024/02/18

松坡文庫研究会の第8回講演会をご案内いたします。明治~昭和に鎌倉に住み、鎌倉の風景を中心に多くの作品を残した画家・大橋康邦と田辺松坡に関する講演会です。奮ってご参加ください。

日時:令和6年(2024年)4月14日(日) 14:00~16:00
講師:袴田潤一(はかまだ じゅんいち)(松坡文庫研究会代表)
場所:鎌倉市中央図書館3階 多目的室(248-0012 鎌倉市御成町20-35)
定員:申込先着 30名 入場無料

 講演会の申込開始は、3月1日(水)より。参加申込方法、会場地図、問い合わせ先等につきましては、以下のチラシファイルをご確認ください。

20240414 大橋康邦と田辺松坡フライヤー.pdf

*なお、新型コロナウイルス感染症の感染防止にご協力ください。また、感染拡大による社会状況の変化によりましては、中止の場合もございますこと予めご了承ください。

20240414 大橋康邦と田辺松坡フライヤー.jpg

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【松坡文庫研究会】第七回講演会「松坡先生と鎌倉の寺社」

2023/12/27

松坡文庫研究会の第七回講演会をご案内いたします。今回の講演会では、田辺松坡先生と関わりが深かった鎌倉の寺社(寿福寺・妙本寺・鶴岡八幡宮など)を取り上げ、先生とそれらの寺社やご住職との関係、さらには先生が詠まれた漢詩が話の中心となる予定です。奮ってご参加ください。なお本講演会は、鎌倉中央図書館を会場に開催されるイベント「ファンタスティック☆ライブラリー・112」のなかで実施されます。各団体のイベントもこの機会にぜひご確認ください。

日時:令和6年(2024年)2月4日(日) 14:00~16:00(開場13:30)
講師:袴田潤一(はかまだ じゅんいち)(松坡文庫研究会代表)
場所:鎌倉市中央図書館3階 多目的室 (248-0012 鎌倉市御成町20-35)
定員:申込先着 30名 入場無料

受付開始:2024年1月4日(木)

参加申込方法、会場地図、問い合わせ先、内容等につきましては、以下のチラシファイルをご確認ください。

20240204第七回講演会チラシ.pdf

松坡文庫研究会第七回講演会「松坡先生と鎌倉の寺社」.png

ファンタスティック☆ライブラリー・112

https://lib.city.kamakura.kanagawa.jp/opw/OPW/OPWNEWS.CSP?PID=OPWAPINEWS&DB=LIB&MODE=1&CLASS=ALL&IDNO=101034

*なお、新型コロナウイルス感染症の感染防止にご協力ください。また、感染拡大による社会状況の変化によりましては、中止の場合もございますこと予めご了承ください。

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【松坡文庫研究会】第六回講演会「山陰游草 松坡、揚鶴大江卓との旅」

2023/08/25

松坡文庫研究会の第六回講演会をご案内いたします。本校初代校長田辺新之助(松坡)と神奈川権令大江卓との明治45(1912)年の山陰旅行を漢詩でめぐる講演会です。本校のボート遭難事件は明治43(1910)年のことで、田辺先生が本校の校長職を辞すのが大正2(1913)年です。その間にあたる山陰旅行。水の都・松江からどんな思いで「海」を見つめたのでしょうか。奮ってご参加ください。

日時:令和5年(2023年)10月7日(土) 14:00~16:00(開場13:30)
講師:袴田潤一(はかまだ じゅんいち)(松坡文庫研究会代表)
場所:鎌倉市中央図書館3階 多目的室 (248-0012 鎌倉市御成町20-35)
定員:申込先着 30名 入場無料

 講演会の申込開始は、9月1日(水)より。参加申込方法、会場地図、問い合わせ先等につきましては、以下のチラシファイルをご確認ください。

20231007 第六回講演会 山陰游草.pdf

*なお、新型コロナウイルス感染症の感染防止にご協力ください。また、感染拡大による社会状況の変化によりましては、中止の場合もございますこと予めご了承ください。

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【松坡文庫研究会の活動】 幻の「春洞西川翁碑銘」

2023/08/14

【松坡文庫研究会の活動】幻の「春洞西川翁碑銘」

(松坡文庫研究会代表 袴田潤一)

 明治、大正にかけて活躍した書の大家に西川春洞という人物がいます。漢字の各体に優れ、その門に学ぶ者2,000人を数え、明治の漢字書道界で最も多くの門下を擁した日下部鳴鶴と双璧を成していたといわれます。

 西川春洞(にしかわ しゅんどう、名は元譲 1847~1915)は代々医をもって唐津藩に仕えた家に生まれ、始め祖父の西川亀年に、のち中沢雪城の門で学びました。6歳のときには楷書千字文を書いたといいます。尊攘を唱え国事に尽くし、維新後は大蔵省に出仕しましたが、まもなく辞して書道に専念しました。

 唐津藩出身であった春洞と松坡田辺新之助先生は親しい交友がありました。松坡先生が幹事を務めた旧唐津藩の育英団体久敬社での活動がきっかけになったことでしょうし、先生自身、日下部鳴鶴のもとで書を学んでいたということがあります。松坡先生は鳴鶴が主宰していた大同書会の機関誌『書勢』の漢詩欄の撰者を務めていました。

 明治36(1903)年に出版された『中等習字帖』(全三冊)という本は「田邊新之助編 西川元譲」とあり、先生が選んだ語句を春洞が書いた習字のお手本帖で、中学校での書道の授業で使用されたものだと思われます。出版元は「田沼書店」とありますが、東京開成中学校や第二開成学校で用いられた私家版的なものだったのかもしれません。残念ながら現物を見るには至っていませんが、漢籍から選ばれた秀句が春洞による正楷で書かれているのでしょう。

 ところで、『書勢』第5巻第4号(1921.4)に田辺松坡による「春洞西川翁碑銘」と題された文章が掲載されています。碑文の定型に従い、その人の経歴・為人・追悼詩・撰文の経緯が記されています。春洞の没年、碑陰の年紀「大正十年八月」から考え、春洞の七回忌を期して建碑が企てられ、松坡先生が撰文者として指名されたのでしょう。稿には、「頃者門人胥謀樹碑於目黒瀧泉寺。徴余文。余與翁有舊。誼不可辭。」 頃者(このごろ)門人胥謀(あいはかり)碑を目黒瀧泉寺に樹てんとし、余に文を徴す。余、翁と旧有り、誼しく辞すべからず、とあります。

 しかし、目黒龍泉寺(目黒不動)に建つ高さ5m余、幅2m弱の「春洞西川先生碑」の碑陰には「門人武田白謹撰 豊道慶中謹書」と刻まれているのです。武田白、豊道慶中は「春洞門七福神」と称えられた七人の高弟のうち武田霞洞と豊道春海です。松坡先生の「春洞西川翁碑銘」はいったいどうなったのでしょうか。「ボツ」になったと考えるのが普通でしょうが、その経緯や理由については長年不明のままでした。

 さて、最近、松坡先生の詩軸を手に入れました。共箱の蓋表に「田辺松坡詩書」と書かれ、中には軸だけでなく封筒に入った古い新聞の切り抜きが二枚収められていました。『日本経済新聞』で長く連載されている「私の履歴書」で、豊道春海が扱われている2回分でした。詩軸の旧蔵者が切り抜いて封入したものに違いありません。一読して吃驚。春洞西川先生碑建碑の経緯、田辺先生の撰文がボツになった事情について春海が詳しく語っているではありませんか。長くなりますが、昭和43(1968)年9月20日の記事から引きます。

 次は撰文をどうするかであるが、ヘタな文章を書いて恩師の恥になってはいけないので、恩師と同じ肥前唐津小笠原藩出身の詩文の大家田辺松坡先生にお願いすることにし、鎌倉だったと思うが私が先生のお宅に伺って承諾を得た。ところが出来上がった撰文を拝見すると、文中に"春洞先生は下町書家であった″というような表現があった。当時春洞先生と並び称された書家の日下部鳴鶴翁は官についてその方の旗頭であり、春洞先生は在野の巨頭であった。その対比から田辺先生は下町書家と書かれたのであろう。われわれには単なる「町書家」であるような印象を与えた。後世に残る碑文にそのような感じを与える個所があってはならない。この点だけはどうしても直してもらおう――と衆議一決した。...(中略)...案の定、田辺先生は「わしにはわしの考えがある」といって、いくら嘆願しても頑として耳をかしてくれない。

 結局、建碑は弟子が行うのが筋であり、撰文は武田霞洞が、書は豊道春海が行い、田辺先生が心血を注いで書いた文章は長く西川家に保存して貰うということで、田辺先生も納得したと続きます。

 長年の疑問が氷解し、松坡先生の気性の一端を知ることも出来ました。それにしても新聞記事を切り抜いて詩軸の箱に入れたのは誰でしょうか。想像は膨らみます。

 ※ 参考までに「春洞西川翁碑銘」の冒頭部分を書き下しで紹介しておきます。

東京の地勢、古来分れて二つとなる。高部は山手と曰い、侯伯官人多く住む。低部は下町にして、即ち市街なり。風気亦た同じからず。寛政中、亀田鵬齋は磊落不羈、下町の儒者を以てし、官儒と拮抗す。下りて明治に逮(オヨ)び、官人の書を能くするは巖谷一六・日下部鳴鶴たり。之れと鼎立するに、春洞西川翁有り。下町の書家を以て自から居り、標持すること頗る高し。

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「春洞西川翁碑銘」稿冒頭(部分)『書勢』第5巻第4号(1921.4)より転載(鎌倉市中央図書館蔵)

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【松坡文庫研究会の活動】河村城址碑

2023/06/15

松坡文庫研究会代表の袴田潤一先生より原稿を預かりました。中世の山城跡にたつ石碑と松坡先生の関係とは?是非ご一読ください。

                                              

【松坡文庫研究会の活動】河村城址碑
 JR御殿場線山北駅の南側の標高225.0mの城山の頂上付近、かつて河村城の本城郭址西側に高さ3.5m、幅1.2mほどの立派な石碑が建っています。碑題は徳富蘇峰(筆名 菅原正敬)の書で「河村城址碑」。碑陰には歴史学者で紋章学の権威である沼田頼輔(1867~1934)の700字に垂んとする撰文が田辺新之助の端正な書き振りの楷書で記されています。昭和4(1929)年4月に川村町青年団(川村町は山北町の旧名)によって建てられたものです。

 河村城は古代末期に藤原秀郷の流れを汲む河村秀高によって築かれたとされ、南北朝時代には南朝方の河村氏と北朝方の畠山氏との攻防の舞台となりました。その後、畠山氏、上杉氏、大森氏、後北条氏の手を経て、16世紀末、豊臣秀吉による小田原征伐後で廃城とりなりました。1990年代に城跡の調査研究が行われ、城が連郭式(本丸・二の丸・三の丸が一列に並ぶ)山城であったことがわかり、一帯は「河村城址歴史公園」として整備され、城の遺構は1996年に神奈川県内の山城としては初めて県指定史跡となりました。

 さて、遡って大正期、川村小学校校長で郷土史家でもあった長坂邨太郎(生卒年不詳)が町の祖でもあり、町名のもとになった河村氏を顕彰することを目的に、河村氏及び河村城の研究に努めました(研究の成果は『河村城址記』1931や『歴史上より見たる河村氏』1937などに結実しています)。そうした機運の高まりの中で、昭和天皇即位奉祝記念事業として川村町青年団が建碑を企図したのです。青年団は保勝会を組織し、2千数百円の寄付を集めたといいます。

 碑を建てるに当たっても長坂邨太郎は奔走します。碑題を尊敬する徳富蘇峰に依頼し、蘇峰はそれに応えて「河村城址碑」の立派な題を書いたのです。撰文は沼田頼輔に依頼しました。長坂と沼田は神奈川師範学校の同窓で、長坂は明治19(1886)年2月22日に、沼田は同年9月14日に同校を卒業しています。古くからの知友であることに加え、沼田氏が波多野河村氏族の出であることも関係していました。建碑に先立ち沼田は同僚で小田原出身の相田二郎らとともに川村町を訪ね、川村小学校で河村氏及び河村城についての講演を行っています。

 ところで、碑文を田辺新之助先生が書くに至ったのはなぜでしょう。これまで調査した田辺先生関連の資料から長坂邨太郎と田辺先生の交友について窺われるものは皆無です。碑題を書いた徳富蘇峰からの依頼の可能性はあります。蘇峰と田辺先生とは長きにわたる交友があり、徳富蘇峰記念館(二宮町)には明治42(1909)年から昭和3(1928)年までの田辺先生の蘇峰宛書簡10通が保管されています。一方、撰文者である沼田からの依頼の可能性はどうでしょうか。私は沼田が田辺先生に書を依頼した可能性が高いと考えています。沼田は師範学校を卒業すると鶴嶺村(現・茅ヶ崎市)の小学校訓導、高座郡一之宮学校(現・寒川町)校長兼訓導、尋常高等茅ヶ崎小学校(現・茅ヶ崎市)校長兼訓導を経て、明治30(1897)年に東京府開成尋常中学校教諭となっているのです。同校では田辺先生が英語・地理を講じており、先生は沼田が赴任してきた年の末に同校校長になりました。沼田が鳥取県米子中学校に転ずる明治34(1901)年までの短い間でしたが、沼田にとって田辺先生は同僚であり上司だったのです。私的なことを言えば、沼田の娘は田辺先生と昵懇の仲だった澤田カズ(金偏+和)義の長男に嫁いでいます。

 建碑のために多額の寄付を集め、巨大な石材を酒匂川から運び上げたのは川村町青年団の団員でした。碑はそうした熱意に動かされた徳富蘇峰、沼田頼輔、そして田辺先生の協力によって竣成しました。碑が建つ河村城本城郭址へは、山北駅から標高差100m余を登って約30分で辿り着きます。御殿場線の本数が少ないのが残念ですが、乗り換えがスムーズに行けば逗子駅から山北駅までは1時間半もかかりません。爽やかな日に、ちょっとしたハイキング気分で足を運んでみてはどうでしょう。河村城址公園南側からの太平洋方面の眺望も素晴らしいものです。


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河村城址碑正面               

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河村城址碑碑陰

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【松坡文庫研究会の活動】向山黄村と田辺松坡

2023/04/25

松坡文庫研究会代表の袴田潤一先生より原稿をお預かりしました。松坡先生が、漢詩壇での地位を確かにする以前、松坡先生34歳の時のエピソードを紹介していただいております。

相撲の例えが・・・!!是非お楽しみください。

                                             

【松坡文庫研究会の活動】向山黄村と田辺松坡

 向山黄村の詩集『景蘇軒詩鈔』(杉浦梅潭編 明治32年)に黄村が田辺松坡の詩に次韻(同じ韻字を用いて詩を詠むこと)した詩が載録されています。本来は十首ですが、詩集に収められているのは三首。

 向山黄村(むこうやま こうそん 1826~1897 通称は栄五郎)は幕臣で、箱館奉行支配組頭、表御右筆・奥御右筆、外国奉行支配組頭、御目付、外国奉行を歴任した能吏です。駐仏公使として徳川昭武に随行してパリに渡り、ナポレオン3世にも拝謁しています。慶応年間(1865~1868)に将軍徳川慶喜から朝廷に提出された文書の殆どは黄村の手になるものだとされています。維新後は旧主徳川家達に随従して静岡に赴き(「駿府」と呼ばれたこの町を「静岡」と命名したのは黄村です)、静岡学問所頭取として後身の教育に励みました。学問所廃校後、東京に移り、明治11(1878)年、杉浦梅潭・稲津南洋らと共に晩翠吟社を創立し、詩作の余生を送りました。松坡田辺新之助が晩翠吟社に参加したのは明治17(1884)年4月のことでした。

 黄村が松坡の詩に次韻した詩のタイトルは「次韻田邊松坡七月既望追蘇之作十疊(田邊松坡の七月既望の追蘇の作十疊に次韻す)」。松坡が蘇軾(蘇東坡1037~1101)の追善のために、蘇軾に所縁の七月既望の日(蘇軾の代表作である「赤壁賦」は「壬戌秋、七月既望」の句を以て始まります)に詠んだ十首に黄村が次韻したというのです。松坡と黄村との間で計二十首の詩の応酬がなされました。

 二人の詩の応酬(唱和)から長い時を経て、松坡がこの応酬を回顧した文章を書いています。日下部鳴鶴が主宰した大同書会の『書勢』(第6巻第11号 1922.1)に掲載された「追蘇唱和」と題された文章です。それに基づいて、二人の詩の応酬を再現してみましょう。

 松坡の詩は明治28(1895)年の晩翠吟社の詩会、恐らくは9月5日(というのは旧暦での明治28年「七月既望」は新暦で9月4日に当たりますが、晩翠吟社の月例会は毎月5日に開かれていました)、上野桜雲台での詩会で示されました。翌日、黄村から松坡に宛てて、松坡の詩に応えた詩が記された葉書が届いたのです。以後、9月17日まで松坡と黄村の間で十八首、計二十首の詩の応酬が葉書(或いは手紙)によって行われました。また、通例によってそれぞれの詩には短評が加えられており、それを担当したのが杉浦梅潭と田邊蓮舟でした。結局、松坡と黄村の二十首の詩の応酬を梅潭と蓮舟が批評し、最後には依田學海と杉浦梅潭が総評を記すという、何とも贅沢な唱和作品が出来上がったということになります。『書勢』の「追蘇唱和」には全作と短評、総評が記録されています。

 この唱和について松坡は次のように記しています。

 黄村先生は、一生東坡を景仰して、書齋を景蘇軒と稱し、詩書共に坡翁を學ばれたるは世の遍く識るところなるに、之に對して、余が追蘇の唱和を試みしは、四段目の小相撲が横綱に當りしに同じく、殆ど滑稽の觀ある者に似たれども、先生がかくも無名の後進の相手をせられたるは、後生推輓の意厚きに由るものとして、偏に感佩に堪へぬのである。 」

 この唱和がなされた時、横綱「景蘇軒」黄村は70歳、四段目の小相撲松坡は34歳でした。

総評において依田學海は「 黄村は近代の詩傑、固より恠むに足らず、而して松坡君後生を以て、隱として一敵國たり。 」と述べて松坡を高く評価し、梅潭は松坡を蘇軾の高弟の一人である黄庭堅(山谷)に擬えて次のように記しています。

「 黄翁は今の坡公、眞に大敵也、兄は今山谷の地位に立ち、屈せず撓ます、筆鋒鋭利、對仗精工、愈出で愈妙、乃是文壇の一大快戰、彩虹天に彌り、意氣古人に愧ぢす。 」

 この唱和の2年後、明治30(1897)年に黄村が没すると、松坡は梅潭とともに晩翠吟社で詩の添削に当たるようになり、黄村の後を継いで『毎日新聞』漢詩壇(滄海拾珠)の選者となります。嘗ての「四段目の小相撲」が明治漢詩壇における地位を磐石なものにしたのです。

追蘇唱和.jpg

向山黄村の「次韻田邊松坡七月既望追蘇之作十疊」第一首

『景蘇軒詩鈔』より(『詩集日本漢詩』第18巻所収)

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【松坡文庫研究会】松坡先生の漢詩講読会

2023/03/09

 松坡田辺新之助先生は明治から大正昭和の日本漢詩壇を代表する漢詩人の一人として多くの作を残していますが、それだけでなく、漢詩の講読会を精力的に開いていました。幾つかを紹介しましょう。

 先ずは、大正14(1925)年末頃、横浜の有志の求めに応じて毎週土曜日午後に横浜市教育会で開いた『論語』と『唐宋詩醇(杜甫)』の講義。同年12月31日付の徳富蘇峰宛書簡で詳しく述べられていますので、多少長くなりますが、引用します。

劫灰堆積之中、而かも商業不振之際、去廿六日之如き、年末ニ差迫り居候ニも係ハらず杜詩を参聴致暮れられ候者多数有之候。頗人意を強くする次第ニ御座候。中井竹山翁之創設以来百餘年、懐徳堂書院之講義が今日ニ至る迠継續、大阪町人ニ謹聴せらるゝ之美事ニ追随すべき事かと窃ニ悦居候。今後ニ於ける横濱町人之大を成す上ニ多少なりとも裨益ある様致度望居候得共、老生之微力にして淺学なる、やがてハ貴台之御髙助も願上度候。

 関東大震災から完全には立ち直っていない中、暮れの慌ただしい時期にもかかわらず多くの横浜市民の参加を得たことを喜び、自らの講読会を中井竹山の懐徳堂に擬えています。横浜市民が大きなこと(震災からの復興や経済発展)を成し遂げる上で多少なりとも役立つことを願っています。テキストに使用された『論語』は孔子の言論を中心として、門人らとの問答を集めた語録。『唐宋詩醇』は清の乾隆帝の勅命により編まれたアンソロジーで、唐宋の詩人から李白・杜甫・白居易・韓愈・蘇軾・陸游の6人を選び、その詩から二千数百首をとって各詩人ごとに総評を、各詩ごとに短評を付したものです。この講読会がその後、どういう経過を辿ったかについては資料からは判りません。

 もう一つは、松坡先生が鎌倉の自宅で開いていた講読会。テキストはやはり『唐宋詩醇』でした。始めたのは大正前半から半ば頃だと思われ、終了したのが昭和2(1927)年でした。画家・文筆家の有島生馬(1882~1974)が聴講していました。生馬が病気療養を兼ねて鎌倉の別荘に住むようになったのが大正9(1920)年の末からですから、生馬の聴講はそれ以降ということになるでしょう。昭和2(1927)年に改造社から出版された生馬の散文集『海村』には松坡先生の題詩が冠されていますが、著者生馬自身が例言で次のように書いています。「卷頭に田邊松坡先生の題詩を掲げ得たことは深く光榮とする所である。鎌倉在住中先生の唐宋詩の講讀會に列席することを得た。その感謝を併せて茲に申述べたいのである。」 生馬が松坡先生の講読会で得た何かが生馬の文筆活動にいくらかでも活かされているのでしょうか。

 最後は鎌倉寿福寺での講読会。建長寺の国立正呉師と寿福寺の内田智光師らの求めに応じたもので、昭和11(1936)年から15(1940)年間まで続きました。初めは漢詩を詠んでいたのですが、講義をしようということになって選ばれたテキストが『清詩評注読本』でした。会の名前は松坡自身による命名で「晩翠会」といったそうです。松坡先生が23歳から参加していた晩翠吟社から採った名称です。

 ところで、最近『田邊松坡先生講本』と題されたガリ版刷りの和綴じ本を入手しました。表紙には清代の漢詩人が列挙されており、内容は表紙に書かれた詩人の作品のアンソロジーです。詳細な鉛筆書きのメモがびっしりと余白を埋め、「晩翠會」の印が二箇所捺されています。日付の記載や旧蔵者のヒントになるような書き込みは残念ながらありません。しかし、この『田邊松坡先生講本』は寿福寺晩翠会での清詩講読会の教材で、それに参加した誰かが松坡先生の講義を丁寧に筆記したものに違いありません。旧蔵者が誰かわかりませんし、何人の手を渡ってどういう経緯で古書店に入ったのかもわかりません。ただただ、こうしたものを廃棄することなくよくぞ残してくれたものだと感謝すると同時に、松坡先生の講義録ともいうべきものが偶然の廻り合わせで田辺松坡を研究する会に来たり至ったことに驚きを禁じ得ません。旧蔵者の書き込みからは松坡先生の講義の息遣いが感じられるようです。

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『田邊松坡先生講本』表紙

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【松坡文庫研究会】第五回講演会「漢詩人田辺松坡の修業時代」

2023/03/01

松坡文庫研究会の第五回講演会をご案内いたします。逗子開成初代校長田辺先生の修業時代がテーマです。奮ってご参加ください。


タイトル:「漢詩人田辺松坡の修業時代」
日 時 :2023年4月9日(日)14:00~16:00
講 師 :袴田潤一(松坡文庫研究会代表)
会 場 :鎌倉中央図書館3F多目的室

松坡文庫研究会は、2018年に設立され、鎌倉市中央図書館の「松坡文庫」(田辺新之助旧蔵書)及び田辺新之助先生その人についての調査を行っています。

 講演会の申込開始は、3月1日(水)より。参加申込方法、会場地図等につきましては、以下のチラシファイルをご確認ください。

20230409 漢詩人田辺松坡の修業時代チラシ.pdf

*なお、新型コロナウイルス感染症の感染防止にご協力ください。また、感染拡大による社会状況の変化によりましては、中止の場合もございますこと予めご了承ください。

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逗子開成初代校長 田辺新之助に関する初の展覧会!

2023/02/13

逗子開成の初代校長 田辺新之助(松坡)に関する初の展覧会が行われます。


鎌倉市中央図書館が寄贈資料を所蔵する田辺新之助(松坡)先生の生涯と事蹟について紹介いたします。田辺先生について学ぶとともに、新出資料紹介もありますので、ぜひお立ち寄りください。

タイトル:「田辺新之助の生涯 教育者・漢詩人・家庭人~鎌倉女学院設立者田辺新之助と松坡文庫~」

期日:2023年2月22日(水)~26日(日)9:30~19:00(最終日は15:00まで)
場所:鎌倉生涯学習センターきらら鎌倉 地下ギャラリーA
   (鎌倉市小町1-10-5 JR鎌倉駅東口徒歩3分)

ギャラリートークも、以下の日程で実施されます。
①2/22(水)14:30~15:00
②2/23(木)11:00~11:30
③ 〃    14:30~15:00
④2/24(金)14:30~15:00
⑤2/25(土)11:00~11:30
⑥2/26(日)11:00~11:30(追加開催)

⑦〃    13:00~13:30

https://lib.city.kamakura.kanagawa.jp/opw/OPW/OPWNEWS.CSP?PID=OPWAPINEWS&DB=LIB&MODE=1&CLASS=ALL&IDNO=100956


なお、地下ギャラリーB~Dにおいては、鎌倉近代資料室による写真展「古都鎌倉へのまなざし」が開催されます。昭和30年代から50年代の鎌倉の風景、約300点が紹介される、とのことです。こちらもぜひお楽しみください。ともに鎌倉市中央図書館によるイベントです。

田辺新之助先生.jpg

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【松坡文庫研究会の活動】旧蹟保存指導標

2023/01/28

 鎌倉市内各所に「旧蹟保存指導標」と呼ばれる多くの碑があります。鎌倉青年団(1911.3.12鎌倉青年会、1921.2.24鎌倉町青年団、1939.11鎌倉市青年団と改称)が、1918(大正7)年から1956(昭和31)年に名所旧跡を解説するために建立したもので、仙台石製、高約180㎝、幅約70㎝の大きなものです。鎌倉を訪れる方はどこかでお目にかかっている石碑です。青年団によるものの75基のほか、鎌倉同人会4基、鎌倉友青会3基、長谷上町文化会1基の計83基が数えられます。

 松坡先生が発起趣旨を起草し、会の命名をした鎌倉同人会が1919(大正8)年に建てた六地蔵(饑渇畑)碑と盛久頸座碑は松坡先生の撰文・書であることがはっきりしているのですが、それ以外の碑については撰文者と文字を書いた人物の名が刻まれていません。ただ、例外が2基あります。比企谷の妙本寺境内にある万葉集研究遺蹟碑(昭和5年 鎌倉青年団)の「宮中顧問官井上通泰撰 菅虎雄書」と、稲村ガ崎の十一人塚碑の「田邊松坡撰并書」です。

盛久頸座.JPG

盛久頸座碑(長谷1丁目7付近)

十一人塚.JPG

十一人塚碑(稲村ガ崎1丁目13-22)


 十一人塚碑の碑文末尾には「昭和六年 鎌倉町青年團」とありますが、この碑は建て替えられた(碑文改刻)もので原碑が建てられたのは1924(大正13)年のことでした。その撰文が誰のものだったかは判りません。鎌倉同人会の理事の一人から碑文の内容に関する疑義が持ち上がり、青年団への碑文の改刻が申し入れられました。青年団側でもそれを容れて碑を建て替えたのです。費用は鎌倉同人会が負担しました。


 幸いに原碑の撰文が記録されており(『鎌倉』第1巻第2号 1926.5)、碑文改刻の理由がわかります。十一人塚の建つ場所は元弘3(1333)年の新田義貞による鎌倉攻めの際、極楽寺から鎌倉を攻撃したものの、鎌倉方の本間山城左衛門の手兵に打ち取られた大将大館次郎以下主従11人を葬った場所で、そこに十一面観音像を建て英魂を弔ったとされています。原碑には「傳ヘ云フ新田義貞ノ勇士十一人此ノ處ニ於テ討死セルガ之ヲ葬リテ十一面観音堂ヲ建ツ」とあり、11人が討ち死にした場所がまさに碑が建つ所だと記されていました。
 一方、鎌倉町青年団によって1922(大正11)に建てられた稲瀬川碑には「義貞ガ當手ノ大将大舘宗氏ノ此ノ川邊ニ於テ討死セルモ人ノ知ル所」とあります。同じ団体によって建てられた碑2基で大館宗氏主従十一人の討死の場所が異なっていたのです。大舘軍と本間軍の戦闘について、『太平記』では大舘軍は本間軍の攻撃に八方に散り、一旦腰越まで引いたものの、大将宗氏は取って返して本間の郎等と差し違えたと記されているだけで、戦死の場所には触れられていません。ところが、『梅松論』では稲瀬川において討ちとられるとあります。稲瀬川碑碑文は『梅松論』に依拠して書かれたことがわかります。建て替えられた十一人塚碑は葬った場所であるとだけ記し、戦死場所には触れていません。
 碑文に対する疑義は大舘宗氏らの戦死場所に関わっていたことは確かで、鎌倉町青年団は新碑の碑文を松坡先生に依頼し、文責を明かにするために「田邊松坡撰并書」と刻んだのです。松坡先生による新しい碑文は稲瀬川碑との矛盾を解消し、必ずしも明確ではない戦死場所については敢えて記さないことで、戦死場所についての異説との距離を取るという考えによるのだと思われます。学者らしい優れた態度は大いに学ぶべきことです。
 十一人塚碑以外にも、碑文の書きぶりから松坡先生の手になるものに違いないと推察されるものが何基かありますが、記録もなく何とも言えません。

 鎌倉を歩いて、旧蹟保存指導票を目にする機会があれば、しばし立ち止まって簡潔で格調高い文章を味わっていただきたいと思います。

 参考までに十一人塚碑(改刻碑)の碑文を掲載しておきます。

  十一人塚  田邊松坡撰并書
元弘三年五月十九日新田勢大館又次郎宗氏ヲ
将トシテ極楽寺口ヨリ鎌倉ニ攻入ラントセシ
ニ敵中本間山城左衛門手兵ヲ率ヰテ大館ノ本
陣ニ斫込ミ為メニ宗氏主従十一人戦死セリ即
遺骸ヲ茲ニ瘞メ十一面観音ノ像ヲ建テ以テ其
ノ英魂ヲ弔之ヲ十一人冢ト稱セシト云フ
昭和六年三月   鎌倉町靑年團

※ 斫込ミ  きりこみ
  茲ニ瘞メ ここにうずめ

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【松坡文庫研究会】1/4~受付開始第四回講演会「田辺新之助の生涯」

2022/12/29

松坡文庫研究会第四回講演会「田辺新之助の生涯 教育者・漢詩人・家庭人」のご案内です。

 先日、鎌倉市中央図書館に申し込み案内がアップされました。本講演会は、令和5年2月22日(水)から26日(日)まで鎌倉生涯学習センターきらら鎌倉 地下ギャラリーで実施される展覧会にあわせて開催されるものです。

 地下ギャラリーでの展覧会は、田辺新之助に焦点をあてた「初」の「田辺新之助展」です。この記念すべき展覧会をご覧になっていただくとともに、ぜひ講演会に参加し、本校創立者であり、優れた漢詩人である田辺新之助の生涯について学びを深められてはいかがでしょうか。

講師:袴田潤一(松坡文庫研究会代表)
日時:令和5年(2023年)2月8日(水) 14時~16時(開場13時30分)
会場:鎌倉市中央図書館 3階 多目的室
定員:30名(先着順)
申込方法:【1/4受付開始

田辺新之助先生.jpg
申込方法は以下のホームページをご確認ください。
鎌倉市中央図書館HPお知らせ ←こちらをクリックしていただくと詳細お知らせページにとびます
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【松坡文庫研究会の活動】 幻の『菱花山館詩鈔』

2022/10/30

 松坡文庫研究会の袴田潤一先生よりご寄稿いただきました。公刊されることのなかった、松坡先生 幻の漢詩集について、初出資料をもとに紹介なさっています。

 松坡田辺新之助先生に『菱花山館詩鈔』と題された未定稿があります。鎌倉女学院が所蔵する田辺先生関係の「田辺文庫」の資料の一つで、本校にその複写があります。2003年の創立百周年を記念して刊行された『学祖 田邊新之助』(逗子開成学園校友会 2003.4.18)の編集委員によって複写されたものです。

 原稿は17字×12行の原稿用紙47枚に、冒頭「菱花山館詩鈔 西肥 田邊新 子慎」と書かれ、詩形(五言・七言のそれぞれの古詩・律詩・絶句)ごとにまとめられて全108首が記されており、何箇所か字句の修正が施されていますが、ほぼ定稿とみてよいでしょう。書かれている作品のそれぞれがいつ詠まれたのかは記されていませんが、松坡先生が残した新聞の漢詩壇への投稿の切り抜き帳(鎌倉市中央図書館所蔵)や書籍・雑誌に原稿中の幾つかの作品が掲載されていることを考え併せると、おおよそ明治19(1886)年頃から明治31(1891)年頃の作だと言えます。松坡先生25歳から37歳、晩翠吟社へのデビューから詩壇での地位を確かなものにした頃までの作がまとめられています。「詩鈔」の「鈔」は「写し取る、書き写す、抜き書き」という意味で、詩集のタイトルに使われる言葉です。原稿の体裁とタイトルから考えて松坡先生が明治30年代初めの段階で詩集の刊行を企図していたのではないかと推察されます。

 稿のタイトルにある「菱花山館」は松坡先生の堂号の一つで、晩年、昭和9(1934)年新築の鎌倉水道路の自宅を「菱花山館」と称しています。同年秋の松坡先生の作に「中秋菱花山館雅集席上分韻」と題された詩がありますが、松坡先生の新居での松社の詩会の折に詠まれたものです。若い頃に使っていた堂号を改めて新居のために使ったということになります。

 詩稿に収められた作品から二つみてみましょう。まず「悲老宮人(老宮人を悲しむ)」。老いたる宮人、宮中の奥向きに仕える老いた女官を悲しむ歌です。「露滴芙蓉臉損朱。雲鬟半亸又難扶。」 露は芙蓉に滴れど、臉(かお、ほほ)、朱を損い、雲鬟(うんかん)半ば亸(た)れ、又、扶け難し。頬の血色は損なわれ、かつては雲の形のように美しく結った髪も垂れてしまった老官女の描写から始まります。この詩は新聞の漢詩壇への投稿以外で初めて活字になった松坡先生の詩でもあります。『日本名家詩選』((脇屋義質編 須原屋茂兵衛 1886)に収録された五首の一つで、松坡先生の師であった大沼枕山は「語巧而格高、冝與劉後村老妓詩、為並誦矣(語は巧にして格高し、劉後村の老妓の詩より宜し、並誦為すべし)」と南宋の詩人劉克荘(1187~1269)の詩と並んで高く評価しています。松坡先生自身この詩は自信作だと自負していたと思われ、『文林』第11号(文林會 1889.12)、『西肥會雜誌』第4号(西肥會 1890.12)にも掲載されています。当然、『菱花山館詩鈔』に収められるべき詩だったのです。

 もう一作は「讀石田東陵函山雑詩題其後(石田東陵の函山雑詩を読み、其の後に題す)」。松坡先生は後に(時期不詳)、この詩を三行書に認めています。石田東陵(1865~1934)は明治から昭和前期の漢詩人で本名羊一郎。仙台の人。儒学を仙台藩藩校養賢堂の助教斎藤真典に、漢詩を国分青厓に学び、母校共立学校の教師(修身、英語)、教頭を経て、大東文化学院教授、東京文理大講師を務めた人物です。松坡先生らと共に、第二開成学校設立者の一人でした。松坡先生とは同僚であっただけでなく、漢詩を通じての深い親交がありました。『菱花山館詩鈔』には他に「遊高尾山次韵石田東陵詩(高尾山に遊び、石田東陵の詩に次韵す)」、「與東陵訪佐和東野翁曖遠村荘翁有詩次韻(東陵と佐和東野翁の曖遠村荘を訪ぬ、翁に詩有り、次韻す)」と題された詩が収められています。石田東陵は昭和9(1934)年に亡くなりますが、その死を悼んだ松坡先生は「哭石田東陵四章」で東陵との交誼の思い出を詠じ、後に東陵について「東陵は實に達筆の人であり書を讀むことも頗る早く學問文章余が七十餘年の閲歴中未だ曾て睹ざるの奇才であった」と語っています(『漢詩春秋』第20巻第1号 1936.1.1)。

 原稿のみが残され、実現しなかった『菱花山館詩鈔』ですが、そこに収められた詩からは松坡先生の人生の諸相が垣間見られ、大変に興味深いものです。

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田辺松坡詩軸「讀石田東陵函山雑詩題其後」詩(個人蔵)

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「哭石田東陵四章」より第一首(『漢詩春秋』所載)

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【松坡文庫研究会】 箱根温泉村新道碑

2022/09/01

9月1日防災の日にちなんで、松坡文庫研究会の袴田潤一先生よりご寄稿いただきました。

【松坡文庫研究会の活動】 箱根温泉村新道碑

 9月1日は防災の日です。「広く国民が台風、高潮、津波、地震等の災害についての認識を深め、これに対処する心構えを準備する」ことを目的に、1960(昭和35)年に制定されました。99年前の9月1日に起きた関東大地震とそれに伴う災害にちなんでのことは言うまでもありません。

 箱根の底倉温泉に「箱根温泉村新道碑」と刻まれた碑があります。火山・防災対策に取り組んでいる箱根ジオパークの調査により碑の現状がわかり、国土地理院のホームページでは「自然災害伝承碑」の一つとして紹介されています。『神奈川県における関東大震災の慰霊碑・記念碑・遺構 その2 県西部編』(名古屋大学減災連携研究センター 2015)にも記載があります。関東大地震で大きな被害のあった温泉村周辺の道路の復旧と、地震で崩落した八千代橋に代わって架けられた新たな橋の落成を記念して建てられたものではないかと推察されています。

 碑は箱根町底倉を流れる蛇骨川(早川の支流)に架けられた八千代橋(現在の八千代橋は震災後の第三代の橋の少し下流)の北詰め西側、川の左岸の崖際にあります。川に向かう面には「箱根温泉村新道碑」と題された七言律詩が刻まれ、「大正十四年八月 松坡居士」とあります。山側の面には「八千代の橋...」と読める句が刻まれていますが、詳細は不明です。碑が崖際にあることと、その地が不動産会社の管理下にあって施錠された柵がめぐらされていることから、現地調査は行なっていません。

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箱根底倉に建つ「箱根温泉村新道碑」(箱根ジオパーク提供)

 1923(大正12)年9月1日午前11時58分に発生したマグニチュード7.9(推定)の関東大地震が箱根温泉に及ぼした被害は甚大でした。蛇骨川に架かる八千代橋は崩落、周辺の旅館やホテルは、崖崩れにより谷底へ崩落、或は倒壊しました。『箱根温泉史』(箱根温泉旅館協同組合編 1986)によれば、「八千代橋上ヲ疾走中ノ自動車」が橋もろとも「十三丈余ノ渓谷ニ墜落シ運転手ガ即死」するような事故も起きたといいます。旧温泉村では焼失30戸、全壊74戸、半壊121戸、死者24名、行方不明者15名の被害が発生したと記録されています。温泉村では復旧に全力を挙げ、箱根全山の国道が復旧し、祝賀大会が開かれたのが1925(大正14)年7月、八千代橋もその年に落成しました。碑に「新道碑」「大正十四年八月」とあることから、この碑は温泉村の震災からの復興を記念して建てられたのではないかと考えられているのです。

 さて、碑の撰文(漢詩)が松坡先生によるものであることから、建碑に大きく関わった人物は底倉蔦屋旅館の主人「澤田カズ(金偏+和)義」ではなかったかと推察されます。松坡先生は箱根をこよなく愛し、しばしば足を運びましたが、逗留先は決まって蔦屋旅館で、先生が鎌倉で主宰した松社同人による先生の八十歳の寿筵(1941年3月23日)も蔦屋で開かれています。澤田氏と松坡先生は非常に親しい仲でした。また、澤田氏は旅館の広大は敷地に「高山園」と名付けた林園を営み、箱根の史跡や自然を称える石碑を数多く建てました。それらの幾つかの碑の撰文・題額は松坡先生によるものです。蔦屋旅館は経営者が代わり、高山園も廃絶したので、碑も亡失していますが、『筥嶺徴古帖』(蔦屋高山園1922)によって碑文などを知ることができます。「箱根温泉村新道碑」は蔦屋高山園主澤田氏と松坡先生の協力によって建てられたのでしょう。

 碑に刻まれた漢詩を紹介しておきます。書き起こしは碑の写真と『鎌倉そして鎌女』(鎌倉女学院1981)所載の碑の拓本を参考にしました。

   箱根温泉村新道碑

荐役五丁穿地根   役を荐(かさ)ねること五丁 地根を穿つ

御風容易達天門   風を御すること容易にして 天門に達す

澗頭橋影虹蜺架   澗頭の橋影 虹蜺架り

木末輪聲霹靂奔   木末の輪声 霹靂奔る

太閤坐湯留石窟   太閤 湯に坐し 石窟を留め

高山仰止有林園   高山 仰止せば 林園有り

四時景象皆奇絶   四時の景象 皆 奇絶なり

豈啻温泉潤一邨   豈に 啻だ 温泉のみ 一邨を潤さんや

 第1句は復興の苦労、第3句では虹に譬えて新しい橋の落成、第5句は蛇骨川の太閤石風呂の遺構が詠まれ、第6、7句では高山園と箱根の景勝が称えられています。

 逗子開成中学校・高等学校の校地は逗子海岸に隣接しており、2011年3月11日の東日本大震災を機に津波対策、防災教育・対策に力を入れています。防災の日を機に、自然災害に伴う被害を最小限に止め、自らの命を守ることについて改めて考えてほしいと思います。

箱根ジオパーク「火山・防災対策」のページ

 https://www.hakone-geopark.jp/kazan-bosai/

国土地理院「自然災害伝承碑」のページ

 https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi.html

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【松坡文庫研究会】第三回講演会「松坡先生、鎌倉を詠う」

2022/08/31

 松坡文庫研究会の第三回講演会をご案内いたします。本年、本校においてその存在がはじめて確認された『鎌倉風景拾二帖』(画・大橋觀籟/題・田辺松坡)も紹介予定とのこと。奮ってご参加ください。


タイトル:「松坡先生、鎌倉を詠う」
日 時 :2022年10月8日(土)14:00~16:00
講 師 :袴田潤一(松坡文庫研究会代表)
会 場 :鎌倉商工会議所 3階301会議室

(今までの会場と異なりますので、ご注意ください)

松坡文庫研究会は、2018年に設立され、鎌倉市中央図書館の「松坡文庫」(田辺新之助旧蔵書)及び田辺新之助先生その人についての調査を行っています。

 講演会の申込開始は、9月1日(水)となります。参加申込方法、会場地図等につきましては、以下のチラシファイルをご確認ください。

20220831松坡先生,鎌倉を詠う.png

*なお、新型コロナウイルス感染症対策として、「三密」回避のため定員をしぼって実施いたします。定員を超えてしまう際はご容赦ください。また、感染拡大による社会状況の変化によりましては、中止の場合もございますこと予めご了承ください。

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【松坡文庫研究会】田辺松坡の詩扇面

2022/07/10

松坡文庫研究会の袴田潤一先生よりご寄稿いただきました。鎌倉市中央図書館の所蔵になった詩扇面二点について、漢詩のみならず、その由来や背景についてご紹介くださいました。

【松坡文庫研究会の活動】田辺松坡の詩扇面

 鎌倉市中央図書館に松坡先生の詩扇面二枚があります。松坡先生が日本画家の西松秋畝に贈ったもので、秋畝のお嬢様で、やはり日本画家の西松凌波さんから図書館に寄贈されました。

 西松秋畝(にしまつ しゅうほ 1875~1963本名は団三)は岐阜県出身の円山四条派の日本画家で、東京美術学校では荒木寛畝と川端玉章に学びました。雅号の「秋畝」は荒木寛畝の弟子であることを表しています。卒業後、神戸の中学校で教鞭を執りましたが、恐らく明治30年代末頃から神奈川県師範学校で教えるようになりました。教員としての経験を活かして、『最近図画教授法』(宝文館1903)、『改正小学校令適用図画科教授法』(白浜徴 訂 鍾美堂 1907)などの著作もあります。画家としては荒木寛畝が主催した読画会(1905~1945)や帝展などに出品しています。読書会第一回には「鴨」と題された作品を出品し、それは『美術画報(十八編巻六)』(1905.12.20) や『読画会画集 第1集』(画報社1906)に収録されています。

 師範学校在職の西松先生のことは卒業生が次のように回想しています。

 圖畫の最初の時間先生は默つて一つメンツウの寫生を命じられた。大柢のものが徑を高さより短かくしたり、上の底の圓の投影を誤つた。そして後で先生は生徒に實物を計らせて其の誤りを直觀させて、さて曰く「君たちの目は腐つてゐる。なつてをらん」そして一々小學校の恩師の名を言はせられてしまつた。臺詞もどきの先生の第一演説には大柢ふるへ上つてしまつた。
(大正8年卒業 新川正一「先生の印象」 『創立六十年記念誌』神奈川縣師範學校1935)

 歯に衣着せぬもの言いの、厳しい先生だったようです。因みに「メンツウ」とは面桶。一人前ずつ飯を盛って配る曲げ物で弁当箱として用いられました。

 秋畝は神奈川県師範学校在職中、鎌倉女学校校長を務めていた松坡先生(田辺新之助先生)の懇請により、大正3(1914)年に同校の講師となりました(昭和14年頃まで在職)。『鎌倉そして鎌女』(鎌倉女学院1981)の末尾に付された旧職員名簿の大正期の欄に西松団三の名があります。また、創立25周年記念式典(1929年)に際し、勤続者として表彰されています。

 鎌倉女学院での秋畝の仕事として記録されているのは、大正14(1925)年度の入学生から使われた同校最初の校章の図案を考案したことです。『鎌倉そして鎌女』には、「松皮菱の中心に三つの松の実があって、その実から松の葉が放射状に伸び」、鎌高女の三字が配置されている図案だとあり、学校が海岸付近一帯の松林の中にあったことと、田辺新之助校長が「松坡」と号していることによる図案だと秋畝自身が語っていたとも記されています。松坡先生が秋畝に扇二本を贈っていることとからも、秋畝と松坡先生とは一講師と校長という関係だけでなく、芸術(美術と文学)を通した友情で結ばれていたと思われます。

 さて、秋畝旧蔵の詩扇面を見てみましょう。一つは扇の形として残っているもの。五言絶句が書かれています。

  朱文方印(刻字不詳)
林下卜幽居     林下 幽居を卜し
竹間通細逕     竹間 細逕に通ず
誰云韓子廬     誰か云う 韓子の廬と
有意占名勝     意有りて 名勝を占む
   癸酉夏日 松坡居士  白文方印「子愼」 朱文方印「松坡」

 俗塵を避けて静かにひきこもって暮らすための廬(庵)がまるで「韓子」の廬のようだと言っています。韓子は韓愈(768~824)をいうのかも知れません。その廬が風情のある見事な風景を独り占めしているのだと詠じています。癸酉は昭和8(1933)年。この詩は「夏日偶成七首」の第五首として『漢詩春秋』第17巻第7号(1933.7.1)に掲載されたものですが、秋畝の鎌倉の住まいを詠っているかのような詩であり、松坡先生自ら扇面に認めて秋畝に贈呈したのです。

 もう一つは扇骨から剥がされて台紙に張られた状態のもの。七言絶句が書かれています。

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西松秋畝旧蔵の松坡詩扇面(鎌倉市中央図書館蔵 西松凌波氏寄贈)


白文方印(刻字不詳)
滅却二千年道徳   滅却す 二千年の道徳
西来邪説難防得   西来の邪説 防ぎ得ること難く
時危誰不念英雄   時 危きに 誰か英雄を念わざる
奈此東方君子國   此の東方君子の国をいかんせん
 秋畝画伯正之
  松坡居士 白文方印「子愼」 朱文方印「松坡」

 二千年道徳、日本古来の道徳が失われてしまい、西来の邪説(西洋の宗教や道徳、個人主義的風潮か)の蔓延を防ぎきれないことを歎ずる詩。危急の時に英雄の登場を願っています。松坡先生がこの詩を詠んだ時期についてはっきりしたことは判りませんが、この詩が書かれた書が逗子開成中学校創立30周年を記念して生徒に贈られています(書は創立三十周年記念後報1933.3に掲載されていますが、現在、書そのものの所在は不明です)。「時 危きに」、危いと表現されたことで松坡先生が何を考えていたのでしょうか。

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松坡先生の書(『修養會誌』臨時増刊號 創立三十年記念後報 所載)


 松坡先生が親しく交際した西松秋畝に贈った詩扇面がその死後もお嬢様によって大切に保管され、更に松坡文庫のある鎌倉市中央図書館に寄贈されたことはまことに喜ばしいことです。しかもそこに書かれた詩の一篇は逗子開成にも所縁のあるものなのです。

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【松坡文庫研究会】田辺松坡、晩翠吟社にデビュー

2022/05/22

松坡文庫研究会の袴田潤一先生よりご寄稿いただきました。先生は、先日デジタル公開されたばかりの『晩翠吟社詩巻』(鎌倉市中央図書館蔵)を活用され、田辺松坡の晩翠吟社デビューについてはじめて言及されています。今後の史料分析が楽しみとなる本文です。

【松坡文庫研究会の活動】田辺松坡、晩翠吟社にデビュー


 松坡先生は晩翠吟社の詩会の記録である『晩翠吟社詩巻』について次のように記しています。


「晩翠吟社詩巻は岡崎春石君に由りて保存せられ、首巻より十一巻迄は余が宅に在り、十一巻は明治
十七年十二月に終り居るが、翁(吉田竹里 袴田注)の作は未だ見當らぬ。以下十二巻より廿二巻ま
では春石君の處に在れば之を調べれば分明ならん。」

(田邊新之助「吉田竹里翁逸事」『吉田竹里・吉田太古遺稿集』1942 p.22)

 この文章が書かれた1942(昭和17)年頃、『晩翠吟社詩巻』の初めの十一巻が松坡先生の手許にあったということから、鎌倉市中央図書館の松坡文庫にそれが含まれているのではないかと考え、調査したところ幸いにも発見することができました。2019年6月末のことでした。翌年2月の研究会にゲストとして参加された町泉寿郎先生(二松学舎大学教授 中国文学科)にお見せしたところ、「ここにあったのか!」と大変に驚かれた貴重な資料です。その重要性から鎌倉市中央図書館では資料のデジタル化を進めることにしました。鎌倉市図書館振興基金を利用して、全十一巻について、和綴を一旦解体した上で、全丁を写真に撮ってデジタル化し、再び綴じ直すという作業が行われました。現在、全デジタルデータは図書館のホームページで閲覧できるようになっており、近代日本漢詩研究者が自由に閲覧できます。鎌倉市図書館の大きな財産です。

 『晩翠吟社詩巻』第一巻から第十一巻は、同社の明治11(1878)年11月5日の第三回詩会から明治18(1885)年4月15日の別集までの全79回の詩会(月一回)について、参会者の掲題詩及び当日の席上分韻詩が漏れなく記載されています。例えば、第三回詩会の掲題は「月前菊」「過桶峡」、席上分韻は「瀧川觀楓」といった季節感溢れるもので、盟主である杉浦梅潭はじめ、東久世竹亭(通禧)、中澤機堂(見作)、鎌田醉石(景弼)ら12名の参会者の詩が記録されています。作者名を伏せて記録された全ての詩は批正者(初期は大沼枕山)の朱筆が加えられています。批正を経た記録に作者名を記入し、詩会毎にまとめられ、更にほぼ一年分を綴ったのが各巻になっているのです。『晩翠吟社詩巻』は明治期を代表する漢詩人が詠んだ詩を、大沼枕山や岡本黄石などの第一人者がどのように添削したかが如実にわかる資料なのです。詩会ごとの掲題・席上分韻・参会者を調査すると、漢詩研究者でない私にとっても非常に興味深いことがわかりますので、漢詩研究者にとっては貴重な研究資料でしょう。

 詳細な研究は専門家に任せるとして、私たち研究会にとって関心があるのは田辺新之助先生のこと。先生は若い頃から晩翠吟社に参加し、明治23(1890)年頃から幹事を務めて杉浦梅潭を助けて、毎回の詩巻の整理や、会日の事務などを処理していました。

『詩巻』から田辺新之助、田辺松坡の名前を探したところ、第九巻 第六十八号詩巻 明治17(1884)年4月5日の詩会の18名の参会者一覧に、

 神田猿楽町三丁目三番 田邊新之助君

と初めて出てくるのを発見しました。記録されている漢詩は「田辺松坡」の名で四首(「讀呉梅村集」二首、「病僧」一首、「江寺春殘」一首)。田辺新之助は「松坡」の号で晩翠吟社にデビューしたのです。多くの大家に混じっての23歳の青年で、共立学校の英語・地理教員として勤め始めて3年目のことでした。

『晩翠吟社詩巻』九 参会者一覧.jpg

明治17(1884)年4月5日の晩翠吟社詩会参会者一覧
田辺新之助と向山黄村の名が並んで記されている
(鎌倉市中央図書館蔵)


 ところで、「田辺新之助君」の号「松坡」については、同郷の建築家曾禰達蔵の死を悼んで書いた「曾禰鶴洲博士を偲びて」(『建築雑誌』昭和12年2月)という文章の中で松坡先生自身が語っています。

明治十七年頃と記臆(ママ)しますが、唐津の先輩、中澤機堂先生を頂きて、下二番町の小笠原子爵邸の一室に捜天吟社と稱する詩會を開いた。參會した者、曾禰、天野、百束の三氏と私であつた。時に中澤先生は我等の雅號を選定せられた。曾禰君は鶴洲、天野君は淞村、私は松坡と號した。

 松坡先生が記憶しているという「明治十七頃」は新之助が晩翠吟社にデビューした時期です。晩翠吟社例会への参加に当り、雅号が必要だろうとのことで、唐津の先輩であり晩翠吟社社員でもあった中澤機堂が号を選定したのだと思われます。中澤機堂はアーネスト・サトウの日本語の先生で、唐津滞在中の高橋是清に漢籍の手ほどきをした人物でもあります。

 第68回詩会以後、松坡先生は晩翠吟社例会にほぼ毎回参加するようになります。そして、その2年後、同じく晩翠吟社に参加していた脇屋清齋(義助)の編になる『日本名家詩選』で若き漢詩人として漢詩壇に颯爽と登場することになるのです。

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【松坡文庫研究会】田辺嫰さんの肖像レリーフ

2022/04/27

松坡文庫研究会の活動 田辺嫰さんの肖像レリーフ

 小さな肖像レリーフ(円形 径150㎜ 銅製)があります。象られているのは微笑む若い女性。着物姿で洋髪、髪飾りをつけているようです。

田辺フタバ肖像レリーフ.jpg               

 田辺新之助先生の次男、黒田清輝門下の洋画家田辺至(1886~1968)が制作したもので、左下に篆体の「至」字が刻まれています。

 女性の名は田辺嫰(たなべ ふたば)、制作されたのは昭和15(1940)年頃です。同じようなレリーフは複数制作されたようですが、これはそのうちの一つです。

 田辺嫰は大正7(1918)年6月14日に至とその妻である操(田澤雄太郎の長女、青鞜社に参加。)との間の長女として生まれました。兄に穣(1916~1982 画家)、弟に茂(1920~1923)がいました。至は大正11(1922)年から文部省在外研究員として美術研究のためヨーロッパ諸国に赴き、その後、妻の操は渡欧した(大正12年の前半だと思われる)ため、穣・嫰・茂の三人は操の妹である光(画家吉村芳松の妻)に預けられました。吉村芳松・光夫妻も至がアトリエを構えていた東京田端光明院敷地内に住んでいました。至夫妻の帰国は大正13(1924)年末で、幼い嫰は4歳から3年間ほど寂しい思いで過ごしたに違いありません。嫰は長じて東京女子大学に進んで勉学に勤しみ、友人にも恵まれていたようですが(親友の一人が外相を務めた園田直に嫁いだ松谷天光光でした。)、卒業を間近にした昭和14(1939)年12月30日、盲腸の悪化により死亡。

 至・操夫妻にとっても、嫰の祖父にあたる新之助先生にとっても大きな悲しみでした。

 松坡先生(田辺新之助先生)に「己卯十二月三十日、傷孫女嫰急亡(孫女嫰の急亡を傷む)」と題された七言絶句(二首)があります。其の一は次のようなものです。

歳云暮矣冽風霜           歳ここに暮れ 風霜冽し
菊後梅前景太荒           菊後 梅前 景 太だ荒たり
殘臘一庭斜照下           残臘の一庭 斜照の下
山茶花落有微香           山茶花落ちて 微香有り

 冽は寒い、冷たい。菊後梅前は菊も咲き終わった後で、梅はまだ咲かない時期。殘臘一庭は残り少ない蠟月(陰暦十二月の異称)の庭。斜照は斜めに照らす夕日です。菊は散り、梅はまだ咲かないけれど、咲いていた山茶花(中国では椿をいいます)が落ちてしまった。山茶花(椿)の花は花びらが一枚ずつ散るというのではなく、花ごとぽたりと落ちるので、ここでの「山茶花落」は嫰の急死に譬えています。「微香」は嫰の思い出です。山茶花は香り高い花です。

嫰の父である至がその思い出のために制作したのが、写真を掲出したレリーフです。至のお孫さんが何点か所蔵されています。

ところで、嫰の死の5年前の昭和9(1934)年の初め、新之助は次女秀の一人娘武子を喪っています。武子は22歳の若さでの自死でした。武子の死を悼んだ詩(「悼横地武子」)の第二句には「掌中之玉一宵摧  掌中の玉 一宵にして摧(くだ)ける」とあります。

 至の制作になる嫰の肖像レリーフを前に、至や操、新之助、鍈の気持ち、また武子のことを考えました。

 三男四女に恵まれた新之助・鍈夫妻ですが、三人の男児(元、至、定)に比して、四人の女児は幸薄かったと言えます。長女三千は男児を生んだ直後に20歳で死去、次女秀は武子出産後まもなく寡婦となり、女手一つで育てた娘武子は22歳で自死、四女信は生後僅か11日で夭折。三女の淑は野沢氏に嫁し三人の男子(謙、協、敬)を生み育て、83歳まで生きましたが、最期は蓼科の山荘の二階の階段からの転落死だったそうです。(松坡文庫研究会)

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【松坡文庫研究会】呉昌碩の書

2022/03/26

松坡文庫研究会の活動  呉昌碩の書

 鎌倉市中央図書館に田辺松坡先生への為書の付された呉昌碩の書(絹本 篆体四字)があります。このたび、鎌倉市図書館振興基金活用事業の一つとして、同様に松坡先生への為書のある小野湖山の書、松方正義の書と共に修復保存とデジタル化が行われました。

 呉昌碩(ご しょうせき 1844~1927)は、中国清朝末期から民国にかけて活躍した画家・書家・篆刻家で、清代最後の文人といわれ、詩・書・画・篆刻ともに精通し、「四絶」と称賛されています。中国近代で最も優れた芸術家であると高く評価されています。

 篆体の四大字は「陶謝流風」。陶淵明(365~427)と謝霊運(385~433)の二人の優れた詩人が遺した美風ということです。陶淵明も謝霊運も晋末宋(南朝)初の詩人で、前者は田園詩をよくし、後者は山水詩に長じ、共に自然景物を描くことに優れていました。最初に「陶謝」と併称したのは杜甫でした。呉昌碩は松坡先生に陶謝の詩風を継ぐべしと告げようとしたのでしょう。

呉昌碩「陶謝流風」.jpg

呉昌碩 篆体「陶謝流風」書額(鎌倉市中央図書館蔵)


 引首印(朱文方印 刻字不詳)、篆書「陶謝流風」の後に七言絶句が添えられています。

依稀仙子住蓬莱   仙子に依稀し 蓬莱に住す
五字長城七歩才   五字の長城 七歩の才
安得愚公破成柊   安んぞ 愚公 成柊(=終)を破るを得ん
榑桑風色年移来   榑桑の風色 年移り来たる

 依稀は似ているさま、長城・七歩才は優れた詩文をたちどころに作る才を称える語です。愚公が終に山を動かした(「愚公山を移す」の故事)のは何に拠るのだろうか? 結句は榑桑、つまり太陽の出る所(日本)にあるという伝説上の神木の姿を詠じていますが、松坡先生を喩えているのでしょう。松坡先生に対する呉昌碩の最大の賛辞です。

為書「松坡先生属篆乞時正甲子夏日雨窓八十一叟呉昌碩(松坡先生、篆を属さんことを乞う。時正に甲子夏日雨窓。八十一叟呉昌碩)」から、この書が贈られた時期が判ります。1924(大正13)年夏、呉昌碩は81歳でした。

 姓名印は「俊卿」、雅号印は「倉碩」。

 体裁も整った見事な書で、修復が成ったのは本当に嬉しいことです。

 この書に対して、松坡先生は感謝の意をこめた七言律詩を詠んでいます。遠い中国上海の呉昌碩先生の八十一歳に祝杯を上げた(燈下一宵稱壽觴 燈下の一宵、寿觴を称う)とあります。

 ところで、呉昌碩の詩にある愚公の故事ですが、愚公が山を動かし得たこと、松坡先生が優れた詩を詠み続けてきたこと、それはいったい何によるのでしょうか。

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【松坡文庫研究会】第二回講演会「晃陽片野玄貞と田辺松坡」

2022/02/27

松坡文庫研究会の第二回講演会をご案内いたします。


タイトル:「晃陽片野玄貞と田辺松坡」
日 時 :2022年4月10日(日)13:30~15:30
講 師 :袴田潤一(松坡文庫研究会代表)
会 場 :鎌倉婦人子供会館ホール

松坡文庫研究会は、2018年に設立され、鎌倉市中央図書館の「松坡文庫」(田辺新之助旧蔵書)及び田辺新之助先生その人についての調査を行っています。

20220410 講演会チラシ.jpg

今回の講演会では、鎌倉において日蓮宗布教に努められた僧片野玄貞(かたのげんてい)と田辺松坡の関係・交流、両者の漢詩などを軸に、大正~明治初期の鎌倉の文化状況について明らかにします。申込開始は、3月1日(火)となります。参加申込方法、会場地図等につきましては、以下のチラシPDFをご確認ください。

20220410「晃陽片野玄貞と田辺松坡」チラシ.pdf

*なお、新型コロナウイルス感染症対策として、「三密」回避のため定員40名で実施いたします。定員を超えてしまう際はご容赦ください。また、感染拡大による社会状況の変化によりましては、中止の場合もございますこと予めご了承ください。

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松坡文庫研究会の活動 大浦兼武の田辺新之助宛書簡

2022/02/08

松坡文庫研究会代表の袴田潤一先生より新資料紹介文をご寄稿いただきました。田辺新之助先生の研究のみならず、本校の創設や鎌倉別荘研究等に資する新出資料の紹介です。お時間ございます時にご覧ください。

*なお、松坡文庫研究会の過去の活動につきましては、トップページ右上「ニュース」よりカテゴリの「松坡文庫研究会」からすべてお読みいただけます。これを機会にご確認ください。また、松坡文庫研究会では講演会を準備しております。改めて情報発信いたしますので、今後もご確認ください。

                                                

「大浦兼武の田辺新之助宛書簡」

 田辺新之助先生に宛てた大浦兼武の書簡があります(国立国会図書館 憲政資料室)。幸いに封筒も保存されており、消印と文面から「明治38年10月20日」のものだと判ります。宛先は「相州三浦郡逗子開成中学分校 田辺新之助様」。「逗子開成中学分校」は(東京)開成中学校の逗子の分校の意でしょう。


 大浦兼武(おおうら かねたけ1850~1918)は薩摩出身の官僚政治家。1871(明治4)年、邏卒小頭として警察に入り、以後警察官僚の道を歩み、山県有朋系官僚として島根・山口・熊本各県知事を歴任、1898年(明治31)年に警視総監となります。1900(明治33)年勅選貴族院議員となり、桂太郎内閣で逓信大臣、農商務大臣、内務大臣を歴任しました。1914(大正3)年、第二次大隈重信内閣には農商務相として入閣しましたが、議会解散に伴い翌年内相に転じて総選挙を指揮し、与党を大勝に導いた功もあります。しかし、第36特別議会で選挙干渉と前議会での議員買収の責任を問われて辞任し政界を隠退しました(所謂「大浦事件」)。鎌倉長谷に別荘を構えていました。

 手紙が書かれた時点で大浦兼武は59歳で第一次桂太郎内閣の逓信大臣、田辺先生は47歳、東京開成中学校・第二開成学校・鎌倉女学校の三校の校長を兼務していました。

大浦兼武書簡.jpg

田辺新之助宛大浦兼武書簡
(国立国会図書館憲政資料室所蔵 田辺定関係資料より)


 癖の強いくずし字で認められた書簡冒頭は次のように読めます。

   拝啓昨夜平岡氏
   来訪三井ノ早川氏
   方ニテ五千円低
   利ニテ高橋是清
   氏ノ帰朝迠立替
   エルトノ事ニ御座候

 昨夜平岡氏が来訪し、三井の早川氏(千吉郎1860~1922 この時三井銀行専務理事)の方で、高橋是清が帰朝するまで五千円を低利で立て替えるとのこと。

 平岡氏は不詳、高橋是清は日本銀行副総裁で、この年2月から政府特派財政委員として英国駐在中でした。田辺先生が高橋是清から(或いは是清を通じて)受けることになっていた(或いは受けた)融資の五千円(或いは融資額の一部である五千円)を三井が低利で立て替えるという申し出を大浦兼武が伝えています。保証人については平田男(=平田東助 当時農商務大臣)に相談する、と続きます。逗子の中学校の財政窮乏を救うことに、日銀副総裁、逓信大臣、農商務大臣、三井専務理事が関わっているのです。改めて言うまでもありませんが、高橋是清は唐津での少年時代以来の田辺先生の恩師でした。

 高橋是清は1906(明治39)年春(恐らく2月)に帰国しましたが、三井からの低利融資が実現したのか、高橋是清からの融資がどうなったのかは資料がなく残念ながら不明です。

 「第二開成中学校長兼総代」田辺新之助の名で出された寄付募集に応えて高橋是清が千円を寄せたのは同年5月のことでした。

 大浦兼武のこの書簡は草創期の第二開成学校、第二開成中学校を考える上で非常に重要な資料です。また、それと同時に、田辺先生と大浦兼武、早川千吉郎との関係を考える上でも重要な資料です。これまでの校史では、大浦兼武はボート遭難後、財政的に二進も三進もいかなくなっていた逗子開成を救った神田鐳蔵の登場を斡旋した人物として語られてきました。そうした大浦兼武と田辺先生が明治30年代後半からこの書簡に見られるような関係にあったということが判りました。

もう一つは、この書簡が所謂「別荘族」の実態を照らすことです。鎌倉逗子には多くの実業家・政治家・軍人が別荘を構えており、彼らは複雑な交友関係を築いていました。それは本職を離れて趣味の世界にも浸透していました。大浦兼武は金竹と号して漢詩を嗜みましたので田辺先生と繋がります。極楽寺に別荘を構えていた早川千吉郎は後に鎌倉同人会が社団法人化される際の発起人の一人に名を連ねています。鎌倉同人会は田辺先生がその名を命名し、趣意書を起草しました。平田東助は逗子鳴鶴浜に別荘を構えており、田辺先生は後にその別荘(鳴鶴荘)を漢詩に詠んでいます。重責を負い激務にある政治家・実業家が別荘で過ごす中、その地の文化人と交わることでゆったりとしたひと時を過ごした様子も想像できると言えば行き過ぎでしょうか。

 最後に一言。大浦兼武は1918(大正7)年9月30日、鎌倉長谷の別荘で急逝しました。田辺先生は四首から成る輓詞を捧げています。田辺先生の大浦兼武への思いが伝わる詩で万感胸に迫るものがあります。

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【松坡文庫研究会】ファンタスティック☆ライブラリー110参加中

2022/02/08

鎌倉市図書館の図書館まつり(ファンタスティック☆ライブラリー110)が、2/11より開催中です。昨年度と同様、市内5つの図書館巡りのパネル展示と図書館HPでの開催 です。松坡文庫研究会では、パネル展示と紹介動画で参加しています。

タイトル:「石に刻まれた松坡」

パネル展示:2/23(水)~3/5(土) 深沢図書館

      2/27(日)~3/13(日) 玉縄図書館

      3/8(火)~3/13(日) 大船図書館

本校創立者の一人である田辺松坡先生の撰文や書が刻まれた石碑などを紹介しています。

なかなか足を運ぶことのない?大船観音や玉縄城跡を巡りがてら各図書館を訪れ、田辺松坡先生の仕事を学んでみてはいかがでしょうか?

石に刻まれた松坡.png

なお、ファンタスティック☆ライブラリー110のHPは以下です ↓

https://lib.city.kamakura.kanagawa.jp/opw/OPW/OPWNEWS.CSP?PID=OPWAPINEWS&DB=LIB&MODE=1&CLASS=ALL&IDNO=100840

また、前回同様に会代表の袴田先生が鎌倉市公式チャンネルに登場!!是非ご覧ください ↓

https://www.youtube.com/watch?v=1ISBY0Y_Z2U

なお、昨年度の動画も継続してアップされていますので、見逃している皆さんは、この機会にどうぞ!

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愛情あふれる手紙 三男定への松坡先生の手紙

2021/12/20

松坡文庫研究会の活動  愛情あふれる手紙 三男定への松坡先生の手紙

 田辺松坡先生が移住先ブラジルの三男定(さだむ)に宛てた心温まる手紙があります(国立国会図書館憲政資料室 ブラジル移民資料)。松坡先生には三人の男子がいます。長男は哲学者で文化勲章を受章した元、次男は黒田清輝門下で東京美術学校教授の至で、両名とも著名な人物ですから多くの資料もあります。1927(昭和2)年にブラジルに移住し、生涯をそこで送った三男定について語られることは殆どありません。

 定は1904(明治37)年、新之助・鍈の三男として東京小石川に生まれました。長兄元は20歳、次兄至は19歳でした。県立厚木中学校に入学しますが、1921(大正10)年4月逗子開成中学校4年生に転入し(1920年4月、松坡先生は自ら厚木中学校の大屋八十八郎校長を訪ねています、定の学業のことなどを相談したと思われます)、1923(大正12)年に卒業しました。その後、1924(大正13)年、志願兵として騎兵第一連隊入隊、1927(昭和2)年父の友人青柳郁太郎の紹介で海外興業株式会社嘱託員となり、ブラジルに渡りました。定24歳でした。ブラジルでは種畜牧場勤務を経てモジ・ダス・クルーゼス・コクエーラ植民地に入植し、文具・日伯書籍などを扱う店を経営、戦後はモジの認識運動に挺身、日本に救援物資を発送、日本との輸入杜絶期間に図書クラブを組織するなどブラジルにも母国日本にも大きな貢献をしました。

 その定に宛てた「七月三十一日」の日付のある手紙です。冒頭に、

  去五月廿七日結婚相済候由大慶之至ニ御座候

とあります。定から「5月27日に結婚しました」との来信があり、それへの返書だと判ります。松坡先生の「辛未新年」(辛未は1931年)と題された詩の一句に「眷属今茲一口加(眷属今茲に一口加わる)」とあり、自注に「三男在南米、去夏娶妻」とあることから、この手紙が1930(昭和5)年のものであることも判ります。手紙は次のように続きます。

  今後ハ今迠より責任重き御體ニ相成候間益々用意周密にして健康ハ勿論一擧一動ニ注意を要し候
克く々々先輩の意見を徴し輕率の事無之様被致度候

父であり教育者でもあった田辺新之助先生の子への誡語です。「辛未新年」詩には「不歎萍迹尚天涯(萍迹 尚お天涯にあるを歎かず)」ともあります。萍迹は浮草の跡、あちこちさまよって一定の所に住まないたとえ、天涯は空の果て、故郷を遠く隔たった地のことです。27歳になって結婚したとは言え、異郷に暮らす子のことを思う気持ちが溢れています。

 鍈さんの思いも記されています。

母は貴様の身上ニ付不一方心配致居候暮々も無理之事をせぬ様被致度候

「不一方(ひとかたならず)」は尋常一様でないということです。短い言葉の中に思いが籠められています。

以下、手紙は結婚に当たっての手続きに触れ、結びは「餘ハ後便可申入 以上」。

 この手紙を含む資料群は国立国会図書館がブラジルで移民関係の資料収集に当たっている折、1985年に定本人から寄贈されたものです。定がこの手紙を長く大切に保管し、貴重な資料として国会図書館に寄贈した思いも伝わります。

 定とその妻亀子の間には結婚の三年後1933(昭和)年に力(つとむ)が生まれました。その力さんが奥様の麻子さんと地球の裏側から祖父新之助・祖母鍈の墓参に訪れたのは2007(平成19)年5月終わりのことでした。

田辺新之助書簡.jpg

田辺定宛田辺新之助書簡

(国立国会図書館憲政資料室所蔵 田辺定関係資料より) 

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【松坡文庫研究会】荒浪煙厓と松坡田辺新之助

2021/11/16

明治27、8年頃、飯田町練兵場近くの松坡先生宅の隣人が、田辺家の様子を記しています。

當時隣家にあった松坡氏宅の家庭は、子息二人娘一人に老母と夫婦の六人暮しであり、竹の垣根を隔てた丈けであり、子供らの騒ぐ聲など手にとる様であった。長男は元(はじめ)と云ひ、後に京大教授文博、文化勲章拝受者である。二男は至と云ひ、後に洋畫の大家となった。此兩人の喧嘩などすると、それを制するのがいつも老母の聲ばかりで、ハジメ、イタルと云ふ聲は頻に聞えるが、一向主人公の聲を聞かぬ。先生は留守かなと思ふ位であった。

これは『名流の風概』(1954 非売品)に収められた「田邊松坡」の項の一節で、書いたのは荒浪坦(あらなみ はじめ 号は煙厓、通称市平1870~1955)。駿河島田の人で貴族院速記者として40年近く務め、同時に漢詩人としても活躍した人物です。『昭和詩文』の編輯・撰者をその廃刊まで務め、生涯を通じて松坡先生と親しい交誼を持ち続けました。

煙厓が「ハジメ、イタル」と叱りりつける老母の声を聞いた頃、元は9歳か10歳、弟の至は一歳年下でした。悪戯盛りでよく喧嘩もしたのでしょう。隣人同士だった縁もあり、煙厓は松坡先生に詩の指導を仰ぎ、仁香保香城、萩原錦江らと共に茗礀吟社で活動もします。煙厓はまた松坡先生が幹事を務めていた晩翠吟社の詩会にも何度か参加しました。

こんなエピソードも書かれています。

或時予はその學校(鎌倉高等女学校)の向側の小學校に講演があって招かれて行った序でを以て、先生を女學校に訪問すると、折柄昼食時分であったが、先生は久しぶりにて逢ふのでユックリ話したいから四時頃今一度來て呉れと云ふのでその時間にお尋ねすると、先生は自動車を命じ鎌倉山の内の香風閣と云ふ料理兼温泉屋に案内され饗應された。その折の言葉に人は三十年間も交際出來るのは稀であるが、君と僕とは三十年の交誼を得て居る。洵に懷しいことだと云はれ歸途も同乘して鎌倉驛まで見送つて呉れた程だった。予はその時五律一首を作って似(おく)つたが後に次韻して下さった。

昭和6(1931)年晩夏の出来事ですが、この時の詩の応酬は煙厓の『清遠居詩鈔』(1943)所収の「鎌倉香風園松坡翁招飲」と『漢詩春秋』(第15巻第10号)に収められている松坡先生の「香風園小酌 次韻煙厓詩」です。煙厓の詩の一節に「果識人生樂 交游情斷金(果たして識る 人生の楽 交游の情 金を断つがごとし)」とあり、風雅な交わりが窺われます。

また、何年のことか不明ですが、ある夏煙厓が材木座水道路の松坡先生宅(菱花山館)を訪問した折のことも。

軈(やが)て夕方になつたので奥様が態々風呂を立てゝ一浴を勸められたので、予も一浴してあとで晩餐の饗に預つたが、其節先生自身の浴衣を貸して予に着せられた事を覺て居る。遂に一泊御厄介を掛けたのであった。

 鍈さんも含めた三人の打ち解けた様子が手に取るようにわかる微笑ましい逸話です。

 松坡先生最晩年の昭和16、17年頃、煙厓が松坡先生に寄せた詩があります(『清遠居詩鈔』)。

寄菱花山人      菱花山人に寄す

湘雲咫尺白帆風    湘雲 咫尺たり 白帆の風

花竹窓前鷗語通    花竹 窓前 鷗語通ず

文勢如潮老逾健    文勢 潮の如く 老いて逾々健なり

海東復見一坡翁    海東 復た見る 一坡翁

 老いてますます盛んな松坡先生の創作を称えた詩です。漢詩を通じて育まれたこうした友情の在り方は羨ましいものです。

荒浪煙厓 『名流の風概』口絵.jpg<荒浪煙厓 『名流の風概』口絵>

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【松坡文庫研究会】田家の人々と松坡田辺新之助

2021/09/28

 1906(明治39)年、第二開成中学校の経営の苦しさを訴えて寄付を募る田辺新之助校長の求めに応え、高橋是清、団琢磨、東郷慎十郎など、政財界の多くの方々が多額の寄付をして下さいました。田辺先生の恩師であった高橋是清や、次男伊能が第二開成中学校に在学していた三井の団琢磨、共立学校時代の教え子である東郷慎十郎らについては寄付の背景・動機がよくわかるのですが、寄付者芳名帳に記されている政治家・実業家の田艇吉(1852~1938)、その弟で政治家の田健治郎(1855~1930)については、田辺先生との関係や寄付をするに至った背景について何か釈然としないものがありました。

 田艇吉と田健治郎がそれぞれ50円(今日の価値としては30~40万円ほどでしょうか)を寄付した1906(明治36)年からはずっと後のことになりますが、1932(昭和7)年前後、田辺先生、漢詩人田辺松坡は立憲民政党議員を中心とした漢詩会「忘機吟社」の詩会に頻繁に参加していました。参加者には、衆議院議員で浜口内閣の政務次官を務めた小川郷太郎(号は松軒)、首相若槻礼次郎(号は克堂)、岡田内閣で文部大臣を務めた松田源治(号は獨靑)、衆議院議員石塚三郎(号は松籟 堤義明の祖父)などがおり、第二次若槻内閣で大蔵次官を務めた田昌(号は柏軒)の名も見られます。小川郷太郎と田昌は東京開成中学校での田辺先生の教え子でもありました。田姓にはっとしました。田昌は寄付をした田艇吉の長男で、田辺先生と田艇吉が繋がりました。更に、田艇吉が楓軒と号して漢詩をよくしたことも判りました。

 戦前までの政財界人の教養の一つに漢詩を詠むということがありました。松坡先生と個人的に親しかった松方正義、樺山資紀、大江卓、若槻礼次郎は優れた漢詩人で、樺山資紀(号は華山)の漢詩集『二松庵詩鈔』(1923)は樺山資紀の没後、松坡先生がその遺稿から編んだものです。幕末に豪農の家に生まれた田艇吉も幼少時から漢学・漢詩に親しんでいました。松坡先生が杉浦梅潭を助けて1890年(明治23)頃から幹事を務めた晩翠吟社の詩人と艇吉が親交を持っていたとか、詩会に参加した可能性もあります。いずれにせよ、田艇吉にとって田辺先生は長男の恩師の一人であり、漢詩を愛好する同志だった訳で、田辺先生が困難な状況にある中、寄付をする十分な動機・理由があったということになります。

 艇吉の弟である田健治郎についてはどうでしょうか。兄と同じように漢学・漢詩の素養があった筈です。「萬象閣雅集、呈在座諸公」と題された松坡先生の漢詩二首を『漢詩春秋』第16巻第10号(1932年10月)に見つけました。「萬象閣」と呼ばれた邸宅で雅集(ここでは漢詩の集まり)が開かれ、その折に同座した人々に示した作です。この集まりには、『漢詩春秋』の編集人兼発行人であった上村賣劍も参加しており、賣劍が詠んだ詩の序からこの会が8月に忘機吟社の月例会として「故讓山田子邸萬象閣」で開かれたことが判ります。「故讓山田子」は「故讓山田健治郎」であり、「萬象閣」は東京府荏原郡玉川村(現東京都世田谷区)上野毛の田健治郎の自宅でした。健治郎はこの二年前に亡くなっていますが、その邸宅で詩会が開かれたのです。松坡先生の詩の其の一の尾聯(第7、8句)には次のようにあります。

  伊人不見幾囘首   伊(か)の人 幾たびか首(こうべ)を回(めぐ)らせども見えず
  當代奇才田讓山   当代の奇才 田讓山

『漢詩春秋』16-10.jpg

「『漢詩春秋』所収の松坡先生の詩」


 亡き讓山田健治郎を追想するさまが詠まれ、その人を当代の奇才と称えています。松坡先生と田健治郎の間に漢詩を介しての深い友情があったと考えてよいのだと思います。この交友が恐らくは明治30年代から続いており、その交友の中での1906(明治39)年の寄付ということになったのではないかと推察されます。

 寄付者の一覧を見直してみると、漢詩を仲立ちとする以外には松坡先生との交友が考えにくい人物が何人かいます。寄付者の一人一人について田辺先生との関係を改めて確認する作業が必要だと感じています。

 最後に余談。田健治郎の孫の一人がジャーナリストで政治家の田英夫(1923~2009)です。また、田健治郎の萬象閣は後に五島慶太の手に渡り、現在、旧五島邸の一部は五島美術館になっています。

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松坡文庫研究会講演会「七里ヶ浜ボート遭難事故と田辺新之助」ご案内

2021/08/16

松坡文庫研究会の講演会をご案内いたします。


タイトル:「七里ヶ浜ボート遭難事故と田辺新之助」
日 時 :2021年10月3日(日)13:30~15:30
講 師 :袴田潤一(松坡文庫研究会代表 本校元校長)
会 場 :鎌倉婦人子供会館ホール

松坡文庫研究会は、2017年に設立され、鎌倉市中央図書館の「松坡文庫」(田辺新之助旧蔵書)及び田辺新之助先生その人についての調査を行っています。

今回の講演会では、東京開成中学校からの分離独立直後に起こった七里ヶ浜ボート遭難事故を軸に、当時の逗子開成中学校の状況や田辺先生の事故対応等について、客観的な資料をもとにご紹介します。
会場地図、参加申込方法等につきましては、以下のチラシPDFをご確認ください。

20211003 松坡文庫研究会講演会チラシ.pdf

*なお、新型コロナウイルス感染症対策として、定員人数を制限した状態で実施いたしますので、定員を超えてしまう際はご容赦ください。また、感染拡大による社会状況の変化によりましては、中止の場合がありますこと予めご了承ください。

20211003 松坡文庫研究会講演会.jpg

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【松坡文庫研究会】菊池兵之助の墓

2021/05/16

鎌倉市中央図書館の近代史資料室書庫の資料箱に田辺新之助先生関連の多くの資料が長く眠っ
たままになっていました。資料の存在を再確認したのが昨年7月で、雑然と束ねられた詩稿類の
仕分け作業を少しずつ進めています。(ここまでは既に報告済み)
詩稿類は、
1.松坡田辺新之助先生の遺墨類
2.松坡先生の原稿類(詩稿、碑銘稿、墓銘稿など)
3.晩翠吟社の詩人たち(近代日本漢詩壇を代表する詩人たち)の詩稿
4.松坡先生が主宰した「松社」同人の詩稿
5.田辺先生宛の書簡
などです。一点一点内容を確認しながらの仕分けで、手間も時間もかかります。
田辺先生の稿の中に「菊池兵之助」の墓銘の稿がありました。タイトルは記されていません。
稿から、菊池兵之助は万延元(1860)年に生まれ、明治から大正を生きた人物で、田越村会議
員を長く務め、学務委員・郡会議員・郡参事会員等を経て、大正元(1912)年に田越村長とな
り、逗子に町制がしかれると初代逗子町長に選ばれた人物であることがわかりました。逗子町政
に大きく貢献した人物であることがわかります。
稿にはまた、
(大正)五年四月十四日在職病沒年五十七葬延命寺塋域盡力村町事人皆惋惜焉
       五年四月十四日在職にて病没、年五十七。延命寺塋域に葬らる。人皆惋惜す。

〇惋惜(ワンセキ)悲しみ惜しむこと。

と書かれていました。
 「延命寺」とは逗子の延命寺に違いありません。
 ということで、延命寺の広大な墓域で「菊池兵之助」の墓を探しました。「菊池氏」は中世三
浦氏の族党で、逗子には菊池姓の家が多くあり、延命寺の墓石には「菊池家之墓」と刻まれたも
のが多数あります。一瞬、怯みましたが、意を決して一基一基墓石を確認し、「菊池兵之助」の
墓を見つけることができました。門を入り、本堂に向って進むと右手に鐘楼堂がありますが、そ
の東側の大きな墓石です。
 正面に「先祖代々之墓 菊池」、背面に24文字10行、正楷の細字で田辺先生自身に手よる墓
銘が刻まれています。
 墓銘は兵之助の没後9年後に刻まれたもので、兵之助を継いだ第二代兵之助の依頼により田辺
先生が撰し、書いたものだということもわかりました。(「灯台下暗し」でした)
 墓銘中にはまた撰文の依頼に応じた理由として「余曾寓君家(余、曽て君家に寓し)」とあり
ました。田辺先生が逗子菊池家に住まいしたという記録はありません。思うに、第二開成創設準
備に東京から来豆した田辺先生及び東京開成の幹部(橋健三先生、太田澄三郎先生、石田羊一郎
先生)が、逗子の有力者菊池兵之助の家に仮寓したということではないでしょうか。

菊池兵之助墓1.jpg

菊池兵之助の墓

菊池兵之助墓2.jpg

墓石背面に刻まれた田辺先生による墓銘

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【松坡文庫研究会】 田辺先生退職記念組絵葉書

2021/02/22

1月8日に緊急事態宣言が出され、現在も継続中であることから、松坡文庫研究会の月1回の会合は休止中です。しかし、研究会の活動は続いています。

 一つは田辺先生の漢詩の講読。松坡先生の詩の読み下しと語釈を会員の皆様にメールで配信しています。ここひと月半ほど、「題大橋觀籟鎌倉十二景」という12首の連作詩を順に読んでいます。鎌倉に住み、神奈川師範学校で美術を教えていた大橋觀籟(康邦)が鎌倉の名勝を描いた12点の絵に、松坡先生が詩を付けたものでしょう(絵画作品は未詳)。鶴岡八幡宮や建長寺、また、稲村ケ崎などと並んで、飯島(逗子市小坪)が詠まれた詩もあります。飯島は鎌倉時代以来、鎌倉の南端でした。

 もう一つは、鎌倉市図書館が行っている「図書館まつり ファンタスティック・ライブラリー109」への参加です。今年度はCOVID-19の流行で、市内5館の図書館を巡回するパネル展示ですが、「田辺松坡と松坡文庫」というタイトルで、田辺先生のこと、松坡文庫のこと、私たち研究会のことを紹介しています。宣伝(?)のための動画がYouTubeの鎌倉市公式チャンネルで見られます。

 資料の収集にも力を入れています。昭和9(1934)年、田辺先生が鎌倉高等女学校の校長を退職した記念に作成した組絵葉書(封筒付き)を手に入れることができました。絵葉書は、紋付羽織袴に威儀を正した先生の肖像写真(田辺先生73歳)、退職に当たっての感慨を詠んだ漢詩(七言絶句)など三枚。「老齢之故を以て鎌倉高等女學校校長の職を辭退致候」と記された挨拶状もあります。

此心終始不相欺   此の心 終始相欺かず

五十三年一夢移   五十三年 一夢移る

001 肖像写真.jpg<73歳の田辺新之助先生>

東京大学予備門を終了した田辺先生が、高橋是清が学校長を務める共立学校の英語地理教授となったのは明治15(1882)年1月のこと。田辺先生は明治43年まで東京開成中学校(共立学校が校名を改めました)に務め、鎌倉高等女学退職まで足掛53年に及ぶ教員生活を送ったのです。その53年という年月は夢のように過ぎ去ったとの思いを述べ、その間、自分の心は欺くことがなかったというのです。他者を欺かなかったというだけでなく、自分の心に忠実に生きてきたということを言っているのでしょう。

 「老齢之故」による退職だと挨拶状にはありますが、私は、先生が退職を決意するに至った大きなきっかけがあったのではないかと考えています。この年の初め(1月末か2月初め)に先生の孫女「横地武子」さんが自死したのです。武子さんは田辺先生の次女「秀さん」の娘さんで、しかも、詳しい事情は不明ですが、母一人子一人でした(田辺先生夫妻と同居していたと思われます)。秀さん、田辺先生夫妻の悲しみは想像を絶するものであり、先生は「悼横地武子」という詩で「掌中之玉一宵摧(掌中の玉 一宵にして摧ける)」と詠んでいます。

 武子さんの死で田辺先生は仕事に対する意欲も失い、校長を辞す決意に至ったのではないでしょうか。

002 漢詩.jpg

<退職に当たっての心境を詠んだ七言絶句>

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【松坡文庫研究会】鎌倉市図書館主催イベントに参加します

2021/01/20

鎌倉市図書館の図書館まつり(ファンタスティック☆ライブラリー109)1月28日(木)から行われます。 今年はこんな情勢ですので、市内5つの図書館巡りのパネル展示と図書館のHPでの開催 です。松坡文庫研究会もパネル展示で参加します。どうやら前校長の袴田先生の動画もアップされるようです。内容は初代校長の田邊新之助先生の紹介です。

鎌倉市図書館HPのイベント情報

https://lib.city.kamakura.kanagawa.jp/opw/OPW/OPWNEWS.CSP?ReloginFlag=1&CLASS=2&DB=LIB&IDNO=100765&MODE=1&PID=OPWAPINEWS

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松坡文庫研究会の活動  梅田隧道之碑

2020/11/06

 松坡文庫研究会ではここのところしばらく、鎌倉市中央図書館近代史資料室に眠っていた「松坡文庫関連資料」を調査しています。大正3年から数年間の「墓碑銘稿・碑文稿」が多く見られますが、その中に「梅田隧道碑銘」と題された三つの原稿がありました。稿を比較すると推敲のあとがよく判り、貴重な資料です。

 ところで、梅田隧道碑は横須賀市浦郷町(浦郷町2丁目31 京浜急行の追浜駅と京急田浦駅のほぼ中間の東、直線距離で約1㎞ほど)に現存します。

梅田隧道は1887(明治20)年に完成した、軍用以外のものとしては横須賀で最初のトンネルです。1886(明治19)年、船越新田一帯に海軍水雷営と水雷修理工場ができたため、田浦・船越・浦郷の一帯は舟運の便をとざされてしまいました。また生業を奪われた漁民は水雷修理工場等の従業員に転じ、いくつかの山路を越えて工場へ通勤するようになりました。そこで通勤者のため、また浦郷地区の発展のために梅田坂新道開鑿工事が計画されたのです。浦郷村渡辺富太郎・山田市左衛門・田川三郎兵衛・渡戸市郎衛門らが発起人となり、関係者(民間)の手で、同年起工、竣工は翌年3月でした。民営でしかも地元の人たちの出資・寄附によってトンネルが完成したのは特筆に値することで、それに刺戟されて、筒井・深浦、次いで田浦などのトンネル、また長浦―田の浦間卜ンネルも開かれたのでした。横須賀には多くのトンネルがありますが、梅田トンネルはその嚆矢となったのです。(以上『新横須賀市史 通史編近現代』2014による)

 「梅田隧道之碑」が建てられたのは1915(大正4)年11月。碑は梅田隧道の北側口から約140mのところにあります。高さ160㎝ほどで、1行35字、18行にわたり田辺新之助による漢文と詩が刻まれた立派なものです。上部の題額を書いたのは海軍大将樺山資紀。田辺新之助先生と樺山資紀とは親しい間柄でした(樺山資紀が大磯の別荘で年数回開いていた詩会に田辺先生は参加していましたし、樺山没後、その詩稿をまとめた詩集『二松庵詩鈔』を編んでいます)。

 碑文は梅田隧道開鑿の経緯を述べ、そのことを詩に詠み、碑陰には発起者4名と賛同者39名の名が刻まれています。隧道完成から四半世紀後に碑が建てられたことについても刻まれています。


大半物故恐久而其功将湮滅

(関係者の多くが亡くなり、その功績が消えてなくなってしまうことを恐れ)

今茲十一月 天皇行即位大禮

(時恰もこの十一月に(大正)天皇即位の大礼がとり行われるのに合わせて)

郷人某等相議欲建碑伝不朽以為紀念

(浦郷の人たちが、功績を不朽に伝えるため碑を建てて記念とするよう議した)


とあります。当時、鎌倉女学校校長であり、漢詩人としての名声も確立していた田辺先生に浦郷の人たちが碑文の撰を依頼したのです。題額については、田辺先生が樺山大将にお願いしたのでしょう。

 軍港の街横須賀とそこで生きる人々の関わり、浦郷村及びその周辺の人たちの逞しさ、そうしたことに恐らくは強く共感した田辺先生が立派な碑文を書いたのでしょう。そしてそれが刻まれて今日まで残っていることを嬉しく思います。

 機会があれば是非足を運んでみて下さい。

 (アクセス:京浜急行追浜駅または京急田浦駅からバスで10分ほど 榎戸下車)

梅田隧道之碑.JPG

梅田隧道之碑(横須賀市浦郷)
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松坡文庫研究会の活動  山田先生紀徳之碑

2020/10/07

私たち松坡文庫研究会では、松坡田辺新之助についての新しい資料を集め、それに基づいて松坡先生の事蹟や為人を明らかにすることを目指しています。資料は、松坡先生の詠んだ詩(これまで、1,050首ほどを確認しました)や、墨蹟、雑誌・新聞記事などです。

 ところで、今年7月半ばのこと、鎌倉市中央図書館の近代史資料室にある資料箱の中に、松坡先生関連の資料が相当数存在することが判りました。資料は、鎌倉で亀廼舎を主宰していた歌人海上寿子氏の資料(「扇ガ谷海上家文書」)の中に混在していました。松坡先生関連資料は3つある海上家文書資料箱のうち一箱分ほどに当たるかと思われます。それらの資料がどういう経緯で鎌倉市中央図書館の所蔵になったのか、海上家文書との関連はどういうことなのか、松坡先生関連資料の内実はどういうものなのかを調査することが必要となりました。

 海上寿子と松坡先生は交流があったことは確かですが、松坡先生の資料が一旦海上家文書に入った上で中央図書館の所蔵になったとは考えにくいので、松坡資料は別ルート(時期も含めて現時点では不明)から中央図書館の所蔵になり、何かの折に海上家文書の混在するに至ったと思われます。資料の来歴に関する厄介な問題は当面保留にするとして、8月以降、資料の確認作業を進めています。

 資料の殆どは詩稿です。松坡先生自身のものもあれば、先生が若い頃から関わり、その幹事を務めた詩社「晩翠吟社」の詩人の詩稿がかなり含まれています。主宰者であった杉浦梅潭や、同社の創設者の一人である稻津南洋、また、蓮舟田辺太一、何蠡舟など、明治期を代表する漢詩人の詩稿(多くが批正のための朱筆が加えられている)が多くあることは驚くべきことです。勿論すべて毛筆で書かれており、判読するには骨が折れ、整理作業はなかなか進みませんが。

 松坡先生のものとしては碑銘の原稿が多く含まれ、間島弟彦とその長男道彦の墓銘稿が数種あったのは大きな収穫でした。間島家の墓は青山霊園にあり、そこに刻まれている墓銘との比較対照が可能となるからです。また、「山田先生紀徳之碑」と題された原稿が数種ありました。文中には「先生名専成」とあり、山田先生が長く中和田小学校校長を務めた「山田専成(もろなり)」であることが判ったことが糸口になり、「山田先生紀徳之碑」が大正3(1914)年に建てられたことも判りました。

 「山田先生紀徳之碑」は横浜市泉区の中和田公園に現存します。先日、相鉄いずみ野線いずみ中央駅にほど近い中和田公園に足を運んで確認してきました。幅約1m、高さ4m弱の大きな碑で、篆額は樺山資紀。43文字17行の長大な碑文で、末尾に「鎌倉高等女學校長田邊新之助撰併書」とあり、文字を刻んだ石工の名「望月久吉」も記されています。碑陰には「報恩會建之」。

 碑銘は山田専成先生の履歴、為人を述べ、最後に「銘曰」として4字24句の詩が詠まれています。田辺新之助先生が山田専成と相識だった訳ではなく、山田専成の校長退職を機に、その門人たちが先生の徳を称えるために碑を建てることを謀り、碑銘を田辺先生に依嘱したと記されています。「余亦從事教育聞先生之名久矣乃不敢辭因叙梗槩(余亦た教育に従事し、先生の名を聞くこと久し。仍て敢えて辞さず、因て梗概を叙す)」と刻まれています。

 碑が建てられた大正3年と言えば、田辺先生は53歳。既に東京開成中学校長、逗子開成中学校長を辞し、鎌倉高等女学校の校長に専念していました。教育者・漢詩人・書家としての名も揚がっており、碑文の撰と書が依頼されたのでしょう。

 無造作に紐で括られた原稿の束、不規則な折れ目が付けられ、ところどころ蟲に食われた原稿用紙。それらを一枚一枚確認することで、今後新たな発見が得られることを期待しています。

山田先生紀徳之碑(横浜市泉区中和田公園)

山田先生紀徳之碑.jpg

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松坡文庫研究会の活動報告

2020/07/25

前学校長の袴田先生より松坡文庫研究会の活動報告をいただきました。サージェント先生との出会い編です。


7月始め、逗子開成から次のようなメールが私宛に転送されてきました。

Please help me get in touch with 袴田潤一生先 regarding research I am doing on 松坡,
specifically 作詩階梯曁詩話 and 作詩問答.
 記されていたメールアドレスに早速メールを送ったことから、Stuart Sargent 先生との「共同
研究」のようなものが始まりました。サージェント先生はスタンフォード大学で博士の学位を取
得された中国文学研究者で、スタンフォード大学を含め、アメリカの幾つかの大学で教鞭を執ら
れてきました。日本(藤沢市)に住まわれた(1969~72)こともあり、また何度か日本を訪れ
たこともあるそうです。
 先生は田辺松坡先生と上村売剣が監修して声教社から刊行された『作詩階梯曁詩話』『作詩問
答』を日本で手に入れ、ご自身の研究の参考にされたたそうです。それらをスタンフォード大学
の図書館に寄贈し、Publication Data を執筆している中で、幾つかの不明点を明らかにしたい、
そのために松坡文庫研究会の代表を務めている私に連絡を取りたいとのことでした。おそらく
、「田辺松坡」で検索し、逗子開成のホームページがヒットし、そこにある松坡文庫研究会の記
事をお読みになったのでしょう。(逗子開成のホームページは海外からも閲覧されています!)
 サージェント先生のPublication Data の原稿はA4版で50ページにも及ぶ膨大なものです。私
は海外(中国語・日本語を母国語としない方)に松坡先生の著作についてこれほどまで詳細に研
究されている方がいるということにまず驚きましたし、松坡先生の手になる(監修とありますが
、実際は松坡先生や上村売剣が書かれたのではないかと私は考えています。学問的に論証できる
と思いますが、今は省略します。)著書が名門スタンフォード大学の先生の研究対象になってい
るということで、松坡先生の業績に改めて驚きました。
 サージェント先生の最大の関心事は『作詩階梯曁詩話』『作詩問答』の成立過程についてです
が、それは実に複雑なものなのです。私は手持ちの多くの資料からその過程をほぼ解明した(と
自分では確信している)のですが、それを説明するのは至難の業でした。サージェント先生には
私の貧弱な英語で何とか説明しています。先生からのメールには、
Again, very helpful! This is exactly the kind of detective work that tells us a lot of what we want to
know.
とありました。毎日のように先生との電子メールのやり取りがあり、先生のPublication Data は
より良いものになっているようです。その中には松坡文庫研究会のことも記されていて嬉しい限
りです。
In 2018 a Society for Research on the Shōha Collection (Shōha bunko kenkyūkai 松坡文庫研究会
) was founded to organize the collection and do research on Shōha himself. This is the society
headed by Mr. Hakamada Jun'ichi, whose knowledge in this area has been so invaluable.
 今後も続くと思われるメールのやりとりによって、松坡先生の業績が正しく評価されることを
、また、サージェント先生のご研究がより実り多いものになることを願っています。
今日、漢詩人田辺松坡の名を知る人は殆どいません。漢詩というものが私たちの文化からすっ
かり消滅してしまったことによります。鎌倉市中央図書館の「松坡文庫」の整理も寄贈後70年を
経ても終了しておらず、その全容も把握されていません。サージェント先生はまた、「松坡の諸
著作のsourcesが何処にあるのか」がご自身にとって大きな問題だと仰っていますが、それはま
さしく「松坡文庫」そのもので、松坡文庫はそれだけの価値がある蔵書群です。私たち(松坡文
庫研究会)は漢詩についてはアマチュアの集まりですが、皆、松坡先生に対して深い敬意を抱い
ており、松坡文庫を将来に伝えていくために努力しなければならないと改めて思っています。

001 Books.JPG

『作詩階梯曁詩話』と『作詩問答』

002 薩進德印.jpg

スタンフォード大学図書館本に捺されているサージェント先生の蔵書印「薩進徳」sà jìn dé

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校史余滴第十四回「117年目の創立記念日」

2020/04/18
 4月18日(土)は逗子開成の創立記念日です。逗子開成は、1903(明治36)年に東京の開成中学校の分校・第二開成学校としてスタートしました。本日で117年目を迎えることになります。
 通常授業が実施されないまま迎える創立記念日は、後の時代から振り返る時、どのように認識されるのでしょうか。コロナウイルス拡大に伴う非常事態宣言発令により、日常は一変しました。各学校では、手探りのなか教育が模索されています。私たちは、まさに「歴史」に立ち会っています。
 さて、逗子開成の長い歴史を振り返るとさまざまな出来事がありました。そういった出来事を創立記念日に振り返ってみるのはいかがでしょうか。
 今回、松坡文庫研究会代表の袴田潤一先生より玉稿をいただきました。同研究会は、鎌倉市中央図書館の松坡文庫(本校創立者の一人で、初代校長となった田辺新之助先生の漢籍を中心とした旧蔵書)の全容を把握し、田辺先生の生涯と人となりを多角的に精研することを目的として設立された市民団体です。研究会の活動については、過去に本校ホームページ(詳細はこちら→ https://www.zushi-kaisei.ac.jp/news/cat26/ )でも紹介しています。
研究会では、文庫を整理するとともに、田邊先生の漢詩を収集し、定期的に購読しています。膨大な資料を渉猟する中、逗子開成創立30周年式典に列席した田邊先生の、生徒にあてた祝辞の中の漢詩が掲載された雑誌を手に入れることができたとのことです。以下、ご寄稿文をご覧ください。
『漢詩春秋』表紙と掲載詩改.jpg
『漢詩春秋』昭和7年7月号表紙と掲載された田辺松坡の詩

以下袴田先生寄稿文引用 
 創立記念日、おめでとうございます。第二開成学校として生まれてから117年、多くの人たちの力に支えられて今日を迎えられたことを心よりお慶び申し上げます。
 さて、人間の年齢の古い数え方に倣って、88年前の1932(昭和7)年5月18日、逗子開成中学校(旧制)大講堂で創立三十年記念式が行われました。生徒841名(5学年17学級)、教職員34名が、理事長・国分三亥、学校長・奥宮衛のもと、多くの来賓を迎えて創立記念日を祝ったのです。創立の中心人物で初代・第三代校長を務めた田辺新之助先生も来賓として招かれ祝詞を述べました。
 田辺先生は1913(大正2)年に逗子開成中学校校長を辞した後は、鎌倉女学校の校長を務めていましたが、同時に日本を代表する漢詩人として(号は松坡)、広く活躍していました。私が代表を務める松坡文庫研究会の活動の一つとして、松坡がその活動の中心とした「声教社」(主幹は上村売剣)が刊行した月刊雑誌『漢詩春秋』を収集していますが、これまで集めた76冊のうちの昭和7年7月号に、創立三十年記念式で田辺先生が詠じた漢詩が掲載されていたのです。「創立逗子開成中學校創立三十年祝典、賦似生徒」と題された長い詩(七言長詩 全22句)で、服部擔風による評語も付されています。詩題の「賦似生徒」は「賦して生徒に似(おく)る」、或いは「似(しめ)す」と読みますので、841名の生徒に語りかけるものでした。
 冒頭の6句は次のように詠われています。
創立恰逢三十年  創立 恰(あたか)も逢う 三十年
卒業之士垂三千  卒業の士 三千に垂(なんな)んとす
夙期百錬身心堅  夙(つと)に百錬し 身心の堅なるを期し
剛毅醇樸完精研  剛毅にして醇樸(じゅんぼく) 精研を完(まっと)うす
開物成務易所宣  開物成務は易の宣(の)べる所なり
出有用材非偶然  有用なる材の出づるは偶然に非ず
 勁い肉体と不屈の意志(意思)とを持ち、素直で飾り気がなく、真心をこめて丁寧に努め励む、そのような青年を育てることを創立からの目標とし三十年、卒業生は3,000人になろうとしている。そうした目標は『易経』(繋辞上伝)にある「開物成務」という言葉に基づくもので、優れた人材を育ててこられたのは偶然のことというのではない。
というのが大意です。
 詩は更に、神聖な気が広がり満ちる青い海に面し、雲の上に高く聳える美しい富士の頂きを仰ぎ見ることのできる逗子の地を校地として選んだこと、そうした環境で学校生活を送れば心のいやしさなど失せてしまうのだ、と詠います。
 詩の中で、田辺先生は自分のことについても触れています。創立にあたり自分も僅かながら力になり、当時を思うと心が沸き立つようだ、年老いて白髪頭になった今日、君たちに詩を贈るのはそうした縁があるからなのだ、と。万感胸に迫るものがあったのだと思います。
 詩は生徒への決然とした強いメッセージで締めくくられます。
学問無他唯勉旃  学問は唯勉旃(べんせん)に他ならず
 今日、逗子開成ではことあるごとに「弛まぬ努力」ということが言われていることでしょう。校是ともいうべきこの言葉は、「開物成務」から田辺先生の「勉旃」を経て、120年近くにわたり逗子開成の精神に脈々と流れ続けているのです。
 田辺先生の詩の一句に倣えば、「微涓(びけん わずかな滴)を輸(おく)」った私としても、今日の創立記念日を多くの方々と共に慶び、逗子開成の今後の益々の発展を心より祈念いたします。」
寄稿文以上
 ぜひ、家庭で油断しているであろう生徒たちにも熟読、心に刻んでもらいたい内容です。
 なお、以下は本校ホームページ「校史余滴」第一回~第十三回の記事となります。是非、これを機会に逗子開成の117年という歴史の一端もご覧ください。
【参考:校史余滴ページ】 → https://www.zushi-kaisei.ac.jp/news/cat23/
第13回 第一回卒業式
第12回 ああ壮烈 義人 廣枝音右衛門
第11回 田邊家之墓 墓参
第10回 三船久蔵と高野佐三郎
第9回 橋健三先生
第8回 校歌制定
第7回 校章の変遷
第6回 長柄運動場
番外編 八方尾根遭難事件慰霊の登山 報告
第5回 校舎全焼と復興
第4回 綽名(あだな)で結ばれた教師と生徒
第3回 実況! 創立三十年紀念大運動會
第2回 千葉吾一のこと
第1回 田邊新之助、逗子・鎌倉と黒田清輝
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校史余滴

松坡文庫研究会新視点発表 「田辺松坡と鎌倉妙本寺」講演会

2019/11/12
 11月10日、本校元校長で松坡文庫研究会代表の袴田潤一先生による講演会「田辺松坡と鎌倉妙本寺」が開かれました。本講演会は、鎌倉中央図書館Fantastic☆Library108の催しの一つとして行われました。会場は松坡が若い頃から訪れ、たびたび詩会を開き、松坡の漢詩碑もある鎌倉妙本寺(書院)。歴史研究者、地域史研究者、田辺松坡(新之助)のご子孫、本校在校生卒業生の保護者、校友会の方など44名が参加しました。
 袴田先生の講演は、松坡の生涯と活動を漢詩人としての側面に光を当てながら多くの資料(史料)に基づいて丁寧に辿るとともに、松坡と鎌倉、妙本寺との関係を探り、松坡の妙本寺を詠んだ詩(「鎌倉妙本寺」「海棠花下吟」)を鑑賞するものでした。
 松坡は20代半ばで漢詩壇に颯爽とデビューし、その後多くの人物との多様なネットワークの中で教育者・漢詩人として生きました。松坡が親しく交際した人たちは、漢詩関係としては大沼枕山・岡本黄石・依田學海・杉浦梅潭など、政治家・軍人としては高橋是清・松方正義・樺山資紀・柴山矢八・釜屋忠道など、その他、曾禰達蔵(建築家)・徳富蘇峰(ジャーナリスト・思想家)など多方面にわたります。先生の講演の眼目は、そういった人たちと松坡の交流を詩会の記録や詩題、また雑誌記事などから探し出してマッピングすることで、松坡の生涯のみならず、近代の政治・軍事・文化状況をも示していけるのではないかということでした。学問の世界では「人脈」というファクターは嫌われがちですが、人脈(この言葉がふさわしくないとすれば「人間関係」)という視点を敢えて強調することで事柄を捉え直していこうという研究の端緒が示されていたように思います。
 講演は1時間半程でしたが、妙本寺祖師堂前にある漢詩碑(昭和13年建立)と、その完成式を祝って制作され、書院に飾られている立派な詩画軸を鑑賞して終了しました。
20191112妙本寺講演会 会場.jpg 2019112妙本寺海棠碑.jpg
写真:盛況だった講演会様子/妙本寺境内「海棠花下吟」漢詩碑
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松坡文庫研究会講演会(11/10(日))ご案内

2019/10/07

 本校元校長の袴田先生が代表をつとめる松坡文庫研究会の講演

会が、来る11月10日(日)13:00~15:00に開かれます。

鎌倉市中央図書館のFantastic☆Library108の催しの一つで、漢詩人

としての松坡を鎌倉、特に妙本寺との関係に焦点を当てて紹介し、

松坡の漢詩を鑑賞するものです。会場は松坡とゆかりのある

鎌倉妙本寺で、同寺にある松坡の漢詩碑も見学します。

奮ってご参加下さい。

 事前の申し込み(10月15日受付開始 鎌倉市中央図書館)が必

要です。詳細や申し込み方法は、以下をご確認ください。

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松坡文庫研究会の活動  田辺先生の素顔

2019/08/21

雑誌等に掲載された松坡田辺新之助関係の記事を集めています。『漢詩春秋』という月刊雑誌を十数冊手に入れました。同誌はジャーナリストで漢詩人であった上村売剣(才六 1866~1946)が主宰する「声教社」が大正6(1917)年から刊行したもので、松坡は売剣の古くからの詩友でもあったことから、詩や評論を寄稿しています。投稿詩の撰者も務めていました。

『漢詩春秋』.JPG

『漢詩春秋』

同誌昭和6(1931)年2月号には「辛未新年」と題された七言律詩二首が掲載されています。一首の冒頭には、

天使吾儕免凍飢

天は吾儕をして凍飢を免らしめ

長生七十未爲奇

長生七十 未だ奇と為さず

と自らの古稀を寿いでいます。また、その二首には、

眷属今茲一口加

眷属今茲に一口加わり

不歎萍迹尚天涯

萍迹を歎かず 尚お天涯

常欣偕老雙無恙

常に 偕に老い恙なきを欣び

已見三兒各作家

已に 三児おのおの家を作すを見る

とあります。ブラジルに移住した三男の定(さだむ)が前年に結婚し、家族が一人増えたことを喜びつつも、遠く異郷にいる子を思っています。「萍迹」は浮草の跡を意味し、あちこちさまよって一定の所に住まないことのたとえです。定は逗子開成中学校卒業後、志願兵となり、その後(昭和2年)にブラジルに移住しました。明治16年に結婚した鍈との生活も50年近くに及び、偕に老いつつがなく過ごしています。三人の男児(長男元、二男至、三男定)はそれぞれ独立し、古来稀なりという年齢を迎えて、家族の幸せを喜んでいます。

 また、同年8月号では、鎌倉で松坡が主宰していた漢詩会「松社」による松坡の古稀祝宴(於江の島讃州樓)の様子が詳しく報告されています。松社同人が一同に会し、長年にわたる松坡の功績(教育者、漢詩人)を讃えています。同人による寿詩も多く掲載されています。

雑誌のこうした記事から、松坡田辺新之助先生の素顔を垣間見ることができます。松坡研究に温かみを添えるものです。

ともすると忘れ去られてしまうような資料(史料)の中に重要な記録が残されており、そうした歴史資料を保存し、未来に継承していくことの大切さを再認識しました。

辛未新年.jpg

松坡の「辛未新年」詩二首

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松坡文庫研究会の活動  詩人松坡の足跡

2019/07/11

松坡文庫研究会が発足して一年が経ちました。

本会では田辺松坡(新之助)が雑誌等に寄せた文章や漢詩を収集し、漢詩人松坡の足跡を丁寧に辿る作業を続けています。

 隨鷗吟社の月刊誌『隨鷗集』第95編(大正元年10月5日)には、松坡関連の記事が幾つか掲載されています。

 一つは松江「剪淞吟社」の横山耐雪の寄稿で、同年7月中旬(大正改元直前)に大江卓と松坡が松江を訪れ歓待された様子が詳しく紹介されています。大江卓(1847~1921)は明治の政治家・実業家で、漢詩もよくしました。明治初年に神奈川県令を務めたことでも知られています。二人は京都・舞鶴を経て松江に入り、松江の名所を訪ね、出雲大社にも詣でました。

 もう一つは、「山陰游草」と題された松坡の詩25首。鎌倉から松江、更に帰途の随所随所で詠んだ詩が掲載されています。大江卓とともに剪淞吟社の酒宴に招かれた折に詠んだ詩には、宍道湖を渡る

心地よい風に当たりながらの夏の宵の酒席の様子が描かれています。

 また、「哭三千女」と題された一篇の詩も掲載されていました。前年石井氏に嫁し、大正元年8月11日に乳児を遺したまま19歳の若さで亡くなった次女を悼んでの詩です。

 泣抱遺孫奈老親

(泣きて遺孫を抱き 老親いかんせん)

 由來薄命可憐身

(由来薄命 憐れむべき身)

 三千世界傷心日

(三千世界 傷心の日)

 二十年時瞥眼春

(二十年の時 春を瞥眼す)

 源氏山松生夕籟

(源氏山 松に夕籟生じ)

 尼將軍墓結幽鄰

(尼将軍 墓を幽鄰に結ぶ)

 不堪梧葉先秋落

(堪えず 梧の葉先ず秋に落つ)

 夢寐猶疑事未眞

(夢寐になお 事未だ真ならずと疑う)

詩に詠まれている通り、三千は寿福寺に葬られ、後に田辺松坡夫婦の墓もその隣に建てられました。

『隨鷗集』の記事.JPG

『隨鷗集』所載の「山陰游草」

寿福寺墓所.JPG
向かって右が田辺新之助・鍈の墓、左が石井三千の墓
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松坡文庫研究会の活動 新史料

2019/05/08

松坡文庫研究会の活動報告を、代表の袴田潤一元校長よりいただいたので紹介いたします。


松坡文庫研究会の活動の一つに資料(史料)収集がありますが、このたび、『校友會襍志』第参號を入手しました。明治44(1911)年12月に逗子開成中学校校友會が発行したものです。これまで、学園には大正期の『修養會誌』が何冊かあったものの、明治期に遡る校内刊行物はなく、今回手に入れた冊子は、当時の学校の様子を具体的に知ることができる大変貴重なものです。

 明治44(1911)年といえば、七里ヶ浜沖でのボート遭難事故から一年後で、『校友會襍志』にも「遭難生徒一週年忌祭」の記事が掲載されています。

 「今日 一月二十三日、吾等の母校を想ふ時、また忘る可らざるの日として、吾人の腦裡に印せざるべからず。」

と始まる報告が記されています。

 一週年忌祭は逗子延命寺で、職員・生徒・遺族・田越村役場員・小学校生徒列席のもと午後2時より挙行され、読経に続いて、田邊新之助校長、宇高兵作先生(教頭)、生徒総代神倉佐安、田越村長桐ケ谷新助の祭文朗読があり、一同の焼香が続きました。亡くなった松尾寛之君の遺族の訓示演説もありました。

 記事には漢詩人田辺松坡の詩も掲載されています。

波間誰復網珊瑚

當日懷沙事已夫

殘雪梅花延命寺

焚香祭十二生徒

   一週年忌祭遭難生徒  田邊松坡

『校友會襍志』第参號.jpg

『校友會襍志』第参號 表紙
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松坡文庫研究会の活動  資料収集、松坡文庫の整理も進む

2019/03/14

松坡文庫研究会の活動報告を、代表の袴田潤一元校長よりいただいたので紹介いたします。


昨年夏に発足した松坡文庫研究会ですが、その活動は順調に進んでいます。基本的には月一回の会合を持ち、資料収集の報告・活動内容の確認・松坡文庫の整理を行っています。

昨年秋には、開成祭で田辺松坡(田辺新之助先生)に関するミニ展示を行い、鎌倉市中央図書館を中心としたファンタスティック☆ライブラリー107の催しの一つとして、鎌倉市内の松坡にゆかりの史跡をめぐるフィールドワークも実施しました。

 タウンニュースにも取り上げられ、ケーブルテレビでフィールドワークの模様が放映されるなど、少しずつその活動が知られるようになり、問い合わせも増えてきました。

それとともに、田辺先生の業績が広く知られるようになることを願っています。

 田辺先生について調べを進めていくにつれ、漢詩人としての田辺先生の業績の大きさに驚かずにはいられません。今日では「漢詩」が私たちの生活から全くと言っていいほど失われてしまったので、田辺先生に対する認識もなくなっているのでしょうが、著書・編著書を読むと、明治・大正・昭和にかけて、日本漢詩界で重要や位置にあったことがわかります。明治34(1901)年に刊行された『明十家詩選』(5冊)では、序を寄せている依田学海(少年時代の森鷗外の漢文の師)がその仕事を高く評価しており、その翌年刊行された『明治二百五十家絶句』に松坡の詩十首が収録されています。大正に入ると新聞の詩壇の撰者も務めました。

 研究会としては田辺先生の漢詩を読むことを始めました。会員に漢文の専門家はおりませんが、素人なりに漢和辞典等と首っ引きで、会合ごとに一首を講読しています。

 今後の活動としては、現在の活動を継続しつつ、秋のファンタスティック☆ライブラリーへの参加を考えています。

田辺松坡関連資料.JPG

新たに収集された田辺新之助関連資料
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「松坡文庫研究会」発足 本校元校長 袴田潤一先生が代表に

2018/07/21

鎌倉市中央図書館の重要な蔵書に「松坡文庫」があります。

「松坡(しょうは)」は本校創立者である田辺新之助先生(1862~1944)の号で、田辺先生は優れた教育者であり、また、

「一度筆をとれば連珠の章たちどころになる、其の創作する所極めて多く皆金玉の譽あり」

と評された優れた漢詩人・漢学者でした。

先生の没後、戦後になって遺族によって漢籍を中心とする膨大な蔵書が鎌倉市図書館に寄贈されました。いまだに整理作業が続けられており、約6,000冊にも及ぶ文庫の全貌は把握されるに至っておりません。

2016年末頃より鎌倉市中央図書館を中心に「松坡文庫」への関心が高まり、2017年度には同館で4回にわたる勉強会が開かれました。

講師を務めたのは同館の中田孝信氏、鎌倉女学院元校長の斎藤俊英先生、 湘南の別荘研究家で「鎌倉の別荘地時代研究会」の島本千也先生、それに本校元校長の袴田潤一先生でした。

そうした動きの中で、この度、「松坡文庫研究会」が発足しました。

発起人は、図書館とともだち・鎌倉、鎌倉同人会、鎌倉を愛する会の有志ら5名で、

事務局は鎌倉中央図書館に置かれ、同館近代史資料担当者が事務担当となります。

代表は袴田潤一先生が務めることになりました。

松坡文庫研究会の活動は、

  1.松坡文庫の全容把握(寄贈書籍の整理)

  2.田辺新之助その人に関する研究

  3.上記1.2.の公表

を目的としています。

 「松坡文庫研究会」の活動が「松坡文庫」の全体を明らかにし、また、田辺先生の業績を正しく評価することにつながることを期待しています。

晩年の田邊新之助先生.jpg

晩年の田辺新之助先生
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