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松坡文庫研究会の活動 大浦兼武の田辺新之助宛書簡

2022/02/08

松坡文庫研究会代表の袴田潤一先生より新資料紹介文をご寄稿いただきました。田辺新之助先生の研究のみならず、本校の創設や鎌倉別荘研究等に資する新出資料の紹介です。お時間ございます時にご覧ください。

*なお、松坡文庫研究会の過去の活動につきましては、トップページ右上「ニュース」よりカテゴリの「松坡文庫研究会」からすべてお読みいただけます。これを機会にご確認ください。また、松坡文庫研究会では講演会を準備しております。改めて情報発信いたしますので、今後もご確認ください。

                                                

「大浦兼武の田辺新之助宛書簡」

 田辺新之助先生に宛てた大浦兼武の書簡があります(国立国会図書館 憲政資料室)。幸いに封筒も保存されており、消印と文面から「明治38年10月20日」のものだと判ります。宛先は「相州三浦郡逗子開成中学分校 田辺新之助様」。「逗子開成中学分校」は(東京)開成中学校の逗子の分校の意でしょう。


 大浦兼武(おおうら かねたけ1850~1918)は薩摩出身の官僚政治家。1871(明治4)年、邏卒小頭として警察に入り、以後警察官僚の道を歩み、山県有朋系官僚として島根・山口・熊本各県知事を歴任、1898年(明治31)年に警視総監となります。1900(明治33)年勅選貴族院議員となり、桂太郎内閣で逓信大臣、農商務大臣、内務大臣を歴任しました。1914(大正3)年、第二次大隈重信内閣には農商務相として入閣しましたが、議会解散に伴い翌年内相に転じて総選挙を指揮し、与党を大勝に導いた功もあります。しかし、第36特別議会で選挙干渉と前議会での議員買収の責任を問われて辞任し政界を隠退しました(所謂「大浦事件」)。鎌倉長谷に別荘を構えていました。

 手紙が書かれた時点で大浦兼武は59歳で第一次桂太郎内閣の逓信大臣、田辺先生は47歳、東京開成中学校・第二開成学校・鎌倉女学校の三校の校長を兼務していました。

大浦兼武書簡.jpg

田辺新之助宛大浦兼武書簡
(国立国会図書館憲政資料室所蔵 田辺定関係資料より)


 癖の強いくずし字で認められた書簡冒頭は次のように読めます。

   拝啓昨夜平岡氏
   来訪三井ノ早川氏
   方ニテ五千円低
   利ニテ高橋是清
   氏ノ帰朝迠立替
   エルトノ事ニ御座候

 昨夜平岡氏が来訪し、三井の早川氏(千吉郎1860~1922 この時三井銀行専務理事)の方で、高橋是清が帰朝するまで五千円を低利で立て替えるとのこと。

 平岡氏は不詳、高橋是清は日本銀行副総裁で、この年2月から政府特派財政委員として英国駐在中でした。田辺先生が高橋是清から(或いは是清を通じて)受けることになっていた(或いは受けた)融資の五千円(或いは融資額の一部である五千円)を三井が低利で立て替えるという申し出を大浦兼武が伝えています。保証人については平田男(=平田東助 当時農商務大臣)に相談する、と続きます。逗子の中学校の財政窮乏を救うことに、日銀副総裁、逓信大臣、農商務大臣、三井専務理事が関わっているのです。改めて言うまでもありませんが、高橋是清は唐津での少年時代以来の田辺先生の恩師でした。

 高橋是清は1906(明治39)年春(恐らく2月)に帰国しましたが、三井からの低利融資が実現したのか、高橋是清からの融資がどうなったのかは資料がなく残念ながら不明です。

 「第二開成中学校長兼総代」田辺新之助の名で出された寄付募集に応えて高橋是清が千円を寄せたのは同年5月のことでした。

 大浦兼武のこの書簡は草創期の第二開成学校、第二開成中学校を考える上で非常に重要な資料です。また、それと同時に、田辺先生と大浦兼武、早川千吉郎との関係を考える上でも重要な資料です。これまでの校史では、大浦兼武はボート遭難後、財政的に二進も三進もいかなくなっていた逗子開成を救った神田鐳蔵の登場を斡旋した人物として語られてきました。そうした大浦兼武と田辺先生が明治30年代後半からこの書簡に見られるような関係にあったということが判りました。

もう一つは、この書簡が所謂「別荘族」の実態を照らすことです。鎌倉逗子には多くの実業家・政治家・軍人が別荘を構えており、彼らは複雑な交友関係を築いていました。それは本職を離れて趣味の世界にも浸透していました。大浦兼武は金竹と号して漢詩を嗜みましたので田辺先生と繋がります。極楽寺に別荘を構えていた早川千吉郎は後に鎌倉同人会が社団法人化される際の発起人の一人に名を連ねています。鎌倉同人会は田辺先生がその名を命名し、趣意書を起草しました。平田東助は逗子鳴鶴浜に別荘を構えており、田辺先生は後にその別荘(鳴鶴荘)を漢詩に詠んでいます。重責を負い激務にある政治家・実業家が別荘で過ごす中、その地の文化人と交わることでゆったりとしたひと時を過ごした様子も想像できると言えば行き過ぎでしょうか。

 最後に一言。大浦兼武は1918(大正7)年9月30日、鎌倉長谷の別荘で急逝しました。田辺先生は四首から成る輓詞を捧げています。田辺先生の大浦兼武への思いが伝わる詩で万感胸に迫るものがあります。

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