2021年6月 - 逗子開成ニュース

【シネマ倶楽部】『僕たちは希望という名の列車に乗った』鑑賞文

2021/06/30

高校2年生は6月10日(木)、高校3年生は6月11日(金)に徳間記念ホールで

『僕たちは希望という名の列車に乗った』を鑑賞しました。


(作品概要)

1956年、東ドイツの高校に通うテオとクルトは、列車に乗って訪れた西ベルリンの映画館でハンガリー の民衆蜂起を伝えるニュース映像を目の当たりにする。クラスの中心的な存在であるふたりは、級友たちに呼びかけて授業中に2分間の黙祷を実行した。それは自由を求めるハンガリー市民に共感した彼らの純粋な哀悼だったが、ソ連の影響下に置かれた東ドイツでは「社会主義国家への反逆」とみなされる行為だった。やがて調査に乗り出した当局から、一週間以内に首謀者を告げるよう宣告された生徒たちは、人生そのものに関わる重大な選択を迫られる。大切な仲間を密告してエリートへの階段を上がるのか、それとも信念を貫いて大学進学を諦め、労働者として生きる道を選ぶのか・・・・・・。

 過酷な現実にさらされた彼らの、人生のすべてを懸けた決断とは? 希望を追い求めた若者たちの「小さな革命」を未来へと続く「列車」とともに描き上げた感動の実話!

僕たちは希望という名の列車に乗った01.jpg

※生徒の鑑賞文には映画の内容も含まれますのでご注意下さい。

(高3H Oくん)

正直に言うと、私が今までに観た映画の中で一番複雑な映画だった。しかし、一番惹かれる映画でもあった。冷戦を題材にした映画ということだったので歴史を学ぶ感覚で観ていた。始まってすぐは、主人公たちが暮らす旧東ドイツに漂う薄暗い雰囲気に息苦しさを覚えるも、「今の日本とは関係ないから」と他人事のような気持ちでぼんやりと眺めていた。ところが、物語が展開していくうちに、この映画が過去の物語でも、異国の物語でもないことに気付き始めたのだ。

 「君たちは自分の頭で考えて行動しなければならない」

 作中、ある高校生の叔父が主人公らに言ったセリフだ。何も過ぎ去ったセリフではない。むしろ今日の私たちに求められていることではないだろうか。日々与えられた課題のみをこなし、新たに学ぼうとはしない私達と、日々与えられた情報のみを信じて疑わず、外界を知らずに働き続ける当時の人々の状況は何も変わっていないのかもしれない。

 作中で高校生たちが自分の信念に従って生きる姿は、自分なりに何か行動を起こせないかと考えるきっかけを私に与えてくれた。例えば、現在コロナウイルス収束が求められており、今後の歴史の教科書に載るかもしれないほどの未曾有の出来事であるはずなのに、実際の生活において私たちの危機感は全く欠如している。それは皆が、映画を観る前の私のように他人事だからなのだと思う。つまるところ、全員がこの映画に出てくる高校生のように自分の頭で考えて行動すれば、コロナウイルス以外にも様々な問題が解決に向かうと思うのだ。彼らの勇気を見習い、私たちも出来るところからアクションを起こすべきである。そういった意味でこの映画は、未来を担う私たちの「希望」であり続ける。

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校史余滴 第十五回 「明治時代の運動会」

2021/06/13

校史余滴 第十五回 「明治時代の運動会」

 2021年本年の高校体育祭は5/18に、雨天により1日遅れで開催されました。実は、この5/18という日にちは、本校の歴史をひも解いてみると、大変縁のある日にちでした。それは、本校ではじめて体育祭(当時は運動会という呼称)が実施された日にちだったからです。記念すべき第一回の運動会は、1903年4月18日に本校が創立され、その一か月後に実施されたのでした。

 記念すべき第一回目の運動会の内容は、開催場所(創立当初は東昌寺を仮校舎としていた)も含めて分かりません。しかしながら明治末年の運動会の様子であれば、うかがい知る資料が残っています。それは、明治44(1912)年の『校友會​襍誌』中に紹介される「創立第八回紀年運動會」という記事です。(*以下「記事」は、本誌からの引用です。また、原文のままではなく旧漢字を一部改め、読みやすくしました。)
 現在の体育祭は、中学・高校別々に実施していますが、明治時代の体育祭は、全学年一緒に実施していたようです。当時の全校生徒は、五学年約400名でした。「記事」には「白黄緑紫紅の級旗」が「中空」に翻っていたとあり、学年の団結を確認する競技が多くあったようです。

R004 逗子開成中學校創立第七週年紀念運動會(其四)本校選手競争.jpg

(葉書「第七回運動会」より)


 本年の体育祭は、幸い中途での雨はありませんでしたが、明治44年は開始早々の三種目目で雨が降ってきてしまいました。「此頃より雨降り初めたり。しかれども競技はために反って勇壮となれり。」と、雨の中、競技に打ち込む姿が紹介されています。しかしながら、お昼を挟んだのちに、「雨愈々降りしきり総て事困難を極む。遂に予定の競技を行ふことを得ず。遺憾なから番組の変更をなせり。」とあります。どうやら雨によって競技の変更を行わざるを得なかったようです。また、本年は、コロナ禍のため競技内容や種目数をしぼり、保護者来場なしで実施されましたが、明治時代は「来賓」も多くいたようです。前半戦の最終種目は「騎馬戦闘」とあり、その勝敗が決したあと、20分間の昼食があったようなのですが、その際に「来賓益々多し」との記述がみられます。運動会の歴史研究によれば、地域に開かれ「祭り」の様相を呈した時期もあったようですので、「来賓」とはどのような方々だったのか気になるところです。
 そして現代の例年の体育祭は、生徒会メディア委員の生徒が、各競技を音源や放送関係を一手に引き受け、一日を通して盛り上げてくれています。では放送設備もなかった当時は、応援のみだったのでしょうか。「記事」には、その点をうかがわせる記述もあります。七種目目より生演奏がはいったようなのです。「海兵団より特に送られたる奏楽隊、この時より進行曲を奏す」とあります。海兵団とは、「旧日本海軍で、各軍港に置かれた陸上部隊」であり、「所轄の鎮守府に属し、軍港の防備、警備に当たったほか、補欠員として入団する下士官、兵を収容、教育し、艦船部隊などの欠員を補充した」(『日本国語大辞典』)方々のことです。横須賀から駆けつけているのでしょう。なお、以下の写真は、「記事」の前年の運動会の様子をうかがい知るものです。当時は、来場者にとって「生演奏」を聞くことのできる貴重な機会であったことでしょう。


R001 逗子開成中學校創立第七週年紀念運動會(其一)海軍々隊之奏樂.jpg

(葉書 「第七回運動会」より)

 さて、400名の生徒はどのような競技に取り組んだのでしょうか。今回、学年ごとにまとめてみたものが以下です。競技名の後ろの( )は、競技順を示したものです。
全体競技、各学年競技とあわせて、まず注目したいのが、演奏にあわせた競技種です。「アンヴイルコーラス」は、イタリアの作曲家ジュゼッペ・ヴェルディ(1813~1901)による作曲で、オペラ歌劇「イル・トロヴァトーレ」中の「アンヴィル・コーラス」(鍛冶屋の合唱)と考えられます。幸いにも「記事」には説明文があり、次のように明記されています。「奏樂に合せて唖鈴を動かすところ、すこぶる壮美なりしかば、観者をして思はず拍手せしめき。」演奏にあわせた合唱があったのかどうかは判然としませんが、「唖鈴」とは、「あれい」で、(こちらも「鍛冶屋」にあわせた「鉄」製であったかどうかは分かりませんが)演奏にあわせて演じたのでしょう。
 各生徒は、全種目に出場したわけではなさそうですが、今現在よりも種目数は多そうです。全34種目あったようです。なお、「碼」は「ヤード」です。1ヤード0.9144mですので、四・五年合同の「一千碼徒競走」は、約900m超を走るようです。選りすぐりの選手が走ったのでしょう。そして、各種目の最後には、出身小学校ごとの徒競走があり、最後に全学年による徒競走が実施されたようです。記事には「やがて号砲一発、白・黄・緑・紫・紅ひとしくスタートを切る。この時声援狂喚一時におこり~」「場の中央に至り、各級各団を作りて応援歌を叫び、小旗を打ち振りて吾級の勝を祈り、万歳を祝す」とあり、大変盛り上がった様子が伝わってきます。
                                             
・全体 綱引(1)、騎馬戦闘(21、昼食直前)
・二・三年合同 アンヴヰルコーラス(27)
・三・四・五年合同 源平旗奪(19)
・四・五年合同 一千碼徒競走(32)
・一年 二百碼徒競争(4)、三百碼徒競走(15)、四百碼徒競走(26)、猫袋競争(6)、動物採取(10)
・二年 三百碼徒競争(3)、四百碼徒競走(18)、落雷競争(8)、虚無僧競争(28)、二人三脚(14)
・三年 六百碼徒競争(9)、提灯抗争(2)、載嚢スプーン(16)、抽籤競争(30)
・四年 八百碼徒競走(29)、六百碼徒競走(22)、載嚢スプーン競争(5)、サツクスレース(7)、工作隊(13)、不時呼集(12)、兒島高徳(17)、障害物競走(24)、跛者競争(25)
・五年 六百碼徒競走(23)、載嚢スプーン競争(5)、サツクスレース(7)、キヤピテンボール(20)、工作隊(11)、不時呼集(12)、障害物競走(24)、世は様々(31)
・各小学校選手競争(33)
・本校選手競争(34)
                                             
 具体的な競技内容を考えてみると興味深い競技がいくつかあります。試みに明治42(1910)年発行の『諸学校運動會 最新遊戯書』(編集代表栗田臺吉 共文社)(以下『遊戯書』)などを参考にご紹介します。

「世は様々」
 「記事」には「座頭が杖を打振つて走れば、警官その後をおい、陸軍士官が走り、魚屋がかけ、結極消防夫の勝となれり」とあることから、仮装競争だと思われます。以下の写真は、大正年間のものですが、おそらくこのような形で、実施されていたのではないでしょうか。歓声をあげる生徒たちの姿が見えてくるようです。

R大正年間 体育祭時仮装.png

(校友提供写真資料より 「大正年間仮装競争」)


「猫袋競争」
「記事」には「猫ども大いに浮かれ込み、したがって方向を取り違えたるもの多し」とありますので、頭から「猫袋」なるものをかぶって競技にあたったようです。『遊戯書』に「猫袋競争」の記載はありませんが「猫ノ頭巾」という競技が紹介されています。これによれば、頭から袋をかぶり匍匐してすすみ旗をまわってくるようです。そして第二走者にその袋を渡し、第二走者は同じことを繰り返すとあります。なおルールの「備考」として、疲れた場合は休んでも良いが、決して立つことは許されないと明記されています。本校の「猫袋競争」が「匍匐前進」かは判然としませんが、同じようなものの可能性もあります。

「虚無僧競争(こむそうきょうそう)」
記事中には内容に関する言及はありませんが、『遊戯書』には同名で紹介されています。
同書によると「無手一脚」でスタートしています。両手を身体の後ろでしばり、両足もしばられたようです。この状態で、飛び跳ねながら、コースの途中に置いてある籠の前まで進むようです。そしてひざまずき、拘束された状態のまま籠の中に頭をつっこみ、何とか図のような姿になり、今度は前が見えないまま、飛び跳ね前に進むようです。なお、児童(小学生)を意識した『遊戯書』には「備考」として、幼い児童については、「無手」のみとし、足は「結束せず」に「本演技を行ハシムルモ可ナリ」として、ハンデもあったようです。旧制逗子開成中学はそのままの実施のような気もします。

虚無僧競争 模写図.png


「動物採取」
とても気になりますが、記事中に内容に関する言及はありません。また『遊戯書』にも見られません。おそらく何らかの動物が競技に使用され、その動物をゴールまで運ぶといった類の競技であることが想像できるのではないでしょうか。吉見俊哉「ネーションの儀礼としての運動会」(『運動会と日本近代』(青弓社1999)には、『東奥日報』の記事から「家鶏争奪競争」なるものを紹介しています。それによると「生徒を源平に区別して左右に整列せしめ、中央に家鶏殆ど十五六羽籠に入れ置き、一発の砲声と共に籠を取り去りて左右より之れを奪ひ取り殺したる上、各自所属の門内に投げ入れ、多くを得たる方を以て勝とする」とあり、観客の中に逃げる鶏などで会場が騒然とした様子を紹介しています。逗子開成の「動物採取」は、当時ならではの「動物」だったのか、気になるところです。場合によっては「作り物」の可能性もあったのでしょうか。

 以上、明治時代44年の運動会のうち、気になった競技を紹介してみました。全体を通じて、他年度との競技内容比較、東京の開成中学をはじめとした他校比較など興味深い研究テーマが浮かんできます。いずれも後考を期したいと思いますが、神奈川私学における、明治時代の運動会の内容がわかる事例としてきわめて貴重な記事だと思われ紹介しました。なお、上記文章についてお気づきの点等ございましたら、校史編纂委員会までご意見いただければ幸いです。

 本年の体育祭は、コロナ禍をふまえた特別競技内容でした。後の時代から振り返った時にどのように認識されるのでしょうか。記録を残しておくことの大切さを感じます。

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