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【松坡文庫研究会】田家の人々と松坡田辺新之助

2021/09/28

 1906(明治39)年、第二開成中学校の経営の苦しさを訴えて寄付を募る田辺新之助校長の求めに応え、高橋是清、団琢磨、東郷慎十郎など、政財界の多くの方々が多額の寄付をして下さいました。田辺先生の恩師であった高橋是清や、次男伊能が第二開成中学校に在学していた三井の団琢磨、共立学校時代の教え子である東郷慎十郎らについては寄付の背景・動機がよくわかるのですが、寄付者芳名帳に記されている政治家・実業家の田艇吉(1852~1938)、その弟で政治家の田健治郎(1855~1930)については、田辺先生との関係や寄付をするに至った背景について何か釈然としないものがありました。

 田艇吉と田健治郎がそれぞれ50円(今日の価値としては30~40万円ほどでしょうか)を寄付した1906(明治36)年からはずっと後のことになりますが、1932(昭和7)年前後、田辺先生、漢詩人田辺松坡は立憲民政党議員を中心とした漢詩会「忘機吟社」の詩会に頻繁に参加していました。参加者には、衆議院議員で浜口内閣の政務次官を務めた小川郷太郎(号は松軒)、首相若槻礼次郎(号は克堂)、岡田内閣で文部大臣を務めた松田源治(号は獨靑)、衆議院議員石塚三郎(号は松籟 堤義明の祖父)などがおり、第二次若槻内閣で大蔵次官を務めた田昌(号は柏軒)の名も見られます。小川郷太郎と田昌は東京開成中学校での田辺先生の教え子でもありました。田姓にはっとしました。田昌は寄付をした田艇吉の長男で、田辺先生と田艇吉が繋がりました。更に、田艇吉が楓軒と号して漢詩をよくしたことも判りました。

 戦前までの政財界人の教養の一つに漢詩を詠むということがありました。松坡先生と個人的に親しかった松方正義、樺山資紀、大江卓、若槻礼次郎は優れた漢詩人で、樺山資紀(号は華山)の漢詩集『二松庵詩鈔』(1923)は樺山資紀の没後、松坡先生がその遺稿から編んだものです。幕末に豪農の家に生まれた田艇吉も幼少時から漢学・漢詩に親しんでいました。松坡先生が杉浦梅潭を助けて1890年(明治23)頃から幹事を務めた晩翠吟社の詩人と艇吉が親交を持っていたとか、詩会に参加した可能性もあります。いずれにせよ、田艇吉にとって田辺先生は長男の恩師の一人であり、漢詩を愛好する同志だった訳で、田辺先生が困難な状況にある中、寄付をする十分な動機・理由があったということになります。

 艇吉の弟である田健治郎についてはどうでしょうか。兄と同じように漢学・漢詩の素養があった筈です。「萬象閣雅集、呈在座諸公」と題された松坡先生の漢詩二首を『漢詩春秋』第16巻第10号(1932年10月)に見つけました。「萬象閣」と呼ばれた邸宅で雅集(ここでは漢詩の集まり)が開かれ、その折に同座した人々に示した作です。この集まりには、『漢詩春秋』の編集人兼発行人であった上村賣劍も参加しており、賣劍が詠んだ詩の序からこの会が8月に忘機吟社の月例会として「故讓山田子邸萬象閣」で開かれたことが判ります。「故讓山田子」は「故讓山田健治郎」であり、「萬象閣」は東京府荏原郡玉川村(現東京都世田谷区)上野毛の田健治郎の自宅でした。健治郎はこの二年前に亡くなっていますが、その邸宅で詩会が開かれたのです。松坡先生の詩の其の一の尾聯(第7、8句)には次のようにあります。

  伊人不見幾囘首   伊(か)の人 幾たびか首(こうべ)を回(めぐ)らせども見えず
  當代奇才田讓山   当代の奇才 田讓山

『漢詩春秋』16-10.jpg

「『漢詩春秋』所収の松坡先生の詩」


 亡き讓山田健治郎を追想するさまが詠まれ、その人を当代の奇才と称えています。松坡先生と田健治郎の間に漢詩を介しての深い友情があったと考えてよいのだと思います。この交友が恐らくは明治30年代から続いており、その交友の中での1906(明治39)年の寄付ということになったのではないかと推察されます。

 寄付者の一覧を見直してみると、漢詩を仲立ちとする以外には松坡先生との交友が考えにくい人物が何人かいます。寄付者の一人一人について田辺先生との関係を改めて確認する作業が必要だと感じています。

 最後に余談。田健治郎の孫の一人がジャーナリストで政治家の田英夫(1923~2009)です。また、田健治郎の萬象閣は後に五島慶太の手に渡り、現在、旧五島邸の一部は五島美術館になっています。

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