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【松坡文庫研究会】松坡先生の漢詩講読会

2023/03/09

 松坡田辺新之助先生は明治から大正昭和の日本漢詩壇を代表する漢詩人の一人として多くの作を残していますが、それだけでなく、漢詩の講読会を精力的に開いていました。幾つかを紹介しましょう。

 先ずは、大正14(1925)年末頃、横浜の有志の求めに応じて毎週土曜日午後に横浜市教育会で開いた『論語』と『唐宋詩醇(杜甫)』の講義。同年12月31日付の徳富蘇峰宛書簡で詳しく述べられていますので、多少長くなりますが、引用します。

劫灰堆積之中、而かも商業不振之際、去廿六日之如き、年末ニ差迫り居候ニも係ハらず杜詩を参聴致暮れられ候者多数有之候。頗人意を強くする次第ニ御座候。中井竹山翁之創設以来百餘年、懐徳堂書院之講義が今日ニ至る迠継續、大阪町人ニ謹聴せらるゝ之美事ニ追随すべき事かと窃ニ悦居候。今後ニ於ける横濱町人之大を成す上ニ多少なりとも裨益ある様致度望居候得共、老生之微力にして淺学なる、やがてハ貴台之御髙助も願上度候。

 関東大震災から完全には立ち直っていない中、暮れの慌ただしい時期にもかかわらず多くの横浜市民の参加を得たことを喜び、自らの講読会を中井竹山の懐徳堂に擬えています。横浜市民が大きなこと(震災からの復興や経済発展)を成し遂げる上で多少なりとも役立つことを願っています。テキストに使用された『論語』は孔子の言論を中心として、門人らとの問答を集めた語録。『唐宋詩醇』は清の乾隆帝の勅命により編まれたアンソロジーで、唐宋の詩人から李白・杜甫・白居易・韓愈・蘇軾・陸游の6人を選び、その詩から二千数百首をとって各詩人ごとに総評を、各詩ごとに短評を付したものです。この講読会がその後、どういう経過を辿ったかについては資料からは判りません。

 もう一つは、松坡先生が鎌倉の自宅で開いていた講読会。テキストはやはり『唐宋詩醇』でした。始めたのは大正前半から半ば頃だと思われ、終了したのが昭和2(1927)年でした。画家・文筆家の有島生馬(1882~1974)が聴講していました。生馬が病気療養を兼ねて鎌倉の別荘に住むようになったのが大正9(1920)年の末からですから、生馬の聴講はそれ以降ということになるでしょう。昭和2(1927)年に改造社から出版された生馬の散文集『海村』には松坡先生の題詩が冠されていますが、著者生馬自身が例言で次のように書いています。「卷頭に田邊松坡先生の題詩を掲げ得たことは深く光榮とする所である。鎌倉在住中先生の唐宋詩の講讀會に列席することを得た。その感謝を併せて茲に申述べたいのである。」 生馬が松坡先生の講読会で得た何かが生馬の文筆活動にいくらかでも活かされているのでしょうか。

 最後は鎌倉寿福寺での講読会。建長寺の国立正呉師と寿福寺の内田智光師らの求めに応じたもので、昭和11(1936)年から15(1940)年間まで続きました。初めは漢詩を詠んでいたのですが、講義をしようということになって選ばれたテキストが『清詩評注読本』でした。会の名前は松坡自身による命名で「晩翠会」といったそうです。松坡先生が23歳から参加していた晩翠吟社から採った名称です。

 ところで、最近『田邊松坡先生講本』と題されたガリ版刷りの和綴じ本を入手しました。表紙には清代の漢詩人が列挙されており、内容は表紙に書かれた詩人の作品のアンソロジーです。詳細な鉛筆書きのメモがびっしりと余白を埋め、「晩翠會」の印が二箇所捺されています。日付の記載や旧蔵者のヒントになるような書き込みは残念ながらありません。しかし、この『田邊松坡先生講本』は寿福寺晩翠会での清詩講読会の教材で、それに参加した誰かが松坡先生の講義を丁寧に筆記したものに違いありません。旧蔵者が誰かわかりませんし、何人の手を渡ってどういう経緯で古書店に入ったのかもわかりません。ただただ、こうしたものを廃棄することなくよくぞ残してくれたものだと感謝すると同時に、松坡先生の講義録ともいうべきものが偶然の廻り合わせで田辺松坡を研究する会に来たり至ったことに驚きを禁じ得ません。旧蔵者の書き込みからは松坡先生の講義の息遣いが感じられるようです。

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『田邊松坡先生講本』表紙

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