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【松坡文庫研究会の活動】 幻の『菱花山館詩鈔』

2022/10/30

 松坡文庫研究会の袴田潤一先生よりご寄稿いただきました。公刊されることのなかった、松坡先生 幻の漢詩集について、初出資料をもとに紹介なさっています。

 松坡田辺新之助先生に『菱花山館詩鈔』と題された未定稿があります。鎌倉女学院が所蔵する田辺先生関係の「田辺文庫」の資料の一つで、本校にその複写があります。2003年の創立百周年を記念して刊行された『学祖 田邊新之助』(逗子開成学園校友会 2003.4.18)の編集委員によって複写されたものです。

 原稿は17字×12行の原稿用紙47枚に、冒頭「菱花山館詩鈔 西肥 田邊新 子慎」と書かれ、詩形(五言・七言のそれぞれの古詩・律詩・絶句)ごとにまとめられて全108首が記されており、何箇所か字句の修正が施されていますが、ほぼ定稿とみてよいでしょう。書かれている作品のそれぞれがいつ詠まれたのかは記されていませんが、松坡先生が残した新聞の漢詩壇への投稿の切り抜き帳(鎌倉市中央図書館所蔵)や書籍・雑誌に原稿中の幾つかの作品が掲載されていることを考え併せると、おおよそ明治19(1886)年頃から明治31(1891)年頃の作だと言えます。松坡先生25歳から37歳、晩翠吟社へのデビューから詩壇での地位を確かなものにした頃までの作がまとめられています。「詩鈔」の「鈔」は「写し取る、書き写す、抜き書き」という意味で、詩集のタイトルに使われる言葉です。原稿の体裁とタイトルから考えて松坡先生が明治30年代初めの段階で詩集の刊行を企図していたのではないかと推察されます。

 稿のタイトルにある「菱花山館」は松坡先生の堂号の一つで、晩年、昭和9(1934)年新築の鎌倉水道路の自宅を「菱花山館」と称しています。同年秋の松坡先生の作に「中秋菱花山館雅集席上分韻」と題された詩がありますが、松坡先生の新居での松社の詩会の折に詠まれたものです。若い頃に使っていた堂号を改めて新居のために使ったということになります。

 詩稿に収められた作品から二つみてみましょう。まず「悲老宮人(老宮人を悲しむ)」。老いたる宮人、宮中の奥向きに仕える老いた女官を悲しむ歌です。「露滴芙蓉臉損朱。雲鬟半亸又難扶。」 露は芙蓉に滴れど、臉(かお、ほほ)、朱を損い、雲鬟(うんかん)半ば亸(た)れ、又、扶け難し。頬の血色は損なわれ、かつては雲の形のように美しく結った髪も垂れてしまった老官女の描写から始まります。この詩は新聞の漢詩壇への投稿以外で初めて活字になった松坡先生の詩でもあります。『日本名家詩選』((脇屋義質編 須原屋茂兵衛 1886)に収録された五首の一つで、松坡先生の師であった大沼枕山は「語巧而格高、冝與劉後村老妓詩、為並誦矣(語は巧にして格高し、劉後村の老妓の詩より宜し、並誦為すべし)」と南宋の詩人劉克荘(1187~1269)の詩と並んで高く評価しています。松坡先生自身この詩は自信作だと自負していたと思われ、『文林』第11号(文林會 1889.12)、『西肥會雜誌』第4号(西肥會 1890.12)にも掲載されています。当然、『菱花山館詩鈔』に収められるべき詩だったのです。

 もう一作は「讀石田東陵函山雑詩題其後(石田東陵の函山雑詩を読み、其の後に題す)」。松坡先生は後に(時期不詳)、この詩を三行書に認めています。石田東陵(1865~1934)は明治から昭和前期の漢詩人で本名羊一郎。仙台の人。儒学を仙台藩藩校養賢堂の助教斎藤真典に、漢詩を国分青厓に学び、母校共立学校の教師(修身、英語)、教頭を経て、大東文化学院教授、東京文理大講師を務めた人物です。松坡先生らと共に、第二開成学校設立者の一人でした。松坡先生とは同僚であっただけでなく、漢詩を通じての深い親交がありました。『菱花山館詩鈔』には他に「遊高尾山次韵石田東陵詩(高尾山に遊び、石田東陵の詩に次韵す)」、「與東陵訪佐和東野翁曖遠村荘翁有詩次韻(東陵と佐和東野翁の曖遠村荘を訪ぬ、翁に詩有り、次韻す)」と題された詩が収められています。石田東陵は昭和9(1934)年に亡くなりますが、その死を悼んだ松坡先生は「哭石田東陵四章」で東陵との交誼の思い出を詠じ、後に東陵について「東陵は實に達筆の人であり書を讀むことも頗る早く學問文章余が七十餘年の閲歴中未だ曾て睹ざるの奇才であった」と語っています(『漢詩春秋』第20巻第1号 1936.1.1)。

 原稿のみが残され、実現しなかった『菱花山館詩鈔』ですが、そこに収められた詩からは松坡先生の人生の諸相が垣間見られ、大変に興味深いものです。

澗水トウトウ.jpg

田辺松坡詩軸「讀石田東陵函山雑詩題其後」詩(個人蔵)

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「哭石田東陵四章」より第一首(『漢詩春秋』所載)

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