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【松坡文庫研究会の活動】旧蹟保存指導標

2023/01/28

 鎌倉市内各所に「旧蹟保存指導標」と呼ばれる多くの碑があります。鎌倉青年団(1911.3.12鎌倉青年会、1921.2.24鎌倉町青年団、1939.11鎌倉市青年団と改称)が、1918(大正7)年から1956(昭和31)年に名所旧跡を解説するために建立したもので、仙台石製、高約180㎝、幅約70㎝の大きなものです。鎌倉を訪れる方はどこかでお目にかかっている石碑です。青年団によるものの75基のほか、鎌倉同人会4基、鎌倉友青会3基、長谷上町文化会1基の計83基が数えられます。

 松坡先生が発起趣旨を起草し、会の命名をした鎌倉同人会が1919(大正8)年に建てた六地蔵(饑渇畑)碑と盛久頸座碑は松坡先生の撰文・書であることがはっきりしているのですが、それ以外の碑については撰文者と文字を書いた人物の名が刻まれていません。ただ、例外が2基あります。比企谷の妙本寺境内にある万葉集研究遺蹟碑(昭和5年 鎌倉青年団)の「宮中顧問官井上通泰撰 菅虎雄書」と、稲村ガ崎の十一人塚碑の「田邊松坡撰并書」です。

盛久頸座.JPG

盛久頸座碑(長谷1丁目7付近)

十一人塚.JPG

十一人塚碑(稲村ガ崎1丁目13-22)


 十一人塚碑の碑文末尾には「昭和六年 鎌倉町青年團」とありますが、この碑は建て替えられた(碑文改刻)もので原碑が建てられたのは1924(大正13)年のことでした。その撰文が誰のものだったかは判りません。鎌倉同人会の理事の一人から碑文の内容に関する疑義が持ち上がり、青年団への碑文の改刻が申し入れられました。青年団側でもそれを容れて碑を建て替えたのです。費用は鎌倉同人会が負担しました。


 幸いに原碑の撰文が記録されており(『鎌倉』第1巻第2号 1926.5)、碑文改刻の理由がわかります。十一人塚の建つ場所は元弘3(1333)年の新田義貞による鎌倉攻めの際、極楽寺から鎌倉を攻撃したものの、鎌倉方の本間山城左衛門の手兵に打ち取られた大将大館次郎以下主従11人を葬った場所で、そこに十一面観音像を建て英魂を弔ったとされています。原碑には「傳ヘ云フ新田義貞ノ勇士十一人此ノ處ニ於テ討死セルガ之ヲ葬リテ十一面観音堂ヲ建ツ」とあり、11人が討ち死にした場所がまさに碑が建つ所だと記されていました。
 一方、鎌倉町青年団によって1922(大正11)に建てられた稲瀬川碑には「義貞ガ當手ノ大将大舘宗氏ノ此ノ川邊ニ於テ討死セルモ人ノ知ル所」とあります。同じ団体によって建てられた碑2基で大館宗氏主従十一人の討死の場所が異なっていたのです。大舘軍と本間軍の戦闘について、『太平記』では大舘軍は本間軍の攻撃に八方に散り、一旦腰越まで引いたものの、大将宗氏は取って返して本間の郎等と差し違えたと記されているだけで、戦死の場所には触れられていません。ところが、『梅松論』では稲瀬川において討ちとられるとあります。稲瀬川碑碑文は『梅松論』に依拠して書かれたことがわかります。建て替えられた十一人塚碑は葬った場所であるとだけ記し、戦死場所には触れていません。
 碑文に対する疑義は大舘宗氏らの戦死場所に関わっていたことは確かで、鎌倉町青年団は新碑の碑文を松坡先生に依頼し、文責を明かにするために「田邊松坡撰并書」と刻んだのです。松坡先生による新しい碑文は稲瀬川碑との矛盾を解消し、必ずしも明確ではない戦死場所については敢えて記さないことで、戦死場所についての異説との距離を取るという考えによるのだと思われます。学者らしい優れた態度は大いに学ぶべきことです。
 十一人塚碑以外にも、碑文の書きぶりから松坡先生の手になるものに違いないと推察されるものが何基かありますが、記録もなく何とも言えません。

 鎌倉を歩いて、旧蹟保存指導票を目にする機会があれば、しばし立ち止まって簡潔で格調高い文章を味わっていただきたいと思います。

 参考までに十一人塚碑(改刻碑)の碑文を掲載しておきます。

  十一人塚  田邊松坡撰并書
元弘三年五月十九日新田勢大館又次郎宗氏ヲ
将トシテ極楽寺口ヨリ鎌倉ニ攻入ラントセシ
ニ敵中本間山城左衛門手兵ヲ率ヰテ大館ノ本
陣ニ斫込ミ為メニ宗氏主従十一人戦死セリ即
遺骸ヲ茲ニ瘞メ十一面観音ノ像ヲ建テ以テ其
ノ英魂ヲ弔之ヲ十一人冢ト稱セシト云フ
昭和六年三月   鎌倉町靑年團

※ 斫込ミ  きりこみ
  茲ニ瘞メ ここにうずめ

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