校史余滴 - 逗子開成ニュース

校史余滴 第十三回 「第一回卒業式」

2017/03/24

校史余滴
 第13回 第一回卒業式

 逗子開成高等学校の卒業式は毎年3月1日に行われます。桜には早く、寒い日もありますが、かすかに春の気配が感じられる時期です。
今回は、記念すべき本校(旧制逗子開成中学校)の第一回卒業式を紹介します。
第一回卒業式が行われたのは設立から4年後の1907(明治40)年3月28日でした。前年12月に初代校長田邊新之助先生が辞任し、校長は、理科大学を卒業後、東京開成中学校で教えており、本校創設者の一人で、設立後は数学を教えていた太田澄三郎に代わっていました。校舎も増築され、徴兵令による認可(文部省による徴兵猶予の恩典)も受けました。卒業生は29名で正装の教職員とともに撮影された記念写真が残っています。
 交叉する日章旗を背景に、総員45名の男性が写っています。28名の学生服姿の若者は筒状に丸めた卒業証書を手にし、教職員である年輩の男性17名は正装です。
 卒業生には、自由民権家で松山英学校(後の松山中学校)を創設し、初代校長となった草間時福(1853~1932 後に官吏に転ず)の長男時光がいました。草間時光(1887~1959)は1916(大正5)年京都大学法学部政治学科を卒業後、民間での勤務を経て東京市に入り、京橋・日本橋区長を歴任。戦後、1951(昭和26)年には、日本社会党・日本共産党などの推薦を受け、鎌倉市長選に立候補し、初の革新市長に当選しました。任期は一期で1955(昭和30)年に退陣。父時福が水原秋桜子に師事した俳人だった影響もあり、時光も俳句をよくし、時光の子時彦(1920~2003)も俳人として著名です。軽部三郎は横浜保土ヶ谷本陣軽部家の人。慶應義塾理財科を卒業し、横浜市会議員をつとめました。歴史に非常に興味を持たれて、軽部家や地域のことも研究し、大正末の『横浜市史稿』や昭和に入ってからの『保土ヶ谷区郷土史』編纂にその成果が取り入れられているそうです。
 また、卒業生の中には武濬源・林涵という二名の清国からの留学生がいたことが注目されます。二人は共に天津私立第一中学校を卒業後、日本に留学し、第二開成中学校に入学しました。西洋列強の侵略により困難な状況にあった清国では、中国の伝統的な文化の基礎の上に立って西洋の学問技術を導入すべきことが唱えられましたが、武・林両君も西洋の学問技術を習得する近道として、日本に留学したのです。在学中の記録がないのは残念ですが、卒業後は共に東京高等工業学校(現東京工業大学)に入学しました。また、創立40年を記念して1943(昭和18)年に作成された校友会会員名簿の武濬源の職業欄には「天津直隷高工長」と記載されています(林君の欄は記載なし)。東京高等工業学校卒業後には帰国し、革命後の中国のために働いたのでしょう。日本との長期にわたる戦争をどう感じていたのでしょうか。

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  第一回卒業式(1907年3月28日)

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校史余滴 第十二回 ああ壮烈 義人 廣枝音右衛門

2017/02/24

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 第12回 ああ壮烈 義人 廣枝音右衛門

 廣枝音右衛門という卒業生がいます。太平洋戦争末期に自らを犠牲にして日本軍の台湾人兵士の多くの命を救ったと顕彰される人物です。

廣枝音右衛門は1905(明治38)年に神奈川県足柄下郡片浦根府川(現 小田原市根府川)に生まれ、1924(大正13)年に逗子開成中学校4学年に編入しています(編入前の履歴は残念ながら不明です)。2年後の1926(大正15)に卒業し、日本大学予科を経て、1928(昭和3)年に佐倉歩兵第57連隊に入隊、軍曹にまで昇進しました。満期除隊後、一時湯河原町で小学校教員を務めますが、1930(昭和5)年に台湾総督府巡査を志願し晴れて合格、台湾に渡りました。植民地台湾の治安維持にあたるだけでなく民生向上にも貢献したそうです。温厚な人柄で、部下のみならず島民からも慕われたと言います。

 太平洋戦争の戦線拡大により、軍属部隊である海軍巡査隊の総指揮官を拝命したのが1943(昭和18)年で、台湾の警官を中心に編成された約2,000名の隊員は12月マニラに到着し、治安維持にあたりました。ルソン島への連合軍の上陸が迫ると、マニラ海軍防衛隊が編成され、海軍巡査隊はその指揮下に入りました。1945(昭和20)年、連合軍がルソン島に上陸し、激戦が繰り広げられる中、海軍防衛隊は隊員に敵戦車への体当たりを命じたのです。

 2月24日、廣枝は部下に向けて次のように語り、拳銃で頭部を撃ち自決したのです。
「此の期に及び玉砕するは真に犬死に如からず 君達は父母兄弟の待つ生地台湾へ生還しその再建に努めよ責任は此の隊長が執る」

その後、廣枝の部下数百人が米軍に投降、約一年間の捕虜生活を経て故地台湾に生還しました。

 戦後、廣枝の部下だった台湾人警官らによって元台湾新竹州警友会が結成され、時を経て、1976(昭和51)年、台湾北部の苗栗県獅頭山に廣枝の位牌を祀りました。慰霊祭も毎年執り行われています。
 1977(昭和52)年には日本在住の有志らにより茨城県取手市弘経寺内廣枝家墓域に顕彰碑が建立されました。

 顕彰碑に刻まれた文章を掲載しておきます。

 ああ壮烈 義人 廣枝音右衛門
君は明治三十八年十二月二十三日神奈川県小田原に生まれ長じては東京日本大学に学ぶ昭和五年意を決し台湾警察に身を投ず頭脳明晰資性温厚而も剛毅果断 台湾島民の信頼殊の外厚し昭和一二年七月日華事変勃発続いて昭和一六年一二月大東亜戦争に拡大其の門銃後の守りに挺身昼夜の別なし昭和一八年一二月新竹州警部にして竹南郡行政主任たりし時台湾青年の海軍巡査を以て組織せる軍属部隊の長として比島に派遣さる部下への愛情深く慈父と仰がる されど戦況吾に利あらず遂に昭和二〇年二月米軍の上陸侵攻を受けるや吾に防御の術さえ無し軍の命令たる其の場に於いて全員玉砕すべしと既に戦局の前途を達観したる隊長は部下に対し「此の期に及び玉砕するは真に犬死に如からず君達は父母兄弟の待つ生地台湾へ生還しその再建に努めよ責任は此の隊長が執る」と一言泰然自若として所持の拳銃を放ちて自決す時に二月二四日なりその最期たる克く凡人の為し得ざる所
 宜なるかな戦後台湾は外国となりもこの義挙に因り生還するを得た数百の部下達は吾等の今日在るは彼の時隊長の殺身成仁の義挙ありたればこそと斉しく称賛し此の大恩は子や孫々に至るも忘却する事無く報恩感謝の誠を捧げて慰霊せんと昭和五一年九月二六日隊長縁りの地霊峰獅頭山勧化堂にその御霊を祀り盛大なる英魂安置式を行う
この事を知り得た吾等日本在住の警友痛く感動し相謀りて故人の偉大なる義挙を永遠に語り伝えてその遺徳を顕彰せんとしてこの碑を建立す
  昭和五二年一一月吉日 元台湾新竹州 警友会
    因に遺族は取手市青柳に住す

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遺徳顕彰碑と廣枝家之墓(取手市 大鹿山弘経寺)

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校史余滴 第十一回 田邊家之墓 墓参

2017/02/18

校史余滴 第11回 田邊家之墓 墓参

 2月18日、校友会の方々と鎌倉寿福寺の田邊家の墓にお参りしました。田邊新之助先生の命日2月24日に合わせてのことです。寿福寺南側の細い道を墓所の最奥まで上ると田邊家之墓があります。香華を手向け、逗子開成の今日の様子を報告し、新之助先生及び田邊家の人々の霊を慰めました。
 田邊新之助先生については、東京開成の校長であり、逗子開成中学校・鎌倉女学校を創設したこと、松坡と号し、近代を代表する漢詩人であったことなどがよく知られています。ここでは、先生の後裔を紹介します。
 新之助先生は1884(明治17)年、22歳のときに広島県士族水谷勝貞長女・鍈と結婚し、三男四女をもうけました。長男は絶対弁証法の田邊哲学を確立し、1950(昭和25五)年に文化勲章を受章した元(1885~1962)。次男・至(1886~1968)は黒田清輝に学んだ西洋画家で、鎌倉に住し、日本創作版画協会結成にも尽力し、東京美術学校教授を務めました。三女・よしは野澤氏に嫁しましたが、その子にフランス思想史研究者の野沢協がいます。旧制浦和高等学校で澁澤龍彦と同窓で、「現代フランス文学を読む会」のリーダーでした。また、野沢協は鎌倉小町における初期「澁澤サロン」の有力メンバーでもありました。協の兄は京都大学名誉教授で霊長類研究所の所長も務めた野沢謙。その子、野沢尚は2004年にみずから命を絶った脚本家・推理小説家。田邊新之助の家からは多くの優れた人物が育ちました。

ところで、田邊先生は明治・大正・昭和にわたり鎌倉の文化に大きく貢献し、漢籍を中心とした蔵書の多くが鎌倉市図書館に寄贈されて「田邊松坡文庫」を成しています。来年度、鎌倉市図書館で「田邊松坡文庫」に関するイベントも企画されているようです。

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校史余滴 第十回 三船久蔵と高野佐三郎

2017/01/20

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 第10回 三船久蔵と高野佐三郎

大寒、寒稽古の時期です。寒稽古は、寒の時期に武道や芸事の修練を行い、技術の向上と共に、寒さに耐えながら稽古をやり遂げることで、精神の鍛錬をするという目的を持つものです。本校でも、武道が正課とされ、更に必修科目となった時期(大正末から戦前)に柔道部・剣道部を中心に寒稽古が行われ、寒稽古明けに義士祭を行っていました。
退役海軍少将岡田三善が第6代校長に就任し、文芸・講演・剣道・柔道・庭球・競技の六部から成るクラブの連合組織である「修養会」を発足させると、校長自ら柔道部の寒稽古に参加し、生徒に芋や蜜柑を出したといいます。
この時期の修養会の活動で特筆すべきことは、柔道の三船久蔵、剣道の高野佐三郎の指導を得たことです。
三船久蔵(1883~1965)は明治から昭和にかけての日本を代表する柔道家。後進の指導にも積極的で、東京大学・明治大学・日本大学その他多くの大学・高専などの柔道師範をも務めました。1923(大正12)年には七段に昇り、講道館指南役となります。色白で小柄な体格でした。小さい者が大力の巨漢に勝つ合理的な研究を一生追求し続けた点で、師の嘉納治五郎と共通するところが大でした。その研究と鍛練とにより隅落(空気投)・大車・踵返・諸手刈・三角固・球車などの妙技を創出したことでも知られます。1945(昭和20)年には講道館柔道十段。
本校柔道部の歴史を綴った貴重な資料である松本信彦(1918年 第12回卒 1920年より本校教諭)の「我が校の柔道部史」(『校友會雜誌』第十三号)に三船師範による指導のことが記されています。

暑中稽古も終つて涼しい風の立つた十月(1921年)、斯界の第一人者三船先生を我が校に聘し、柔道の大講演を二時間にも渡つてとかれ且つ実地練習、業の変化等を習ひ、終わつたのは五時頃でした、日本一の大先生の事ですが、この大熱心と論理の徹底、技の妙とに職員始め生徒は実に驚き入つたのでした、この刺激によつて吾々生徒全部は柔道の偉大なしかも神秘的な事を知り教員室の先生方で稽古しようと云ふ方もありました、部員は柔道の真価を悟り、稽古に対し趣味と豊富と自信が出て参りました。...(中略)...十二年一月から七段三船先生を我が師範として御招きする事が出来ました、先づ中学校校に於て、三船先生の如き大家を師範として戴く学校は東京以外他府県には絶対にないのであります、先生は来られる度毎に暗くなる迄熱心に稽古をされる事は我が校の誇りとする所であります、この寒稽古は九十五名程ありまして、前年よりも約三十名の多数の皆勤者がありました。

高野佐三郎(1862~1950)は明治から昭和時代にかけての剣道家・剣道教育家で、剣道の指導者養成にも大きな足跡を残しました。大日本帝国剣道形制定の主査委員を務め、剣道形の普及と近代剣道の完成に力を注ぎ、近代剣道界に多大な貢献をなし、昭和の剣聖ともいわれた人です。
剣道部史のようなまとまった記録がないので高野佐三郎が指導を始めた時期は判然とはしませんが、『校友會誌』の年表記録には、1926(大正15)年6月24日に「高野佐三郎講演」という記録があり、三船師範と同じころから逗子開成中学校で指導にあたったことが推察されます。
柔道・剣道における当時の日本を代表する二人が並んで写った本校所蔵の写真は、非常に貴重なものです。
この時期の十数年間、柔道はほとんど毎年全国中等学校の覇権を握り、開成の柔道は全勝横綱の貫禄を示しました。剣道も甲信越及び全国対抗に参加し優勝旗をもって帰って来たこと数回に及ぶほどの強剛ぶりでした。

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  右:三船久蔵  左:高野佐三郎

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校史余滴 第九回 橋健三先生

2017/01/08

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 第9回 橋健三先生

「第二開成中学校創業費並特別経費」(田辺文書所収 鎌倉女学院所蔵)には明治36年2~3月、東京開成の首脳陣が足繁く逗子・鎌倉に通い、第二開成設立の準備に追われていたことが示されています。主要メンバーは東京開成の共同校主だった先生方で、第二開成の初代校長となる田邊新之助、第二開成教員となり、後に平塚育英学校を開いた太田澄三郎、そして、橋健三らでした。
橋健三は1885(明治18)年より東京開成で漢文・倫理を教え、第二開成が分離独立後、東京開成の第5代校長となり、1928(昭和3)年までの長きにわたって校長を務めました。今回は橋健三について紹介します。
 橋健三は万延2(1861)年、加賀藩士瀬川朝治の二男として加賀国金沢に生まれました。幼少より加賀藩学問所壮猶館教授の橋健堂に学び、12歳の時には学才を見込まれて健堂の三女コウの婿養子となって橋健三と名乗りました。その後、健堂の漢学塾「集学所」を受け継ぎ、教授となります。14、5歳にして、養父の橋健堂に代わって前田土佐守家前田直行(1866~1943)に講ずるほどの秀才だったといいます。
 1884(明治17)年、コウとの間に、長男の健行が誕生しますが、廃藩置県により覚束なくなっていた「集学所」をたたみ、妻子と共に上京、小石川に学塾を開きました。共立学校(開成中学校)に招かれて漢文・倫理を講ずるようになったのは1888(明治21)年のことでした。共立学校の設立者佐野鼎と橋健堂は加賀藩学問所壮猶館で深い親交があったからでしょう。妻の死に伴い、1890(明治23)年には、健堂の五女トミ(つまりコウの妹)を後妻とし、雪子・正男・健雄・行蔵・倭文重・重子の三男三女を儲けることになります。
 1894(明治27)年には開成中学校の共同設立者に加わり、第二開成中学校設立に奔走したことは既に述べたとおりです。東京開成中学校校長としては、学校の移転拡張を図るため、学園組織を財団法人とし、理事長に就任したこと、日暮里への移転を果たしたことが特筆すべきことです。三校主(橋健三、石田羊一郎、太田澄三郎)が学校の動産及び不動産の全部を寄付し財団法人の財産とすることが定められました。「この三校主の勇気決断は、この学校の出身者の特に肝に銘記しなければならないことである」と東京開成の学園史に記されています。
 1928(昭和3)年、校長辞職後は、夜間中学開成予備学校(昌平中学)の校長として、勤労青少年の教育に尽くしていましたが、太平洋戦争中の1944(昭和19)年、その職を四男行蔵に譲り、故郷の金沢に帰り、同年12月5日に亡くなりました。84歳でした。
 雪の如き白色の長髯と炯々たる眼光は教育界の名物で、祝祭日の儀式で賀表を朗読する最後に、名前を「けんそう」と濁らないで発音するのが生徒間の話題だったそうです。
 ところで、次女「倭文重(しずえ)」は1924(大正13)年に農商務省事務官(東京開成中学校、第一高等学校、東京帝国大学法学部卒)の「平岡梓」と結婚し、翌年長男「公威(きみたけ)」を生みます。公威は長じて小説を書き、作家「三島由紀夫」となります。橋健三は三島由紀夫の外祖父に当たるのです。
 昨年末、休みを利用して私は橋健三墓の掃苔に赴きました。金沢市中心部から南約4キロのところに野田山墓地があります。標高約180mの野田山山頂から山腹に広がる総面積43万㎡(東京ドームの約10倍)の広大な墓地です。山頂近く、前田家墓所の西の「平成墓地乙」墓域に橋家の墓があります。中央に橋一巴(健三の祖父、健堂の父)の墓、向かって左に健三の、その右に小さな橋健秀(不詳)、一番右に橋健行の計四基の墓があります。(橋健堂の墓はありません。) 健三の墓は正面に「橋健三墓」、右側面に「健住院釋清和 昭和十九年十二月五日没 八十四才」、左には「昭和廿七年十月十日建之 正雄 健雄 行蔵」と刻まれていました。


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   橋家の墓(金沢野田山墓地)
   一番左が橋健三墓

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校史余滴 第八回 校歌制定

2016/10/18

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 第8回 校歌制定

 第7回でお話しした校章に関連して、今回は校歌制定についてです。本校の校歌が制定されたのは大正14(1925)年10月、91年前のことでした。ペン・剣に桜の校章 制定に先立ちます。そもそも、「校歌」を制定する慣行がいつごろから諸学校に広まったかは、定かではありません。中学校・高等女学校などについていえば、おそらく府県立中学校・高等女学校などが多く成立する日清・日露戦争間あたりではなかったかとされ、高等教育機関では、1890年代以降旧制高等学校の寮歌が学生歌・準校歌として作られ、慶応義塾塾歌(1904)、早稲田大学校歌(1908)などが続々と作られました。歌詞の特徴は、尚武・貞淑・研学・国家の使命などを盛った漢文調のものが中心でした。

 本校校歌の詩を書いたのは東京大学文学部国文科在学中ながら、大正13年から講師として本校で教鞭をとっていた井上司朗(1903~1991)で、岡田三善校長の要請を受けてでした。それに曲をつけたのは弘田龍太郎(1892~1952)です。

 井上司朗は立教中学校から第一高等学校を経て、1924年、東京帝国大学文学部国文科に入学。在学中から本校で英語と国語と漢文の講師を務めました。その後、東京帝国大学法学部政治学科に入り直し、1928年に卒業。戦中は内閣情報部で働きましたが、戦後は公職を辞し、後楽園スタヂアムに入社し同社取締役を経て、1954年、ニッポン放送の創立に参画しました。逗子八郎の筆名で、多くの短歌を詠み、歌集も残しています。1960年代に本校の理事の一人となっています。
 逗子八郎の名で書いた随筆「五遷の松」(『月刊時事』【身辺閑話】第66回 月刊時事社 1983年1月)に本校の校歌制定について触れた部分があります。

 やがて校長から、逗子開成の校歌をつくるようにと御命令があり、潜心二週間、ようやく成った『天地分くる富士ヶ嶺の』以下、一節六行、六節の歌詞を、校長先生が非常によろこばれ、予算はいくらかかってもよい、之に日本一の作曲家に作曲をお願いしろ、とのことで、私の立教中学の保証人杉浦千歌子先生(東京音楽学校教授)を通じ、同校教授弘田龍太郎先生(当時日本一の大家)におねがいし、一ヶ月の後、全国高校校歌中、屈指の壮重華麗な名曲を得た。今にして思えば、私の逗子開成の厚恩に対する、心ばかりの感謝のしるしとなった。
 
 一方、作曲をした弘田龍太郎は東京音楽学校本科を卒業した作曲家で、本校校歌を作曲するまでに、「鯉のぼり」「靴が鳴る」「浜千鳥」「叱られて」「雀の学校」「春よ来い」などを作曲しています。本校校歌以外に全国各地の小中高等学校の校歌を多数作曲しました。

 この時作られた校歌はもちろん現在の校歌ですが、実は1943年、太平洋戦争中、創立40周年を記念して、この校歌が廃止され当時の鹿江三郎校長の作詞、海軍軍楽隊長内藤清五作曲による新たな校歌が制定されました。しかし敗戦とともにこの校歌は廃止され、従来の校歌に戻ったのです。

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弘田龍太郎墓所(谷中・全生庵)

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校史余滴 第七回 校章の変遷

2016/09/21

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 第7回 校章の変遷

 「ペン・剣・桜」の校章が定められてからこの9月で88年になります。創立113年なのに、校章は88年?
現在の校章は30年前の中学校再開を機に、「ペン・剣・高」を改めたものですが、もとの意匠は奥宮衛校長時代に制定されたものなのです。
第二開成学校としてスタートした本校では長く「ペン・剣・二」の校章を使用していました。開成中学校の校章(徽章)が「ペン・剣」と定められたことについては、『東京開成中學校校史資料』(1936)という書物に、

明治十九年 十二月 初めて生徒の帽子及徽章を制定す。徽章は剣とペンとを交
叉したるものにして英国の俚諺「ペンは剣に優れり」(The Pen is mightier than the Sword.)より採りたるものなり。

と記されています。この「俚諺」は当時広く知られていたのですが、イギリスの作家・政治家である Edward George Earle Bulwer-Lytton(1803~1873 有名なリットン調査団の「リットン卿」の祖父)の5幕から成る戯曲"Richelieu"の第2幕第2場のRichelieuの科白によります。

リシュリュー(何かを書こうとペンを持ち上げて)
そうだ、これだ! 完全に偉大な人間の統治下では、ペンは剣よりも強いのだ。

リットンの作品は西南戦争前後に広く読まれるようになり、この言葉も武力よりも言論が重視されるようになるなか、次第に「俚諺」化して人口に膾炙していったのです。第二開成学校として発足した本校は、東京開成中学校の校章であるペンと剣の交叉の中央に、第二を表す「二」の文字を置いたものを校章としたのです。

大正9(1920)年、開成中学校から独立して11年目の楠公祭の記念メダルがありますが、その裏面に刻まれた校章はペンと剣の交叉に「二」。また、昭和3(1928)年10月の講堂落成校友大会記念のメダルにもペン・剣に「二」。逗子開成中学校となった後、19年間もの長きにわたって第二開成を表す校章を使っていたことになります。

加藤義雄(1942年 第36回卒)から寄贈された写真・絵葉書の中に、何枚かの新聞記事の切り抜きが挟み込まれていました。その記事の一つ(掲載紙・掲載年月日不詳)に「校章の由来」という連載記事の第23回があり逗子開成中学校が取り上げられているのですが、そこには「昭和三年九月現在の通り改められた」とあります。講堂落成大会の前後に「桜」に改められたものの、メダル製作発注の段階では「二」だったのでしょうか? 新聞記事との時期のズレは不明です。

当時の校長は奥宮衛。「桜」はいうまでなく、国学以来日本精神発揚のシンボル(本居宣長の歌など)であり、学級呼称を「中隊・小隊」など軍隊風に改め、「振武隊」(現吹奏楽部)を創設した奥宮校長時代のこととして意味深いものがあります。
 「ペン・剣・桜」の校章は、戦後の新たな学制で「ペン・剣・中」と「ペン・剣・高」。中学校募集が停止されて「ペン・剣・高」のみ、前述のように中学校が再開され、中高一貫教育を掲げ「ペン・剣・桜」と今日の姿になったのです

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※校章の変遷 「二」「桜」「高」

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校史余滴 第六回 長柄運動場

2016/08/13

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 第6回 長柄運動場

 85年前の夏休み、逗子開成中学校の生徒・教師は葉山長柄で運動場をつくる作業に汗を流していました。
 当時、現在の校門のところからセミナーハウス手前まで道路が通っており、校舎敷地は三角形で狭く、運動には不都合でした。ところが、校主神田ライ(金偏+雷)蔵の所有地(5,200坪、約17,000㎡)が長柄にあり、そのうち2,640坪(約8,700㎡)を運動場に造成したのです。造成を決定したのは前年発足した自治会でした。
造成作業が行われたのは7月26日から11月30日までの68日間、夏休みには集中的に行われました。作業に参加したのは(延べ人数)、生徒3,437名、教職員361名でした。
 当時5年生だった横尾義貫(1932年卒 静岡高校・京都大学を経て京都大学教授・名誉教授)が「長柄運動場整理記事」(『修養會雑誌』第19号 1932年1月)を残しています。(一部読みやすく書き改めてあります)

福井、長谷川両先生の測量、計算の結果割りだされた数字によって、8月中、一日に二組ずつ(又は三組)、一組四日ずつ、労働する事となった。7月26日、先ず準備作業として、応援団幹部、競技部員等の手によって、夏草の繁茂した荒れ果てた此の長柄の地の運動塲開拓に着手した。福井、長谷川両先生をはじめ、田中、衣川、石川の諸先生も親しく我々を指導せられた。この作業は30日を以て打切りとして31日より愈々本作業にうつった。
 本作業は7時半に作業塲に集合、朝の太陽を斜に受けて、朝つゆを踏みつけながら、シャベルで大地を掘りかえす。愉快に作業は着々と進捗して、10時半に終えるのを常とした。9時、10時となると、こんな山に繞まれた所では全く風が無い事があって、汗が自然に滲み出たが、作業は順調に運ばれて、北側は低められ、南側は高められ、日に日に平になって行った。9月に入ってからは、なお欠席者等によって続行され今日に至って、遂にその予定を終了したのである。
 この作業は、我校の体育を益々向上せしむる目的を以て実施されたのであるが、それは唯にその崇高なる目的において尊いのみならず、平常得難い神聖なる労働を体験するの機会を得た事において更に尊い。
 我等の手になり、我等の心の打込まれたこの運動塲は、永久に記念され、永久に我等の誇であらねばならぬ。

 造成作業から70年を経た2002年、柴崎二郎氏(1932年卒)から校史編纂委員会宛に届いた手紙には、当時の作業の様子が次のように綴られています。

 わたしはこの作業に参加して、山際の高いところから土を削り、リヤカーで低いほうに運び出すなど、夏休み中も大いに汗を流したものでした。わたしの作業相棒の木下君の大きな額からも汗が流れて、片手でリヤカーの取っ手を握りながら、手拭いで顔をふく笑い顔は、今でも目に浮かぶほど鮮やかです。あそこは、学校からはかなり離れている所なので、日常的に利用するには不便ですが、その広さは毎日見ている校庭からすれば格段の相違で、鍬やスコップをかついだ長い行列が、行幸道路に繋がる暗いトンネルの中に吸い込まれていく有り様などは、今日では誰も想像できない姿であったのではないでしょうか。夏休みも返上でしたが、誰も苦情も言わずに作業をしただけに、完成した時の満足感は大したものでした。

 このように生徒・教員が心を込めて造成した運動場でしたが、「永久に」という思いとは逆に短命に終わってしまいました。1940(昭和15)年にこの長柄の土地(神田没後、遺族が相続し、学校は貸借していた)を売却する話が出たのです。学校が買収するという案も出されましたが、まとまらず、結局この土地から撤収することになったのです。本校敷地の拡張も進み、長柄運動場に執着する必要もなかったことと、買収費用の点で折り合いがつかなかったからでした。

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運動場造成作業の様子

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八方尾根遭難事件慰霊の登山 報告

2016/08/11

 1980年の12月に本校山岳部が八方尾根で遭難してから36年近くの月日が流れました。一昨年、捜索に当たった最後の先生が定年退職され、当時の状況を知る教職員が一人もいなくなりました。しかし、ボート遭難事件とこの山の遭難事件は、逗子開成史において最も重要なものであることは言うまでもありません。特に後者は"学校のその後"を決定する分岐点になった、私たち学校関係者が忘れてはならない出来事なのです。
 2016年8月4日(木)。絶好の登山日和です。今回慰霊登山に参加した7人は、当時遭難して亡くなった5人の生徒と同世代です。彼らの味わった心細さ、恐怖、痛み、無念をはかり知ることはできません。本校に長く身を置く私たちの務めは、祈り、語り継ぎ、そして命の尊さを伝えることです。「次は若い世代を案内して登りたい。」私たちは願います。

 写真1 八方池山荘から尾根づたいに登る一行。小休止中です。

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 写真2 第二ケルンから八方ケルン(目的地)を望む

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 写真3 八方ケルンにて

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 写真4 八方ケルンに祈りをささげ、献花する。

「夏めぐり 彼岸十七 此岸五十路」
(なつめぐり ひがんじゅうしち しがんごじゅう)
あれから夏は何度もめぐったけれど、彼岸の彼方にいる君たちは永遠に十七歳だ。一方此岸、こちら側の私たちは五十路(いそじ)を行く。私たちは命ある限り祈り続ける。安らかに眠れ。

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 写真5 八方ケルンに刻まれた逗子開成高等学校の文字

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校史余滴 第五回 校舎全焼と復興

2016/07/06

校史余滴
 第5回 校舎全焼と復興


 
 敗戦からほぼ2年が経過し、戦争の痛手から回復しつつあった昭和22(1947)年4月、学園は新制中学という新たな体制でスタートしました。しかし、喜びも束の間、学園を震撼させる出来事が起こったのです。4月24日午前5時半頃、教室から出火、音楽・物理・化学・木工各教室260坪が全焼、地理生物教室130坪が半焼、進駐軍消防車3台が消火に参加し、鎮火したのは7時過ぎでした。葉山署が発火原因を取り調べたものの不明。焼失したのは特別教室だったため、授業には殆ど支障がなかったのは幸いでした。
また、2か月後の6月25日に再び出火事件が起こります。教員室からの出火で、机の下にと壁際に紙を積み重ね、マッチで点火したあとがあり、明らかに放火と考えられました。退校を命ぜられた者、退職教諭などを犯人とみて捜査が進められましたが、犯人は見つかりません。
 二度にわたる出火事件での厳重警戒にもかかわらず、7月には校舎全部を焼失する大火が起こります。7月6日午前2時20分頃、合宿中の野球部生徒と宿直教諭が発見した時には、既に火の手は広がり、手の施しようもなく校舎全部を焼失する大火となりました。現場臨検の結果、放火と断定されました。
 折から一学期末の試験を控える時期でしたが、試験を延期し、9日に終業式を行いました。新学期からは間仕切工事を行った講堂や残存教室を利用して二部授業が行わました。学校は犯人検挙の手掛かりを提供した者に一万円の賞金を出し、逗子住民の積極的協力を要望したのですが、一連の放火事件は迷宮入りとなりました。三回に亘る放火事件で「逗子住民は姿なき放火魔に戦々兢々とし、火災保険に加入する者続出」(『神奈川新聞』1947.7.10)と報道されました。
 戦後の悪性インフレで学校経営は苦しく授業料値上げが続く中、校舎焼失に伴う復興費はそれに拍車をかけまし。授業料値上げ(1947年4月35円 → 1948年4月150円 → 1949年4月300円)だけで校舎復興資金を賄うことは不可能であり、公的資金の援助も仰ぎました。学校債を発行して、父兄・有志に協力を呼びかけ、復興バザーも開催されました。
1948年春に行われた復興バザーに向けて、荒井惟俊校長は次のように呼びかけています。

 昨年火災で校舎の大部分を焼失しましたが去る四月の新学期に木の香も高い十六教室が出来上りましたので諸君には二部教授の苦痛もなく落着いて勉強が出来る事となりまして喜び堪へません。
 黒板も机も椅子もまた近々の内には全部整備されますので以前に優る立派な教室となります、全く嬉しい事です。
 然し皆さん! ここに困つたことがあるのです、
 それは新校舎は出来上りましたが建築者に支払うお金がない事です。
現在毎月諸君から五十円宛の復興資金を戴いて居りますから数年後には全部支払う事が出来ますが、さし当り支払う二百万円のお金が只今はないのです。銀行がお金を貸してくれますと、皆さんが毎月納付する復興資金で順次に返金して行かれるのですが銀行はどうしてもお金を貸して呉れません。
(1948年4月30日付 復興バザー開催の通知)


1947年12月には物象教室および図画工作室を含む平屋建校舎一棟が、1948年5月には、16教室二階建校舎一棟が落成しました。校舎が旧に復す中、5月18日には創立四十五周年記念式典が挙行されました。同年は新制高校が発足した年でもあり、学園の新たな出発と新校舎完成が祝われたのです。

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           事件を報ずる新聞記事

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校史余滴 第四回 綽名で結ばれた教師と生徒

2016/06/17

校史余滴 第4回 綽名(あだな)で結ばれた教師と生徒

 学園にとって最も大切なのは人と人(教師と生徒、教師どうし、生徒どうし)の繋がりです。中でも、優れた教師は学園に命を与えるものであり、逗子開成中学校の多くの卒業生に「立派な先生に教えを受けて感謝している」という回顧談が多いのは、嬉しい限りです。石井勇蔵先生(教頭)の「母校五十年」(『創立五十周年記念誌』所収)などを手掛かりに、生徒から親しみを籠めて綽名で呼ばれた先生のことを紹介します。

1.「大学」
 大学目薬の広告そっくりで「大学」と呼ばれ、生徒も父兄も多くが本名を知らなかったそうです。学校に来たある父兄に「御高名な大学先生はあなたでいらっしゃいますか」と言われ、本人が苦り切っていたことがあったそうです。東京開成中学校から来た生徒監兼体操の三村永一先生。帽子に金筋を巻いて馬に乗る堂々たる姿だったとか。

2.「ベヤア公」「ガンボーヂー」
 図画の教師で、口をきくのも損だといった風な無精者。どうみても「熊bear」という感じだったようです。別の綽名は「ガンボーヂー」。この先生はガンボージ(gamboge黄)とインディゴ(indigo)が大好きで、「もっとガンボーヂーを使って」が口癖。生徒の絵具を筆につけて生徒の絵を直したついでに自分の絵も描いてしまうという実に合理的な方法を駆使したそうです。用器画・投影画を黒板に書かせたら天下一品で、定規・分廻を使わないで、線と円の構成を描き上げてしまう見事なものだったとか。
 今となっては「ガンボーヂ」先生の姓名は不詳。

3「メタコウ」
「メタ」とは何か、「コウ」とは「センコウ」の「公」なのか。生徒たちがこの意味を身をもって知るのは歴史の成績が付けられてからでした。メタコウは無数の「乙」を驟雨の如くばら撒いたのです。当時の成績は甲乙丙の評価でしたが、メタコウが甲を付けるのは稀。そう「滅多甲」なのでした。大正7(1918)年から16年間、歴史を教え、『帝国史眼』(1926)という一般書も残している満木峯丸。本校に着任したのが53歳。袴の裾を踝よりも高く着用し、髪の方は大分さみしかったといいます。生徒にとっては「メタオツ」でなかったのは幸いでした。

4.「バケさん」
 最初の授業では必ず化け猫の怪談をしました。ぼさぼさの髪、不精髭、色褪せた羊羹色の紋付で、巧みな話しぶりが生徒を魅了した英語教師衣川嘉雄。第一高等学校、東京帝国大学法学部を卒業。官僚への道を勧める周囲の助言を無視し、恃むところがあったのでしょう、英語教員となりました。類稀な明断な頭脳、権威をものともしない豪毅さ、度量の大きさ、燃えるような情熱は周囲から讃嘆されたそうです。生徒からは「バケさん」と慕われました。軍靴の足音迫る時代、ユニークな英語の授業をしたと聞きます。戦局が悪化した昭和18(1943)年、先生は突然志願し、通訳官としてマニラに発ち、終戦直前の6月5日に戦死。40年の短い一生でした。昭和27(1952)年、教え子たちにより衣川先生の墓碑が逗子沼間の法勝寺の一角に建てられました。

 今日、生徒の間では密かに先生を綽名で呼んでいるのかもしれませんが、表立って、面と向かって先生を綽名で呼ぶのをあまり聞きません。何か淋しい気もしますがどうでしょう。

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             「衣川嘉雄先生」

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校史余滴 第三回 実況! 創立三十年紀年大運動會

2016/05/21

今年も大変盛り上がった体育祭。逗子開成の昔の体育祭はどのように実施されていたのでしょうか?校史余滴 第三回 では「実況! 創立三十年紀年大運動會」というタイトルで、今から84年前の運動会の様子をご紹介します。

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 第3回 実況! 創立三十年紀念大運動會

84年前の昭和7(1932)年5月21日(土曜日)、長柄運動場(1931年造成)で創立30年を記念して大運動会が開かれました。この年、1903年の創立から30年目を迎え、5月18日に記念式並に祝賀会、19日に物故職員校友慰霊祭が行われ、20日「母校発祥地池子東昌寺行軍参拝」と記念行事が続いていました。


紀念大運動会の実況中継です。

朝より雲天を覆ひて雨まさに来たらんとするの気を示す。それに増して風とみに加はり、天我に幸せざるがごとく見ゆ。開成健児850ものともせす予定のごとく午前7時半学校を出発、午前8時長柄運動場に到着。朝礼、君が代ラッパ、合唱、終わって開会の辞、直ちに合同体操。
 猛風は長柄運動場をかけめぐり、砂塵は荒狂う。猛塵と闘いつつ規則正しく運動は行われき。時折ひびく花火の音、振武隊の楽音、砂塵と共に場内に響く。

時代を反映してか(前年、柳条湖事件に端を発した満州事変が起こり、満州国建国宣言はこの年3月1日。五・一五事件は運動会の直前でした)、最上級生第5中隊(5年生による「模擬戦」なる競技(?)もありました。

 耳をつんざく小銃の音、むくむくと現はれたる爆弾勇士、肉弾勇士、鉄カブトにカーキ色の外衣、爆弾をかがえて敵陣を猛襲せんとするの景、まさに実戦をしのばしむるものあり、死者あり負傷者あり、小銃の音と共に場内は煙幕にとざされ、その中を勇士は突撃又、突撃、兵士の奮闘まさに涙あり、場内に尚猛塵は荒れ狂う、敵陣に爆弾を抱えて突進せる勇士等、鉄條網を爆撃す。その爆破の景、火光一線、土は二三丈高く飛びて観衆は「アッ」とおどろく。かくして休戦ラッパ場内に響けば兵士等は死者も負傷者も一時に立ち上がり、歓呼の声をあげて一場に集まる。

その後、横須賀の小学校(大津、長浦、葉山、豊島、浦郷、田浦、田戸、諏訪)対抗のリレーを最後に競技は終了しました。

 3時55分優勝旗授与式あり。全校生徒一同集合、校歌合唱あり、閉会の辞終って万歳三唱、幸なるかな、雨ついに至らず、されど猛風は長柄運動場を吹きまくつて終におさまらず、生徒よくこの猛塵と逃いつつ規則正しく運動を挙行せるは称賛に値すべし。かくて記念すべき創立30年紀念大運動会はめでたく終を告げぬ。時に午後4時半、天暗く場内風塵逆巻く。

 今年も体育祭が行われました。
 生徒たちの奮闘ぶりは如何だったでしょうか。

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「紀念大運動会 開会式」

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「模擬戦のようす」

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校史余滴 第二回 千葉吾一のこと

2016/05/03

校史余滴 第2回

本年の創立記念日にスタートした新企画「校史余滴」。

本企画は、『100年史』以降に新たに発掘された事実や伝えきれなかった事実をご紹介するものです。

憲法記念日に、「憲法」と「逗子開成」について考えてみませんか?

千葉吾一のこと

日本の憲政史の上で大きな意義を持つ「五日市憲法(日本帝国憲法)」は君民共治に立ちながらも、充実した人権保障、司法権の独立を特徴とします。五日市の青年らによって組織された五日市学芸講談会が明治14(1881)年に私擬憲法として起草したものです。昭和43(1968)年に五日市深沢村の旧名主の土蔵から発見され、注目を集めました。講談会の設立者であり起草者の代表が千葉卓三郎(1852~83)ですが、卓三郎と同郷でやはり起草者に名を連ねているのが千葉吾一(1861~1927)です。あきるの市に建てられている五日市憲法草案の碑には千葉卓三郎と千葉吾一の名が並んで刻まれています。(同じ碑が千葉卓三郎の生地宮城県志波町、墓所仙台市にも建てられています)
明治36年に誕生した本校は翌年5月に、私立第二開成中学校として認可されますが、田邊新之助と共に共同設立者(兼校医)となったのが千葉吾一でした。(あと一人の共同設立者は、福原有信らと共に資生堂を設立した矢野義徹)
宮城県栗原郡の医者の家に生まれた千葉吾一は天皇の東北巡幸の折、侍医岩佐純の知遇を得、上京して五日市で應天堂医院を開業します。医院の扁額は山岡鉄舟の筆になります(吾一の御孫さんが横浜市で「應天堂中田町クリニック」を開業。扁額が現存します)。五日市憲法起草に関わった後、海軍軍医となります。軍医としての経歴は輝かしいものでした。軍艦軍医長を務め、日清戦争の際は旅順口海兵団軍医長も務めました。日露戦争直前に退役、逗子新宿に静養圏医院を開業し、後に千葉病院と改称しました。第二開成中学校の共同設立者となったのは、田越村村医千葉病院院長という立場からでした。少し時代が下りますが、大正2(1913)年に逗子松林堂より発行された増島信吉『逗子と葉山』には次のように記されています。(読みやすく一部書き改めています)

 ...この地に開業し一般の診察に応じてよりは町民の信頼深く本宅及び診察所と道路を隔てて病院を有し、内外科、産科、婦人科、耳鼻咽喉科、すべて最新式の設備をもって外来及び入院治療のもとめに応じるゆえに避暑避寒の客又は療養のため転地せる人々は白砂青松の間に所し、悠々養痾をなすと共に進歩せる医薬の治療をも受くるをうべきなり。

 明治43(1910)年1月の七里ヶ浜ボート遭難事故後の追悼会(2月6日)で学校を代表して「決別と慰霊の辞」と題された弔文を読み上げたのは千葉吾一でした。

 最後に一つのエピソードを。大正5(1916)年11月9日、葉山日蔭茶屋で神近市子に左頸部を刺された大杉栄は千葉病院に運ばれ、一命を取りとめました。関東大震災の際の甘粕事件で大杉栄が殺された時、吾一は日蔭茶屋での事件を回顧して、「大杉が自動車で運ばれてきたとき、ついてきた者たちが車から降ろそうとしたのを押し止め、車内で応急処置をした。あのときそうしなければ大杉は死んでいただろう。」と述懐したといいます。

 若き日に憲法草案起草に加わり、海軍軍医・市井の医者・学校経営者として生きた千葉吾一に思いを馳せて下さい。
 また、5月3日は日本国憲法施行から69年を迎える日です。一人一人が憲法のありかた、国のゆくえについて考える機会にして欲しいと思います。(町田市立自由民権資料館で「五日市憲法展」が開かれています。5月22日まで)

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 田邊新之助(向かって左)と千葉吾一(右)
   第1回卒業証書授与式記念写真(1907年3月28日)より

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新企画「校史余滴」スタート

2016/04/19

昨日4月18日(月)をもって、逗子開成中学校・高等学校は創立113周年を迎えました。県内で最も古い男子校として、歴史を刻み続けて参りました。これからも「開物成務」の気概をもって、新たな挑戦や改革を行って参ります。

さて100周年時には、900ページをこえる『逗子開成100年史』を発刊いたしました。発刊から13年が経ちました。この間にも、新資料をご紹介いただいたり、新事実が浮かび上がったりすることがございました。こういった取り組みを後世に残すためにも、新企画「校史余滴」をスタートいたします。不定期にはなりますが、本ホームページ上にて、100年史では紹介しきれなかった事実や新たに判明した資料等の紹介を行って参ります。是非ご注目ください。

校史余滴  第1回 田邊新之助、逗子・鎌倉と黒田清輝

 上野の東京国立博物館で特別展「生誕150年黒田清輝―日本近代絵画の巨匠」が開かれています(5月15日まで)。黒田清輝(1866~1924)は、逗子・鎌倉、また本校創立者の田邊新之助(1862~1944)と深い繋がりがあるのです。
 薩摩出身の黒田は伯父黒田清綱の養子となって明治5(1872)年に上京、小学校卒業後、二松學舎を経て、東京開成中学校の前身である共立学校に入学しました。明治11(1878)年のことでした。すぐに築地英学校に転じたので共立学校在学はごく短期間でした。田邊新之助が共立学校の漢文教師になるのが明治15(1882)年ですから、黒田清輝と田邊新之助はここでは擦れ違い。
 黒田は明治17(1884)年から26(1893)年までフランスに留学し、帰国後は明治29(1896)年に発足した東京美術学校西洋画科の教員となります。教授として日本洋画を牽引し、有名な「腰巻事件」が起きた頃、黒田のもとで洋画を学んでいたのが、田邊至(1886~1968 新之助の次男)でした。至は美術学校卒業後、研究科に進み、西洋画科の教員になりますので、黒田と親しく接したことでしょう。至の父新之助が共立学校の教員、開成中学校校長を務め、逗子(黒田が頻繁に滞在した)に中学校を創り、鎌倉(黒田の別荘があった)にも女学校を設立したことなどを黒田は耳にしたかも知れません。黒田が逗子の定宿にした養神亭は逗子開成中学校から歩いて数分のところ、田越川にかかる富士見橋の北側にありました。
 そうしたことから田邊新之助と黒田清輝に接点が生まれます。陸奥広吉(1869~1942 陸奥宗光の長男 田邊新之助の教え子で外交官 鎌倉女学校校長も務める)、大島久満次(1865~1918 台湾総督府民政長官 神奈川県知事)、黒田清輝らを発起人として大正4(1915)年に発足した「鎌倉同人会」の会名を選定し、趣意書を起草したのは田邊新之助でした。また、大正7(1918)年10月2日、鎌倉女学校創立14周年記念に黒田は同校で西洋画に関する講演を行っています。講演に先立ち、「静カナル秋ノ日和」に田邊新之助鎌倉女学校校長は鎌倉の黒田別荘を訪ね、講演を依頼したことを黒田は日記に記しています。
 上野の展覧会には黒田が「湖畔」などとともに1900年のパリ万博に出品した「木かげ」と題された印象派風の作品が展示されています。木の間を洩れる光が陽だまりを点在させる叢に寝転がる少女が茱萸の実に手を伸ばしているものです。明治31(1898)年、東京美術学校における岡倉天心排斥事件のゴタゴタを避けるかのように長期にわたって逗子養神亭に滞在していた黒田が、逗子柳屋の「つうちゃん」をモデルに描いた作品です。機会があれば上野に足を運び、黒田清輝と逗子・鎌倉、また田邊新之助のことに思いを巡らせてみてはいかがでしょうか。

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  「田邊新之助の肖像 1943年田邊至画」

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