校史余滴 - 逗子開成ニュース

校史余滴 第十七回「『新版 レミは生きている』(平野威馬雄)を読む」

2024/02/17

校史余滴第十七回「『新版 レミは生きている』(平野威馬雄 筑摩書房)を読む」

著者の平野威馬雄さんは、明治33(1900)年生まれ、詩人・評論家として知られています。今回ご紹介する『レミは生きている』は、昭和34(1959)年に第六回産経児童出版文化賞に選ばれた自伝的小説です。

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平野威馬雄さんの父は、フランス生まれのアメリカ人、母は日本人です。祖国はどこなのか?そんな思いを持ちながら生きてきたことを赤裸々に語られています。本書を読むことで、出自を理由とする壮絶ないじめや社会からの排除を感じながら生きてこられた平野威馬雄さんの人生を知ることができます。

「平野威馬雄」という名前にピンとこなかったとしても、シャンソン歌手であり、料理愛好家として有名な平野レミさんをご存知な方は多くいらっしゃるのではないかと思います。レミさんは、威馬雄さんの娘さんにあたります。

すでに校友会のホームページにその紹介がありますが、平野威馬雄さんは、逗子開成に通った時期がありました。2022年に「新版」がちくま学芸文庫で刊行されました。また、2024年2月12日に放送されたNHK総合「だから、私は平野レミ」という番組では、レミさんが威馬雄さんの日記を読み上げるシーンが登場していました。

今回の校史余滴では、『新版 レミは生きている』に登場する逗子開成について、本文を引用させていただきながら、平野威馬雄さんの視点でみた逗子開成イメージをご紹介したいと思います。今回二つのイメージをとりあげておこうと思います。まずは、引用から。


                                                   
「そこで、とうとう、東京や横浜の学校ではいれてくれないというあきらめから、いなかの学校をえらぶことにした。それも、みすみす、五年生から一年損をして、逗子の開成中学の四年に、やっとのことで入れてもらったのであった。ちょうど、葉山の堀内海岸に別荘があったので、毎日、そこから、てくてく四キロメートルの道を歩いてかよった。この小さな中学校は、白い砂地の上にたっていた。岸べのあしをかりとるための平べったい小船が、ふかいみどりの水草の間に、ちらちらと見えかくれして、そのあたりは、ほんとにしずかな川口のながめだった。春から夏にかけては、がまの花がにおい、水ぜりの葉が、かわいいつゆを、きらきらと反射させていた。校舎ぜんたいが、まわりの田園風景とひとつにとけあって、まことにものさびしいところであった。質素な木造平家だての教室には、とても、東京の学校のような、しゃれたつくえや、まどかけなどのぞめなかったが、一日じゅうきこえてくる波の音は、からだじゅうから、都会のほこりや雑音をあらいおとしてくれた。まえにいたフランス学校のような、ゴシック式の講堂もなければ、つくえのひとつひとつにガスをとりつけた理化学の実験室もなかったが、校庭のまつ林をわたる潮風は、心をなごやかにしてくれた。浪子不動の岩間には、うろこがきらめき、なぎさには、赤や黄色の海そうがゆれていた。学校からほど近い田越川のあさせには、あの有名な、「ましろき富士のね、みどりの江の島」の歌でみんなの知っている、この学校のせんぱいたちがそうなんしたボートの破片が、白々とペンキのあとをとどめていた。すべてが、のびのびとしていて楽しかった。けれども、この学校は、もともと、海軍のえらい将軍が建てたのだそうで、いまでも、なんとなく、ぶこつな風俗がのこっていて、さかんに、すもうだの、剣術だのをしていた。」(154頁)



少々長くなってしまいました。小説の中での記述ですので、すべてが正しいわけではないでしょう。あくまで、これらの記述は平野威馬雄さんを通してみた「逗子開成イメージ」であり、小説の中の記述であることには注意が必要です。しかしながら、平野さんを通してみた大正時代当時の「逗子開成」の立地した景観についての記述は、大変貴重だと思われます。東京・横浜からみた、三浦半島に位置する、自然に恵まれた逗子開成の雰囲気を読み取ることができます。

一方で、小説には、もう一つ注目したい視点があります。それは、逗子開成が立地する「逗子」という土地が、「静養」する場所として描かれる点です。平野さんは、やんちゃだったからこその転校とご自身で記しているのですが(詳細は書籍を是非お読みください)、「静養」目的で逗子開成に来た生徒を物語の中で登場させています。

小説のなかで、加藤という人物を登場させ、その加藤について、「つきあえばつきあうほど、かれのよさが光ってくる。」と記した上で、加藤自身に次のような言葉を語らせています。



「ぼくはね、岐阜の山の中で生まれたんだ。そして、名古屋の中学にいたんだけれど、文学を勉強するのに、すこしでも東京の近いところに住みたいと思ってね。・・・・・それに、あまり、からだがじょうぶじゃないものだから、この、空気のいい海べの学校にきたのさ。まだ、きてから一年にしかならないんだよ。」(176頁)

また、平野の別荘があったという葉山において、逗子開成の生徒ではないものの、近藤くんという人物も登場させています。

「ところが幸運なことに、ぼくの住んでいた葉山の家の近くに、近藤くんという文学ずきの少年が住んでいた。からだが悪くて、東京の学校を休んで、静養にきていた。」(178頁)



逗子ではなく、葉山のイメージになってしまいますが、気候が良いからこそ「静養」する場であることが示されています。「静養地」としての逗子や葉山のイメージについては、『逗子市史』にもその紹介がありますし、徳冨蘆花の『不如帰』で描かれる逗子のイメージを考えていただいても良いかもしれません。自然環境の良い「静養地」としての逗子に、逗子開成は立地していたことがよく分かります。

以上、二つの視点を、平野さんの小説からご紹介しました。紹介させていただいたような記述を、当時の写真、絵画や日記などと比較検討していくとより豊かな校史や地域史が描けるのではないかと思います。

最後に別の史料から歴史的事実を確定しておきます。平野さんは、学校に残る資料より、大正6年10月2日~大正7年9月30日まで在籍していました。資料上は、「第三學年」に入学し、「第四學年」で退学したことになっています。(小説とは一学年ズレることになります。)また、大正7年12月4日に復校し、12月11日付で「私立名教中學校へ轉校願出」「許可」とあり、転校しています。このあたりについては、改めて別の機会にご紹介したいと思います。

最後になりますが、友だちとして登場する「加藤」は「加藤鐐造」にあたり、学内の資料には、「私立正則英語学校普通科四学年」を修業の後、大正7年4月6日に「第四學年」に入学し、翌年の大正8年5月1日に「第五學年」を退学しています。加藤鐐造は、後に岐阜県選挙区から出馬し、衆議院議員を戦前・戦後にわたり五期務めている方です。

校史編纂委員会では、今後も逗子開成の歴史の掘り起こしを進めていきたいと思います。資料や情報等をお持ちの方がいらっしゃいましたら、本校校史編纂委員会までお知らせください。

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校史余滴 第十六回「逗子開成の記憶をつなぐ(高3在校生がきく「1954年卒業OB」の話)」

2023/04/26

校史余滴 第十六回「逗子開成の記憶をつなぐ(高3在校生がきく「1954年卒業OB」の話)」

 2022年12月26日、120周年委員生徒と有志生徒の5名で、1954年卒業のOBの方2名に聞き取り調査を実施しました。この機会は、現高3生徒(インタビュー当時は高2)の祖父が本校卒業生であったことから実現できた企画です。

 実施したのは冬休み中のことでした。生徒たちは、午前中に補習を終え、午後に横浜の神奈川県民センターの会議室に集合しました。会議室内で、彼らは、昭和10(1935)年生まれのお二人に対面しました。お二人は、創立45周年の年に入学し、創立50周年の式典に参加なさったとのことでした。そんなお二人から、当時の逗子開成についてじっくり話を聞くことができました。

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 当時の逗子開成事情を聞いてみると、現在と異なる部分あり、共通する部分あり、とても楽しい時間でした。時に驚きの声があがり、時に納得の声がもれる、貴重な時間を過ごさせていただきました。なお、当日の場にのぞむにあたって聞いてみようと考えていたことは、次のような視点でした。

・現在の状況や職歴等

・当時の学校の雰囲気について

・入学前の小学校(国民学校)時代のこと

・学校の登下校について

・50周年式典について覚えていらっしゃること

・校舎について

・部活について

・好きだった授業や先生、記憶なさっている先生のあだ名など

・海との関係

・創立者を同じくする鎌倉女学院生徒との関係

 時間が足りずにすべてについて聞くことはできませんでしたが、詳細を生徒たちが別紙にまとめましたので、ご興味ある方は以下をご覧ください。今回OBの方に話を聞き、生徒たちは、逗子開成の「記憶をつなぐ」ことを意識することになったはずです。このような活動を少しずつ実施していくことができるといいな、と考えています。

詳細な聞き取り内容に興味を持っていただいた方は、

以下をクリックしてください。

20221226OBインタビューPDF.pdf

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(創立50周年記念祭の貴重なカット『卒業アルバム1954』より転載)

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逗子開成創立期に関する生徒の論考が雑誌掲載されました

2022/04/23

社会科学部生徒(高2坂本拓海/高1菊地由羽)による論考

「明治時代の学籍簿で解き明かす

 創立当初の逗子開成中学校・高等学校」

を、『歴史研究』令和4年4月号 第699号(戎光祥出版)に掲載していただきました。掲載していただいたのは、「学生招待席」(122~131頁)という、全国の学生たちに開かれた研究発表の企画ページです。

今から119年前の1903年4月18日に、逗子開成は東京にある開成中学校の分校・第二開成中学としてスタートしました。創立当初の姿は、史料的な制約もあり分からない事が多くあります。二人の生徒は、学校に保存される学籍簿をはじめて本格的に分析することで、創立当初の学校や入学者の状況を明らかにしようとしました。はじめて明らかになったこともあり、本校の学校史のみならず、明治末期の私学の状況の一端を示すものとして、貴重な研究成果となっています。
詳細は是非、同誌をお手に取っていただければ幸いです。

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左写真:明治丗七年学籍簿壹 右写真:歴史研究699号表紙


戎光祥出版同誌紹介HP https://www.ebisukosyo.co.jp/item/635/

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校史余滴 第十五回 「明治時代の運動会」

2021/06/13

校史余滴 第十五回 「明治時代の運動会」

 2021年本年の高校体育祭は5/18に、雨天により1日遅れで開催されました。実は、この5/18という日にちは、本校の歴史をひも解いてみると、大変縁のある日にちでした。それは、本校ではじめて体育祭(当時は運動会という呼称)が実施された日にちだったからです。記念すべき第一回の運動会は、1903年4月18日に本校が創立され、その一か月後に実施されたのでした。

 記念すべき第一回目の運動会の内容は、開催場所(創立当初は東昌寺を仮校舎としていた)も含めて分かりません。しかしながら明治末年の運動会の様子であれば、うかがい知る資料が残っています。それは、明治44(1912)年の『校友會​襍誌』中に紹介される「創立第八回紀年運動會」という記事です。(*以下「記事」は、本誌からの引用です。また、原文のままではなく旧漢字を一部改め、読みやすくしました。)
 現在の体育祭は、中学・高校別々に実施していますが、明治時代の体育祭は、全学年一緒に実施していたようです。当時の全校生徒は、五学年約400名でした。「記事」には「白黄緑紫紅の級旗」が「中空」に翻っていたとあり、学年の団結を確認する競技が多くあったようです。

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(葉書「第七回運動会」より)


 本年の体育祭は、幸い中途での雨はありませんでしたが、明治44年は開始早々の三種目目で雨が降ってきてしまいました。「此頃より雨降り初めたり。しかれども競技はために反って勇壮となれり。」と、雨の中、競技に打ち込む姿が紹介されています。しかしながら、お昼を挟んだのちに、「雨愈々降りしきり総て事困難を極む。遂に予定の競技を行ふことを得ず。遺憾なから番組の変更をなせり。」とあります。どうやら雨によって競技の変更を行わざるを得なかったようです。また、本年は、コロナ禍のため競技内容や種目数をしぼり、保護者来場なしで実施されましたが、明治時代は「来賓」も多くいたようです。前半戦の最終種目は「騎馬戦闘」とあり、その勝敗が決したあと、20分間の昼食があったようなのですが、その際に「来賓益々多し」との記述がみられます。運動会の歴史研究によれば、地域に開かれ「祭り」の様相を呈した時期もあったようですので、「来賓」とはどのような方々だったのか気になるところです。
 そして現代の例年の体育祭は、生徒会メディア委員の生徒が、各競技を音源や放送関係を一手に引き受け、一日を通して盛り上げてくれています。では放送設備もなかった当時は、応援のみだったのでしょうか。「記事」には、その点をうかがわせる記述もあります。七種目目より生演奏がはいったようなのです。「海兵団より特に送られたる奏楽隊、この時より進行曲を奏す」とあります。海兵団とは、「旧日本海軍で、各軍港に置かれた陸上部隊」であり、「所轄の鎮守府に属し、軍港の防備、警備に当たったほか、補欠員として入団する下士官、兵を収容、教育し、艦船部隊などの欠員を補充した」(『日本国語大辞典』)方々のことです。横須賀から駆けつけているのでしょう。なお、以下の写真は、「記事」の前年の運動会の様子をうかがい知るものです。当時は、来場者にとって「生演奏」を聞くことのできる貴重な機会であったことでしょう。


R001 逗子開成中學校創立第七週年紀念運動會(其一)海軍々隊之奏樂.jpg

(葉書 「第七回運動会」より)

 さて、400名の生徒はどのような競技に取り組んだのでしょうか。今回、学年ごとにまとめてみたものが以下です。競技名の後ろの( )は、競技順を示したものです。
全体競技、各学年競技とあわせて、まず注目したいのが、演奏にあわせた競技種です。「アンヴイルコーラス」は、イタリアの作曲家ジュゼッペ・ヴェルディ(1813~1901)による作曲で、オペラ歌劇「イル・トロヴァトーレ」中の「アンヴィル・コーラス」(鍛冶屋の合唱)と考えられます。幸いにも「記事」には説明文があり、次のように明記されています。「奏樂に合せて唖鈴を動かすところ、すこぶる壮美なりしかば、観者をして思はず拍手せしめき。」演奏にあわせた合唱があったのかどうかは判然としませんが、「唖鈴」とは、「あれい」で、(こちらも「鍛冶屋」にあわせた「鉄」製であったかどうかは分かりませんが)演奏にあわせて演じたのでしょう。
 各生徒は、全種目に出場したわけではなさそうですが、今現在よりも種目数は多そうです。全34種目あったようです。なお、「碼」は「ヤード」です。1ヤード0.9144mですので、四・五年合同の「一千碼徒競走」は、約900m超を走るようです。選りすぐりの選手が走ったのでしょう。そして、各種目の最後には、出身小学校ごとの徒競走があり、最後に全学年による徒競走が実施されたようです。記事には「やがて号砲一発、白・黄・緑・紫・紅ひとしくスタートを切る。この時声援狂喚一時におこり~」「場の中央に至り、各級各団を作りて応援歌を叫び、小旗を打ち振りて吾級の勝を祈り、万歳を祝す」とあり、大変盛り上がった様子が伝わってきます。
                                             
・全体 綱引(1)、騎馬戦闘(21、昼食直前)
・二・三年合同 アンヴヰルコーラス(27)
・三・四・五年合同 源平旗奪(19)
・四・五年合同 一千碼徒競走(32)
・一年 二百碼徒競争(4)、三百碼徒競走(15)、四百碼徒競走(26)、猫袋競争(6)、動物採取(10)
・二年 三百碼徒競争(3)、四百碼徒競走(18)、落雷競争(8)、虚無僧競争(28)、二人三脚(14)
・三年 六百碼徒競争(9)、提灯抗争(2)、載嚢スプーン(16)、抽籤競争(30)
・四年 八百碼徒競走(29)、六百碼徒競走(22)、載嚢スプーン競争(5)、サツクスレース(7)、工作隊(13)、不時呼集(12)、兒島高徳(17)、障害物競走(24)、跛者競争(25)
・五年 六百碼徒競走(23)、載嚢スプーン競争(5)、サツクスレース(7)、キヤピテンボール(20)、工作隊(11)、不時呼集(12)、障害物競走(24)、世は様々(31)
・各小学校選手競争(33)
・本校選手競争(34)
                                             
 具体的な競技内容を考えてみると興味深い競技がいくつかあります。試みに明治42(1910)年発行の『諸学校運動會 最新遊戯書』(編集代表栗田臺吉 共文社)(以下『遊戯書』)などを参考にご紹介します。

「世は様々」
 「記事」には「座頭が杖を打振つて走れば、警官その後をおい、陸軍士官が走り、魚屋がかけ、結極消防夫の勝となれり」とあることから、仮装競争だと思われます。以下の写真は、大正年間のものですが、おそらくこのような形で、実施されていたのではないでしょうか。歓声をあげる生徒たちの姿が見えてくるようです。

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(校友提供写真資料より 「大正年間仮装競争」)


「猫袋競争」
「記事」には「猫ども大いに浮かれ込み、したがって方向を取り違えたるもの多し」とありますので、頭から「猫袋」なるものをかぶって競技にあたったようです。『遊戯書』に「猫袋競争」の記載はありませんが「猫ノ頭巾」という競技が紹介されています。これによれば、頭から袋をかぶり匍匐してすすみ旗をまわってくるようです。そして第二走者にその袋を渡し、第二走者は同じことを繰り返すとあります。なおルールの「備考」として、疲れた場合は休んでも良いが、決して立つことは許されないと明記されています。本校の「猫袋競争」が「匍匐前進」かは判然としませんが、同じようなものの可能性もあります。

「虚無僧競争(こむそうきょうそう)」
記事中には内容に関する言及はありませんが、『遊戯書』には同名で紹介されています。
同書によると「無手一脚」でスタートしています。両手を身体の後ろでしばり、両足もしばられたようです。この状態で、飛び跳ねながら、コースの途中に置いてある籠の前まで進むようです。そしてひざまずき、拘束された状態のまま籠の中に頭をつっこみ、何とか図のような姿になり、今度は前が見えないまま、飛び跳ね前に進むようです。なお、児童(小学生)を意識した『遊戯書』には「備考」として、幼い児童については、「無手」のみとし、足は「結束せず」に「本演技を行ハシムルモ可ナリ」として、ハンデもあったようです。旧制逗子開成中学はそのままの実施のような気もします。

虚無僧競争 模写図.png


「動物採取」
とても気になりますが、記事中に内容に関する言及はありません。また『遊戯書』にも見られません。おそらく何らかの動物が競技に使用され、その動物をゴールまで運ぶといった類の競技であることが想像できるのではないでしょうか。吉見俊哉「ネーションの儀礼としての運動会」(『運動会と日本近代』(青弓社1999)には、『東奥日報』の記事から「家鶏争奪競争」なるものを紹介しています。それによると「生徒を源平に区別して左右に整列せしめ、中央に家鶏殆ど十五六羽籠に入れ置き、一発の砲声と共に籠を取り去りて左右より之れを奪ひ取り殺したる上、各自所属の門内に投げ入れ、多くを得たる方を以て勝とする」とあり、観客の中に逃げる鶏などで会場が騒然とした様子を紹介しています。逗子開成の「動物採取」は、当時ならではの「動物」だったのか、気になるところです。場合によっては「作り物」の可能性もあったのでしょうか。

 以上、明治時代44年の運動会のうち、気になった競技を紹介してみました。全体を通じて、他年度との競技内容比較、東京の開成中学をはじめとした他校比較など興味深い研究テーマが浮かんできます。いずれも後考を期したいと思いますが、神奈川私学における、明治時代の運動会の内容がわかる事例としてきわめて貴重な記事だと思われ紹介しました。なお、上記文章についてお気づきの点等ございましたら、校史編纂委員会までご意見いただければ幸いです。

 本年の体育祭は、コロナ禍をふまえた特別競技内容でした。後の時代から振り返った時にどのように認識されるのでしょうか。記録を残しておくことの大切さを感じます。

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校史余滴第十四回「117年目の創立記念日」

2020/04/18
 4月18日(土)は逗子開成の創立記念日です。逗子開成は、1903(明治36)年に東京の開成中学校の分校・第二開成学校としてスタートしました。本日で117年目を迎えることになります。
 通常授業が実施されないまま迎える創立記念日は、後の時代から振り返る時、どのように認識されるのでしょうか。コロナウイルス拡大に伴う非常事態宣言発令により、日常は一変しました。各学校では、手探りのなか教育が模索されています。私たちは、まさに「歴史」に立ち会っています。
 さて、逗子開成の長い歴史を振り返るとさまざまな出来事がありました。そういった出来事を創立記念日に振り返ってみるのはいかがでしょうか。
 今回、松坡文庫研究会代表の袴田潤一先生より玉稿をいただきました。同研究会は、鎌倉市中央図書館の松坡文庫(本校創立者の一人で、初代校長となった田辺新之助先生の漢籍を中心とした旧蔵書)の全容を把握し、田辺先生の生涯と人となりを多角的に精研することを目的として設立された市民団体です。研究会の活動については、過去に本校ホームページ(詳細はこちら→ https://www.zushi-kaisei.ac.jp/news/cat26/ )でも紹介しています。
研究会では、文庫を整理するとともに、田邊先生の漢詩を収集し、定期的に購読しています。膨大な資料を渉猟する中、逗子開成創立30周年式典に列席した田邊先生の、生徒にあてた祝辞の中の漢詩が掲載された雑誌を手に入れることができたとのことです。以下、ご寄稿文をご覧ください。
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『漢詩春秋』昭和7年7月号表紙と掲載された田辺松坡の詩

以下袴田先生寄稿文引用 
 創立記念日、おめでとうございます。第二開成学校として生まれてから117年、多くの人たちの力に支えられて今日を迎えられたことを心よりお慶び申し上げます。
 さて、人間の年齢の古い数え方に倣って、88年前の1932(昭和7)年5月18日、逗子開成中学校(旧制)大講堂で創立三十年記念式が行われました。生徒841名(5学年17学級)、教職員34名が、理事長・国分三亥、学校長・奥宮衛のもと、多くの来賓を迎えて創立記念日を祝ったのです。創立の中心人物で初代・第三代校長を務めた田辺新之助先生も来賓として招かれ祝詞を述べました。
 田辺先生は1913(大正2)年に逗子開成中学校校長を辞した後は、鎌倉女学校の校長を務めていましたが、同時に日本を代表する漢詩人として(号は松坡)、広く活躍していました。私が代表を務める松坡文庫研究会の活動の一つとして、松坡がその活動の中心とした「声教社」(主幹は上村売剣)が刊行した月刊雑誌『漢詩春秋』を収集していますが、これまで集めた76冊のうちの昭和7年7月号に、創立三十年記念式で田辺先生が詠じた漢詩が掲載されていたのです。「創立逗子開成中學校創立三十年祝典、賦似生徒」と題された長い詩(七言長詩 全22句)で、服部擔風による評語も付されています。詩題の「賦似生徒」は「賦して生徒に似(おく)る」、或いは「似(しめ)す」と読みますので、841名の生徒に語りかけるものでした。
 冒頭の6句は次のように詠われています。
創立恰逢三十年  創立 恰(あたか)も逢う 三十年
卒業之士垂三千  卒業の士 三千に垂(なんな)んとす
夙期百錬身心堅  夙(つと)に百錬し 身心の堅なるを期し
剛毅醇樸完精研  剛毅にして醇樸(じゅんぼく) 精研を完(まっと)うす
開物成務易所宣  開物成務は易の宣(の)べる所なり
出有用材非偶然  有用なる材の出づるは偶然に非ず
 勁い肉体と不屈の意志(意思)とを持ち、素直で飾り気がなく、真心をこめて丁寧に努め励む、そのような青年を育てることを創立からの目標とし三十年、卒業生は3,000人になろうとしている。そうした目標は『易経』(繋辞上伝)にある「開物成務」という言葉に基づくもので、優れた人材を育ててこられたのは偶然のことというのではない。
というのが大意です。
 詩は更に、神聖な気が広がり満ちる青い海に面し、雲の上に高く聳える美しい富士の頂きを仰ぎ見ることのできる逗子の地を校地として選んだこと、そうした環境で学校生活を送れば心のいやしさなど失せてしまうのだ、と詠います。
 詩の中で、田辺先生は自分のことについても触れています。創立にあたり自分も僅かながら力になり、当時を思うと心が沸き立つようだ、年老いて白髪頭になった今日、君たちに詩を贈るのはそうした縁があるからなのだ、と。万感胸に迫るものがあったのだと思います。
 詩は生徒への決然とした強いメッセージで締めくくられます。
学問無他唯勉旃  学問は唯勉旃(べんせん)に他ならず
 今日、逗子開成ではことあるごとに「弛まぬ努力」ということが言われていることでしょう。校是ともいうべきこの言葉は、「開物成務」から田辺先生の「勉旃」を経て、120年近くにわたり逗子開成の精神に脈々と流れ続けているのです。
 田辺先生の詩の一句に倣えば、「微涓(びけん わずかな滴)を輸(おく)」った私としても、今日の創立記念日を多くの方々と共に慶び、逗子開成の今後の益々の発展を心より祈念いたします。」
寄稿文以上
 ぜひ、家庭で油断しているであろう生徒たちにも熟読、心に刻んでもらいたい内容です。
 なお、以下は本校ホームページ「校史余滴」第一回~第十三回の記事となります。是非、これを機会に逗子開成の117年という歴史の一端もご覧ください。
【参考:校史余滴ページ】 → https://www.zushi-kaisei.ac.jp/news/cat23/
第13回 第一回卒業式
第12回 ああ壮烈 義人 廣枝音右衛門
第11回 田邊家之墓 墓参
第10回 三船久蔵と高野佐三郎
第9回 橋健三先生
第8回 校歌制定
第7回 校章の変遷
第6回 長柄運動場
番外編 八方尾根遭難事件慰霊の登山 報告
第5回 校舎全焼と復興
第4回 綽名(あだな)で結ばれた教師と生徒
第3回 実況! 創立三十年紀念大運動會
第2回 千葉吾一のこと
第1回 田邊新之助、逗子・鎌倉と黒田清輝
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校史余滴 第十三回 「第一回卒業式」

2017/03/24

校史余滴
 第13回 第一回卒業式

 逗子開成高等学校の卒業式は毎年3月1日に行われます。桜には早く、寒い日もありますが、かすかに春の気配が感じられる時期です。
今回は、記念すべき本校(旧制逗子開成中学校)の第一回卒業式を紹介します。
第一回卒業式が行われたのは設立から4年後の1907(明治40)年3月28日でした。前年12月に初代校長田邊新之助先生が辞任し、校長は、理科大学を卒業後、東京開成中学校で教えており、本校創設者の一人で、設立後は数学を教えていた太田澄三郎に代わっていました。校舎も増築され、徴兵令による認可(文部省による徴兵猶予の恩典)も受けました。卒業生は29名で正装の教職員とともに撮影された記念写真が残っています。
 交叉する日章旗を背景に、総員45名の男性が写っています。28名の学生服姿の若者は筒状に丸めた卒業証書を手にし、教職員である年輩の男性17名は正装です。
 卒業生には、自由民権家で松山英学校(後の松山中学校)を創設し、初代校長となった草間時福(1853~1932 後に官吏に転ず)の長男時光がいました。草間時光(1887~1959)は1916(大正5)年京都大学法学部政治学科を卒業後、民間での勤務を経て東京市に入り、京橋・日本橋区長を歴任。戦後、1951(昭和26)年には、日本社会党・日本共産党などの推薦を受け、鎌倉市長選に立候補し、初の革新市長に当選しました。任期は一期で1955(昭和30)年に退陣。父時福が水原秋桜子に師事した俳人だった影響もあり、時光も俳句をよくし、時光の子時彦(1920~2003)も俳人として著名です。軽部三郎は横浜保土ヶ谷本陣軽部家の人。慶應義塾理財科を卒業し、横浜市会議員をつとめました。歴史に非常に興味を持たれて、軽部家や地域のことも研究し、大正末の『横浜市史稿』や昭和に入ってからの『保土ヶ谷区郷土史』編纂にその成果が取り入れられているそうです。
 また、卒業生の中には武濬源・林涵という二名の清国からの留学生がいたことが注目されます。二人は共に天津私立第一中学校を卒業後、日本に留学し、第二開成中学校に入学しました。西洋列強の侵略により困難な状況にあった清国では、中国の伝統的な文化の基礎の上に立って西洋の学問技術を導入すべきことが唱えられましたが、武・林両君も西洋の学問技術を習得する近道として、日本に留学したのです。在学中の記録がないのは残念ですが、卒業後は共に東京高等工業学校(現東京工業大学)に入学しました。また、創立40年を記念して1943(昭和18)年に作成された校友会会員名簿の武濬源の職業欄には「天津直隷高工長」と記載されています(林君の欄は記載なし)。東京高等工業学校卒業後には帰国し、革命後の中国のために働いたのでしょう。日本との長期にわたる戦争をどう感じていたのでしょうか。

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  第一回卒業式(1907年3月28日)

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校史余滴 第十二回 ああ壮烈 義人 廣枝音右衛門

2017/02/24

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 第12回 ああ壮烈 義人 廣枝音右衛門

 廣枝音右衛門という卒業生がいます。太平洋戦争末期に自らを犠牲にして日本軍の台湾人兵士の多くの命を救ったと顕彰される人物です。

廣枝音右衛門は1905(明治38)年に神奈川県足柄下郡片浦根府川(現 小田原市根府川)に生まれ、1924(大正13)年に逗子開成中学校4学年に編入しています(編入前の履歴は残念ながら不明です)。2年後の1926(大正15)に卒業し、日本大学予科を経て、1928(昭和3)年に佐倉歩兵第57連隊に入隊、軍曹にまで昇進しました。満期除隊後、一時湯河原町で小学校教員を務めますが、1930(昭和5)年に台湾総督府巡査を志願し晴れて合格、台湾に渡りました。植民地台湾の治安維持にあたるだけでなく民生向上にも貢献したそうです。温厚な人柄で、部下のみならず島民からも慕われたと言います。

 太平洋戦争の戦線拡大により、軍属部隊である海軍巡査隊の総指揮官を拝命したのが1943(昭和18)年で、台湾の警官を中心に編成された約2,000名の隊員は12月マニラに到着し、治安維持にあたりました。ルソン島への連合軍の上陸が迫ると、マニラ海軍防衛隊が編成され、海軍巡査隊はその指揮下に入りました。1945(昭和20)年、連合軍がルソン島に上陸し、激戦が繰り広げられる中、海軍防衛隊は隊員に敵戦車への体当たりを命じたのです。

 2月24日、廣枝は部下に向けて次のように語り、拳銃で頭部を撃ち自決したのです。
「此の期に及び玉砕するは真に犬死に如からず 君達は父母兄弟の待つ生地台湾へ生還しその再建に努めよ責任は此の隊長が執る」

その後、廣枝の部下数百人が米軍に投降、約一年間の捕虜生活を経て故地台湾に生還しました。

 戦後、廣枝の部下だった台湾人警官らによって元台湾新竹州警友会が結成され、時を経て、1976(昭和51)年、台湾北部の苗栗県獅頭山に廣枝の位牌を祀りました。慰霊祭も毎年執り行われています。
 1977(昭和52)年には日本在住の有志らにより茨城県取手市弘経寺内廣枝家墓域に顕彰碑が建立されました。

 顕彰碑に刻まれた文章を掲載しておきます。

 ああ壮烈 義人 廣枝音右衛門
君は明治三十八年十二月二十三日神奈川県小田原に生まれ長じては東京日本大学に学ぶ昭和五年意を決し台湾警察に身を投ず頭脳明晰資性温厚而も剛毅果断 台湾島民の信頼殊の外厚し昭和一二年七月日華事変勃発続いて昭和一六年一二月大東亜戦争に拡大其の門銃後の守りに挺身昼夜の別なし昭和一八年一二月新竹州警部にして竹南郡行政主任たりし時台湾青年の海軍巡査を以て組織せる軍属部隊の長として比島に派遣さる部下への愛情深く慈父と仰がる されど戦況吾に利あらず遂に昭和二〇年二月米軍の上陸侵攻を受けるや吾に防御の術さえ無し軍の命令たる其の場に於いて全員玉砕すべしと既に戦局の前途を達観したる隊長は部下に対し「此の期に及び玉砕するは真に犬死に如からず君達は父母兄弟の待つ生地台湾へ生還しその再建に努めよ責任は此の隊長が執る」と一言泰然自若として所持の拳銃を放ちて自決す時に二月二四日なりその最期たる克く凡人の為し得ざる所
 宜なるかな戦後台湾は外国となりもこの義挙に因り生還するを得た数百の部下達は吾等の今日在るは彼の時隊長の殺身成仁の義挙ありたればこそと斉しく称賛し此の大恩は子や孫々に至るも忘却する事無く報恩感謝の誠を捧げて慰霊せんと昭和五一年九月二六日隊長縁りの地霊峰獅頭山勧化堂にその御霊を祀り盛大なる英魂安置式を行う
この事を知り得た吾等日本在住の警友痛く感動し相謀りて故人の偉大なる義挙を永遠に語り伝えてその遺徳を顕彰せんとしてこの碑を建立す
  昭和五二年一一月吉日 元台湾新竹州 警友会
    因に遺族は取手市青柳に住す

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遺徳顕彰碑と廣枝家之墓(取手市 大鹿山弘経寺)

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校史余滴 第十一回 田邊家之墓 墓参

2017/02/18

校史余滴 第11回 田邊家之墓 墓参

 2月18日、校友会の方々と鎌倉寿福寺の田邊家の墓にお参りしました。田邊新之助先生の命日2月24日に合わせてのことです。寿福寺南側の細い道を墓所の最奥まで上ると田邊家之墓があります。香華を手向け、逗子開成の今日の様子を報告し、新之助先生及び田邊家の人々の霊を慰めました。
 田邊新之助先生については、東京開成の校長であり、逗子開成中学校・鎌倉女学校を創設したこと、松坡と号し、近代を代表する漢詩人であったことなどがよく知られています。ここでは、先生の後裔を紹介します。
 新之助先生は1884(明治17)年、22歳のときに広島県士族水谷勝貞長女・鍈と結婚し、三男四女をもうけました。長男は絶対弁証法の田邊哲学を確立し、1950(昭和25五)年に文化勲章を受章した元(1885~1962)。次男・至(1886~1968)は黒田清輝に学んだ西洋画家で、鎌倉に住し、日本創作版画協会結成にも尽力し、東京美術学校教授を務めました。三女・よしは野澤氏に嫁しましたが、その子にフランス思想史研究者の野沢協がいます。旧制浦和高等学校で澁澤龍彦と同窓で、「現代フランス文学を読む会」のリーダーでした。また、野沢協は鎌倉小町における初期「澁澤サロン」の有力メンバーでもありました。協の兄は京都大学名誉教授で霊長類研究所の所長も務めた野沢謙。その子、野沢尚は2004年にみずから命を絶った脚本家・推理小説家。田邊新之助の家からは多くの優れた人物が育ちました。

ところで、田邊先生は明治・大正・昭和にわたり鎌倉の文化に大きく貢献し、漢籍を中心とした蔵書の多くが鎌倉市図書館に寄贈されて「田邊松坡文庫」を成しています。来年度、鎌倉市図書館で「田邊松坡文庫」に関するイベントも企画されているようです。

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校史余滴 第十回 三船久蔵と高野佐三郎

2017/01/20

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 第10回 三船久蔵と高野佐三郎

大寒、寒稽古の時期です。寒稽古は、寒の時期に武道や芸事の修練を行い、技術の向上と共に、寒さに耐えながら稽古をやり遂げることで、精神の鍛錬をするという目的を持つものです。本校でも、武道が正課とされ、更に必修科目となった時期(大正末から戦前)に柔道部・剣道部を中心に寒稽古が行われ、寒稽古明けに義士祭を行っていました。
退役海軍少将岡田三善が第6代校長に就任し、文芸・講演・剣道・柔道・庭球・競技の六部から成るクラブの連合組織である「修養会」を発足させると、校長自ら柔道部の寒稽古に参加し、生徒に芋や蜜柑を出したといいます。
この時期の修養会の活動で特筆すべきことは、柔道の三船久蔵、剣道の高野佐三郎の指導を得たことです。
三船久蔵(1883~1965)は明治から昭和にかけての日本を代表する柔道家。後進の指導にも積極的で、東京大学・明治大学・日本大学その他多くの大学・高専などの柔道師範をも務めました。1923(大正12)年には七段に昇り、講道館指南役となります。色白で小柄な体格でした。小さい者が大力の巨漢に勝つ合理的な研究を一生追求し続けた点で、師の嘉納治五郎と共通するところが大でした。その研究と鍛練とにより隅落(空気投)・大車・踵返・諸手刈・三角固・球車などの妙技を創出したことでも知られます。1945(昭和20)年には講道館柔道十段。
本校柔道部の歴史を綴った貴重な資料である松本信彦(1918年 第12回卒 1920年より本校教諭)の「我が校の柔道部史」(『校友會雜誌』第十三号)に三船師範による指導のことが記されています。

暑中稽古も終つて涼しい風の立つた十月(1921年)、斯界の第一人者三船先生を我が校に聘し、柔道の大講演を二時間にも渡つてとかれ且つ実地練習、業の変化等を習ひ、終わつたのは五時頃でした、日本一の大先生の事ですが、この大熱心と論理の徹底、技の妙とに職員始め生徒は実に驚き入つたのでした、この刺激によつて吾々生徒全部は柔道の偉大なしかも神秘的な事を知り教員室の先生方で稽古しようと云ふ方もありました、部員は柔道の真価を悟り、稽古に対し趣味と豊富と自信が出て参りました。...(中略)...十二年一月から七段三船先生を我が師範として御招きする事が出来ました、先づ中学校校に於て、三船先生の如き大家を師範として戴く学校は東京以外他府県には絶対にないのであります、先生は来られる度毎に暗くなる迄熱心に稽古をされる事は我が校の誇りとする所であります、この寒稽古は九十五名程ありまして、前年よりも約三十名の多数の皆勤者がありました。

高野佐三郎(1862~1950)は明治から昭和時代にかけての剣道家・剣道教育家で、剣道の指導者養成にも大きな足跡を残しました。大日本帝国剣道形制定の主査委員を務め、剣道形の普及と近代剣道の完成に力を注ぎ、近代剣道界に多大な貢献をなし、昭和の剣聖ともいわれた人です。
剣道部史のようなまとまった記録がないので高野佐三郎が指導を始めた時期は判然とはしませんが、『校友會誌』の年表記録には、1926(大正15)年6月24日に「高野佐三郎講演」という記録があり、三船師範と同じころから逗子開成中学校で指導にあたったことが推察されます。
柔道・剣道における当時の日本を代表する二人が並んで写った本校所蔵の写真は、非常に貴重なものです。
この時期の十数年間、柔道はほとんど毎年全国中等学校の覇権を握り、開成の柔道は全勝横綱の貫禄を示しました。剣道も甲信越及び全国対抗に参加し優勝旗をもって帰って来たこと数回に及ぶほどの強剛ぶりでした。

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  右:三船久蔵  左:高野佐三郎

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校史余滴 第九回 橋健三先生

2017/01/08

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 第9回 橋健三先生

「第二開成中学校創業費並特別経費」(田辺文書所収 鎌倉女学院所蔵)には明治36年2~3月、東京開成の首脳陣が足繁く逗子・鎌倉に通い、第二開成設立の準備に追われていたことが示されています。主要メンバーは東京開成の共同校主だった先生方で、第二開成の初代校長となる田邊新之助、第二開成教員となり、後に平塚育英学校を開いた太田澄三郎、そして、橋健三らでした。
橋健三は1885(明治18)年より東京開成で漢文・倫理を教え、第二開成が分離独立後、東京開成の第5代校長となり、1928(昭和3)年までの長きにわたって校長を務めました。今回は橋健三について紹介します。
 橋健三は万延2(1861)年、加賀藩士瀬川朝治の二男として加賀国金沢に生まれました。幼少より加賀藩学問所壮猶館教授の橋健堂に学び、12歳の時には学才を見込まれて健堂の三女コウの婿養子となって橋健三と名乗りました。その後、健堂の漢学塾「集学所」を受け継ぎ、教授となります。14、5歳にして、養父の橋健堂に代わって前田土佐守家前田直行(1866~1943)に講ずるほどの秀才だったといいます。
 1884(明治17)年、コウとの間に、長男の健行が誕生しますが、廃藩置県により覚束なくなっていた「集学所」をたたみ、妻子と共に上京、小石川に学塾を開きました。共立学校(開成中学校)に招かれて漢文・倫理を講ずるようになったのは1888(明治21)年のことでした。共立学校の設立者佐野鼎と橋健堂は加賀藩学問所壮猶館で深い親交があったからでしょう。妻の死に伴い、1890(明治23)年には、健堂の五女トミ(つまりコウの妹)を後妻とし、雪子・正男・健雄・行蔵・倭文重・重子の三男三女を儲けることになります。
 1894(明治27)年には開成中学校の共同設立者に加わり、第二開成中学校設立に奔走したことは既に述べたとおりです。東京開成中学校校長としては、学校の移転拡張を図るため、学園組織を財団法人とし、理事長に就任したこと、日暮里への移転を果たしたことが特筆すべきことです。三校主(橋健三、石田羊一郎、太田澄三郎)が学校の動産及び不動産の全部を寄付し財団法人の財産とすることが定められました。「この三校主の勇気決断は、この学校の出身者の特に肝に銘記しなければならないことである」と東京開成の学園史に記されています。
 1928(昭和3)年、校長辞職後は、夜間中学開成予備学校(昌平中学)の校長として、勤労青少年の教育に尽くしていましたが、太平洋戦争中の1944(昭和19)年、その職を四男行蔵に譲り、故郷の金沢に帰り、同年12月5日に亡くなりました。84歳でした。
 雪の如き白色の長髯と炯々たる眼光は教育界の名物で、祝祭日の儀式で賀表を朗読する最後に、名前を「けんそう」と濁らないで発音するのが生徒間の話題だったそうです。
 ところで、次女「倭文重(しずえ)」は1924(大正13)年に農商務省事務官(東京開成中学校、第一高等学校、東京帝国大学法学部卒)の「平岡梓」と結婚し、翌年長男「公威(きみたけ)」を生みます。公威は長じて小説を書き、作家「三島由紀夫」となります。橋健三は三島由紀夫の外祖父に当たるのです。
 昨年末、休みを利用して私は橋健三墓の掃苔に赴きました。金沢市中心部から南約4キロのところに野田山墓地があります。標高約180mの野田山山頂から山腹に広がる総面積43万㎡(東京ドームの約10倍)の広大な墓地です。山頂近く、前田家墓所の西の「平成墓地乙」墓域に橋家の墓があります。中央に橋一巴(健三の祖父、健堂の父)の墓、向かって左に健三の、その右に小さな橋健秀(不詳)、一番右に橋健行の計四基の墓があります。(橋健堂の墓はありません。) 健三の墓は正面に「橋健三墓」、右側面に「健住院釋清和 昭和十九年十二月五日没 八十四才」、左には「昭和廿七年十月十日建之 正雄 健雄 行蔵」と刻まれていました。


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   橋家の墓(金沢野田山墓地)
   一番左が橋健三墓

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校史余滴 第八回 校歌制定

2016/10/18

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 第8回 校歌制定

 第7回でお話しした校章に関連して、今回は校歌制定についてです。本校の校歌が制定されたのは大正14(1925)年10月、91年前のことでした。ペン・剣に桜の校章 制定に先立ちます。そもそも、「校歌」を制定する慣行がいつごろから諸学校に広まったかは、定かではありません。中学校・高等女学校などについていえば、おそらく府県立中学校・高等女学校などが多く成立する日清・日露戦争間あたりではなかったかとされ、高等教育機関では、1890年代以降旧制高等学校の寮歌が学生歌・準校歌として作られ、慶応義塾塾歌(1904)、早稲田大学校歌(1908)などが続々と作られました。歌詞の特徴は、尚武・貞淑・研学・国家の使命などを盛った漢文調のものが中心でした。

 本校校歌の詩を書いたのは東京大学文学部国文科在学中ながら、大正13年から講師として本校で教鞭をとっていた井上司朗(1903~1991)で、岡田三善校長の要請を受けてでした。それに曲をつけたのは弘田龍太郎(1892~1952)です。

 井上司朗は立教中学校から第一高等学校を経て、1924年、東京帝国大学文学部国文科に入学。在学中から本校で英語と国語と漢文の講師を務めました。その後、東京帝国大学法学部政治学科に入り直し、1928年に卒業。戦中は内閣情報部で働きましたが、戦後は公職を辞し、後楽園スタヂアムに入社し同社取締役を経て、1954年、ニッポン放送の創立に参画しました。逗子八郎の筆名で、多くの短歌を詠み、歌集も残しています。1960年代に本校の理事の一人となっています。
 逗子八郎の名で書いた随筆「五遷の松」(『月刊時事』【身辺閑話】第66回 月刊時事社 1983年1月)に本校の校歌制定について触れた部分があります。

 やがて校長から、逗子開成の校歌をつくるようにと御命令があり、潜心二週間、ようやく成った『天地分くる富士ヶ嶺の』以下、一節六行、六節の歌詞を、校長先生が非常によろこばれ、予算はいくらかかってもよい、之に日本一の作曲家に作曲をお願いしろ、とのことで、私の立教中学の保証人杉浦千歌子先生(東京音楽学校教授)を通じ、同校教授弘田龍太郎先生(当時日本一の大家)におねがいし、一ヶ月の後、全国高校校歌中、屈指の壮重華麗な名曲を得た。今にして思えば、私の逗子開成の厚恩に対する、心ばかりの感謝のしるしとなった。
 
 一方、作曲をした弘田龍太郎は東京音楽学校本科を卒業した作曲家で、本校校歌を作曲するまでに、「鯉のぼり」「靴が鳴る」「浜千鳥」「叱られて」「雀の学校」「春よ来い」などを作曲しています。本校校歌以外に全国各地の小中高等学校の校歌を多数作曲しました。

 この時作られた校歌はもちろん現在の校歌ですが、実は1943年、太平洋戦争中、創立40周年を記念して、この校歌が廃止され当時の鹿江三郎校長の作詞、海軍軍楽隊長内藤清五作曲による新たな校歌が制定されました。しかし敗戦とともにこの校歌は廃止され、従来の校歌に戻ったのです。

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弘田龍太郎墓所(谷中・全生庵)

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校史余滴 第七回 校章の変遷

2016/09/21

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 第7回 校章の変遷

 「ペン・剣・桜」の校章が定められてからこの9月で88年になります。創立113年なのに、校章は88年?
現在の校章は30年前の中学校再開を機に、「ペン・剣・高」を改めたものですが、もとの意匠は奥宮衛校長時代に制定されたものなのです。
第二開成学校としてスタートした本校では長く「ペン・剣・二」の校章を使用していました。開成中学校の校章(徽章)が「ペン・剣」と定められたことについては、『東京開成中學校校史資料』(1936)という書物に、

明治十九年 十二月 初めて生徒の帽子及徽章を制定す。徽章は剣とペンとを交
叉したるものにして英国の俚諺「ペンは剣に優れり」(The Pen is mightier than the Sword.)より採りたるものなり。

と記されています。この「俚諺」は当時広く知られていたのですが、イギリスの作家・政治家である Edward George Earle Bulwer-Lytton(1803~1873 有名なリットン調査団の「リットン卿」の祖父)の5幕から成る戯曲"Richelieu"の第2幕第2場のRichelieuの科白によります。

リシュリュー(何かを書こうとペンを持ち上げて)
そうだ、これだ! 完全に偉大な人間の統治下では、ペンは剣よりも強いのだ。

リットンの作品は西南戦争前後に広く読まれるようになり、この言葉も武力よりも言論が重視されるようになるなか、次第に「俚諺」化して人口に膾炙していったのです。第二開成学校として発足した本校は、東京開成中学校の校章であるペンと剣の交叉の中央に、第二を表す「二」の文字を置いたものを校章としたのです。

大正9(1920)年、開成中学校から独立して11年目の楠公祭の記念メダルがありますが、その裏面に刻まれた校章はペンと剣の交叉に「二」。また、昭和3(1928)年10月の講堂落成校友大会記念のメダルにもペン・剣に「二」。逗子開成中学校となった後、19年間もの長きにわたって第二開成を表す校章を使っていたことになります。

加藤義雄(1942年 第36回卒)から寄贈された写真・絵葉書の中に、何枚かの新聞記事の切り抜きが挟み込まれていました。その記事の一つ(掲載紙・掲載年月日不詳)に「校章の由来」という連載記事の第23回があり逗子開成中学校が取り上げられているのですが、そこには「昭和三年九月現在の通り改められた」とあります。講堂落成大会の前後に「桜」に改められたものの、メダル製作発注の段階では「二」だったのでしょうか? 新聞記事との時期のズレは不明です。

当時の校長は奥宮衛。「桜」はいうまでなく、国学以来日本精神発揚のシンボル(本居宣長の歌など)であり、学級呼称を「中隊・小隊」など軍隊風に改め、「振武隊」(現吹奏楽部)を創設した奥宮校長時代のこととして意味深いものがあります。
 「ペン・剣・桜」の校章は、戦後の新たな学制で「ペン・剣・中」と「ペン・剣・高」。中学校募集が停止されて「ペン・剣・高」のみ、前述のように中学校が再開され、中高一貫教育を掲げ「ペン・剣・桜」と今日の姿になったのです

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※校章の変遷 「二」「桜」「高」

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校史余滴 第六回 長柄運動場

2016/08/13

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 第6回 長柄運動場

 85年前の夏休み、逗子開成中学校の生徒・教師は葉山長柄で運動場をつくる作業に汗を流していました。
 当時、現在の校門のところからセミナーハウス手前まで道路が通っており、校舎敷地は三角形で狭く、運動には不都合でした。ところが、校主神田ライ(金偏+雷)蔵の所有地(5,200坪、約17,000㎡)が長柄にあり、そのうち2,640坪(約8,700㎡)を運動場に造成したのです。造成を決定したのは前年発足した自治会でした。
造成作業が行われたのは7月26日から11月30日までの68日間、夏休みには集中的に行われました。作業に参加したのは(延べ人数)、生徒3,437名、教職員361名でした。
 当時5年生だった横尾義貫(1932年卒 静岡高校・京都大学を経て京都大学教授・名誉教授)が「長柄運動場整理記事」(『修養會雑誌』第19号 1932年1月)を残しています。(一部読みやすく書き改めてあります)

福井、長谷川両先生の測量、計算の結果割りだされた数字によって、8月中、一日に二組ずつ(又は三組)、一組四日ずつ、労働する事となった。7月26日、先ず準備作業として、応援団幹部、競技部員等の手によって、夏草の繁茂した荒れ果てた此の長柄の地の運動塲開拓に着手した。福井、長谷川両先生をはじめ、田中、衣川、石川の諸先生も親しく我々を指導せられた。この作業は30日を以て打切りとして31日より愈々本作業にうつった。
 本作業は7時半に作業塲に集合、朝の太陽を斜に受けて、朝つゆを踏みつけながら、シャベルで大地を掘りかえす。愉快に作業は着々と進捗して、10時半に終えるのを常とした。9時、10時となると、こんな山に繞まれた所では全く風が無い事があって、汗が自然に滲み出たが、作業は順調に運ばれて、北側は低められ、南側は高められ、日に日に平になって行った。9月に入ってからは、なお欠席者等によって続行され今日に至って、遂にその予定を終了したのである。
 この作業は、我校の体育を益々向上せしむる目的を以て実施されたのであるが、それは唯にその崇高なる目的において尊いのみならず、平常得難い神聖なる労働を体験するの機会を得た事において更に尊い。
 我等の手になり、我等の心の打込まれたこの運動塲は、永久に記念され、永久に我等の誇であらねばならぬ。

 造成作業から70年を経た2002年、柴崎二郎氏(1932年卒)から校史編纂委員会宛に届いた手紙には、当時の作業の様子が次のように綴られています。

 わたしはこの作業に参加して、山際の高いところから土を削り、リヤカーで低いほうに運び出すなど、夏休み中も大いに汗を流したものでした。わたしの作業相棒の木下君の大きな額からも汗が流れて、片手でリヤカーの取っ手を握りながら、手拭いで顔をふく笑い顔は、今でも目に浮かぶほど鮮やかです。あそこは、学校からはかなり離れている所なので、日常的に利用するには不便ですが、その広さは毎日見ている校庭からすれば格段の相違で、鍬やスコップをかついだ長い行列が、行幸道路に繋がる暗いトンネルの中に吸い込まれていく有り様などは、今日では誰も想像できない姿であったのではないでしょうか。夏休みも返上でしたが、誰も苦情も言わずに作業をしただけに、完成した時の満足感は大したものでした。

 このように生徒・教員が心を込めて造成した運動場でしたが、「永久に」という思いとは逆に短命に終わってしまいました。1940(昭和15)年にこの長柄の土地(神田没後、遺族が相続し、学校は貸借していた)を売却する話が出たのです。学校が買収するという案も出されましたが、まとまらず、結局この土地から撤収することになったのです。本校敷地の拡張も進み、長柄運動場に執着する必要もなかったことと、買収費用の点で折り合いがつかなかったからでした。

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運動場造成作業の様子

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八方尾根遭難事件慰霊の登山 報告

2016/08/11

 1980年の12月に本校山岳部が八方尾根で遭難してから36年近くの月日が流れました。一昨年、捜索に当たった最後の先生が定年退職され、当時の状況を知る教職員が一人もいなくなりました。しかし、ボート遭難事件とこの山の遭難事件は、逗子開成史において最も重要なものであることは言うまでもありません。特に後者は"学校のその後"を決定する分岐点になった、私たち学校関係者が忘れてはならない出来事なのです。
 2016年8月4日(木)。絶好の登山日和です。今回慰霊登山に参加した7人は、当時遭難して亡くなった5人の生徒と同世代です。彼らの味わった心細さ、恐怖、痛み、無念をはかり知ることはできません。本校に長く身を置く私たちの務めは、祈り、語り継ぎ、そして命の尊さを伝えることです。「次は若い世代を案内して登りたい。」私たちは願います。

 写真1 八方池山荘から尾根づたいに登る一行。小休止中です。

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 写真2 第二ケルンから八方ケルン(目的地)を望む

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 写真3 八方ケルンにて

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 写真4 八方ケルンに祈りをささげ、献花する。

「夏めぐり 彼岸十七 此岸五十路」
(なつめぐり ひがんじゅうしち しがんごじゅう)
あれから夏は何度もめぐったけれど、彼岸の彼方にいる君たちは永遠に十七歳だ。一方此岸、こちら側の私たちは五十路(いそじ)を行く。私たちは命ある限り祈り続ける。安らかに眠れ。

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 写真5 八方ケルンに刻まれた逗子開成高等学校の文字

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校史余滴 第五回 校舎全焼と復興

2016/07/06

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 第5回 校舎全焼と復興


 
 敗戦からほぼ2年が経過し、戦争の痛手から回復しつつあった昭和22(1947)年4月、学園は新制中学という新たな体制でスタートしました。しかし、喜びも束の間、学園を震撼させる出来事が起こったのです。4月24日午前5時半頃、教室から出火、音楽・物理・化学・木工各教室260坪が全焼、地理生物教室130坪が半焼、進駐軍消防車3台が消火に参加し、鎮火したのは7時過ぎでした。葉山署が発火原因を取り調べたものの不明。焼失したのは特別教室だったため、授業には殆ど支障がなかったのは幸いでした。
また、2か月後の6月25日に再び出火事件が起こります。教員室からの出火で、机の下にと壁際に紙を積み重ね、マッチで点火したあとがあり、明らかに放火と考えられました。退校を命ぜられた者、退職教諭などを犯人とみて捜査が進められましたが、犯人は見つかりません。
 二度にわたる出火事件での厳重警戒にもかかわらず、7月には校舎全部を焼失する大火が起こります。7月6日午前2時20分頃、合宿中の野球部生徒と宿直教諭が発見した時には、既に火の手は広がり、手の施しようもなく校舎全部を焼失する大火となりました。現場臨検の結果、放火と断定されました。
 折から一学期末の試験を控える時期でしたが、試験を延期し、9日に終業式を行いました。新学期からは間仕切工事を行った講堂や残存教室を利用して二部授業が行わました。学校は犯人検挙の手掛かりを提供した者に一万円の賞金を出し、逗子住民の積極的協力を要望したのですが、一連の放火事件は迷宮入りとなりました。三回に亘る放火事件で「逗子住民は姿なき放火魔に戦々兢々とし、火災保険に加入する者続出」(『神奈川新聞』1947.7.10)と報道されました。
 戦後の悪性インフレで学校経営は苦しく授業料値上げが続く中、校舎焼失に伴う復興費はそれに拍車をかけまし。授業料値上げ(1947年4月35円 → 1948年4月150円 → 1949年4月300円)だけで校舎復興資金を賄うことは不可能であり、公的資金の援助も仰ぎました。学校債を発行して、父兄・有志に協力を呼びかけ、復興バザーも開催されました。
1948年春に行われた復興バザーに向けて、荒井惟俊校長は次のように呼びかけています。

 昨年火災で校舎の大部分を焼失しましたが去る四月の新学期に木の香も高い十六教室が出来上りましたので諸君には二部教授の苦痛もなく落着いて勉強が出来る事となりまして喜び堪へません。
 黒板も机も椅子もまた近々の内には全部整備されますので以前に優る立派な教室となります、全く嬉しい事です。
 然し皆さん! ここに困つたことがあるのです、
 それは新校舎は出来上りましたが建築者に支払うお金がない事です。
現在毎月諸君から五十円宛の復興資金を戴いて居りますから数年後には全部支払う事が出来ますが、さし当り支払う二百万円のお金が只今はないのです。銀行がお金を貸してくれますと、皆さんが毎月納付する復興資金で順次に返金して行かれるのですが銀行はどうしてもお金を貸して呉れません。
(1948年4月30日付 復興バザー開催の通知)


1947年12月には物象教室および図画工作室を含む平屋建校舎一棟が、1948年5月には、16教室二階建校舎一棟が落成しました。校舎が旧に復す中、5月18日には創立四十五周年記念式典が挙行されました。同年は新制高校が発足した年でもあり、学園の新たな出発と新校舎完成が祝われたのです。

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           事件を報ずる新聞記事

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校史余滴 第四回 綽名で結ばれた教師と生徒

2016/06/17

校史余滴 第4回 綽名(あだな)で結ばれた教師と生徒

 学園にとって最も大切なのは人と人(教師と生徒、教師どうし、生徒どうし)の繋がりです。中でも、優れた教師は学園に命を与えるものであり、逗子開成中学校の多くの卒業生に「立派な先生に教えを受けて感謝している」という回顧談が多いのは、嬉しい限りです。石井勇蔵先生(教頭)の「母校五十年」(『創立五十周年記念誌』所収)などを手掛かりに、生徒から親しみを籠めて綽名で呼ばれた先生のことを紹介します。

1.「大学」
 大学目薬の広告そっくりで「大学」と呼ばれ、生徒も父兄も多くが本名を知らなかったそうです。学校に来たある父兄に「御高名な大学先生はあなたでいらっしゃいますか」と言われ、本人が苦り切っていたことがあったそうです。東京開成中学校から来た生徒監兼体操の三村永一先生。帽子に金筋を巻いて馬に乗る堂々たる姿だったとか。

2.「ベヤア公」「ガンボーヂー」
 図画の教師で、口をきくのも損だといった風な無精者。どうみても「熊bear」という感じだったようです。別の綽名は「ガンボーヂー」。この先生はガンボージ(gamboge黄)とインディゴ(indigo)が大好きで、「もっとガンボーヂーを使って」が口癖。生徒の絵具を筆につけて生徒の絵を直したついでに自分の絵も描いてしまうという実に合理的な方法を駆使したそうです。用器画・投影画を黒板に書かせたら天下一品で、定規・分廻を使わないで、線と円の構成を描き上げてしまう見事なものだったとか。
 今となっては「ガンボーヂ」先生の姓名は不詳。

3「メタコウ」
「メタ」とは何か、「コウ」とは「センコウ」の「公」なのか。生徒たちがこの意味を身をもって知るのは歴史の成績が付けられてからでした。メタコウは無数の「乙」を驟雨の如くばら撒いたのです。当時の成績は甲乙丙の評価でしたが、メタコウが甲を付けるのは稀。そう「滅多甲」なのでした。大正7(1918)年から16年間、歴史を教え、『帝国史眼』(1926)という一般書も残している満木峯丸。本校に着任したのが53歳。袴の裾を踝よりも高く着用し、髪の方は大分さみしかったといいます。生徒にとっては「メタオツ」でなかったのは幸いでした。

4.「バケさん」
 最初の授業では必ず化け猫の怪談をしました。ぼさぼさの髪、不精髭、色褪せた羊羹色の紋付で、巧みな話しぶりが生徒を魅了した英語教師衣川嘉雄。第一高等学校、東京帝国大学法学部を卒業。官僚への道を勧める周囲の助言を無視し、恃むところがあったのでしょう、英語教員となりました。類稀な明断な頭脳、権威をものともしない豪毅さ、度量の大きさ、燃えるような情熱は周囲から讃嘆されたそうです。生徒からは「バケさん」と慕われました。軍靴の足音迫る時代、ユニークな英語の授業をしたと聞きます。戦局が悪化した昭和18(1943)年、先生は突然志願し、通訳官としてマニラに発ち、終戦直前の6月5日に戦死。40年の短い一生でした。昭和27(1952)年、教え子たちにより衣川先生の墓碑が逗子沼間の法勝寺の一角に建てられました。

 今日、生徒の間では密かに先生を綽名で呼んでいるのかもしれませんが、表立って、面と向かって先生を綽名で呼ぶのをあまり聞きません。何か淋しい気もしますがどうでしょう。

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             「衣川嘉雄先生」

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校史余滴 第三回 実況! 創立三十年紀年大運動會

2016/05/21

今年も大変盛り上がった体育祭。逗子開成の昔の体育祭はどのように実施されていたのでしょうか?校史余滴 第三回 では「実況! 創立三十年紀年大運動會」というタイトルで、今から84年前の運動会の様子をご紹介します。

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 第3回 実況! 創立三十年紀念大運動會

84年前の昭和7(1932)年5月21日(土曜日)、長柄運動場(1931年造成)で創立30年を記念して大運動会が開かれました。この年、1903年の創立から30年目を迎え、5月18日に記念式並に祝賀会、19日に物故職員校友慰霊祭が行われ、20日「母校発祥地池子東昌寺行軍参拝」と記念行事が続いていました。


紀念大運動会の実況中継です。

朝より雲天を覆ひて雨まさに来たらんとするの気を示す。それに増して風とみに加はり、天我に幸せざるがごとく見ゆ。開成健児850ものともせす予定のごとく午前7時半学校を出発、午前8時長柄運動場に到着。朝礼、君が代ラッパ、合唱、終わって開会の辞、直ちに合同体操。
 猛風は長柄運動場をかけめぐり、砂塵は荒狂う。猛塵と闘いつつ規則正しく運動は行われき。時折ひびく花火の音、振武隊の楽音、砂塵と共に場内に響く。

時代を反映してか(前年、柳条湖事件に端を発した満州事変が起こり、満州国建国宣言はこの年3月1日。五・一五事件は運動会の直前でした)、最上級生第5中隊(5年生による「模擬戦」なる競技(?)もありました。

 耳をつんざく小銃の音、むくむくと現はれたる爆弾勇士、肉弾勇士、鉄カブトにカーキ色の外衣、爆弾をかがえて敵陣を猛襲せんとするの景、まさに実戦をしのばしむるものあり、死者あり負傷者あり、小銃の音と共に場内は煙幕にとざされ、その中を勇士は突撃又、突撃、兵士の奮闘まさに涙あり、場内に尚猛塵は荒れ狂う、敵陣に爆弾を抱えて突進せる勇士等、鉄條網を爆撃す。その爆破の景、火光一線、土は二三丈高く飛びて観衆は「アッ」とおどろく。かくして休戦ラッパ場内に響けば兵士等は死者も負傷者も一時に立ち上がり、歓呼の声をあげて一場に集まる。

その後、横須賀の小学校(大津、長浦、葉山、豊島、浦郷、田浦、田戸、諏訪)対抗のリレーを最後に競技は終了しました。

 3時55分優勝旗授与式あり。全校生徒一同集合、校歌合唱あり、閉会の辞終って万歳三唱、幸なるかな、雨ついに至らず、されど猛風は長柄運動場を吹きまくつて終におさまらず、生徒よくこの猛塵と逃いつつ規則正しく運動を挙行せるは称賛に値すべし。かくて記念すべき創立30年紀念大運動会はめでたく終を告げぬ。時に午後4時半、天暗く場内風塵逆巻く。

 今年も体育祭が行われました。
 生徒たちの奮闘ぶりは如何だったでしょうか。

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「紀念大運動会 開会式」

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「模擬戦のようす」

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校史余滴 第二回 千葉吾一のこと

2016/05/03

校史余滴 第2回

本年の創立記念日にスタートした新企画「校史余滴」。

本企画は、『100年史』以降に新たに発掘された事実や伝えきれなかった事実をご紹介するものです。

憲法記念日に、「憲法」と「逗子開成」について考えてみませんか?

千葉吾一のこと

日本の憲政史の上で大きな意義を持つ「五日市憲法(日本帝国憲法)」は君民共治に立ちながらも、充実した人権保障、司法権の独立を特徴とします。五日市の青年らによって組織された五日市学芸講談会が明治14(1881)年に私擬憲法として起草したものです。昭和43(1968)年に五日市深沢村の旧名主の土蔵から発見され、注目を集めました。講談会の設立者であり起草者の代表が千葉卓三郎(1852~83)ですが、卓三郎と同郷でやはり起草者に名を連ねているのが千葉吾一(1861~1927)です。あきるの市に建てられている五日市憲法草案の碑には千葉卓三郎と千葉吾一の名が並んで刻まれています。(同じ碑が千葉卓三郎の生地宮城県志波町、墓所仙台市にも建てられています)
明治36年に誕生した本校は翌年5月に、私立第二開成中学校として認可されますが、田邊新之助と共に共同設立者(兼校医)となったのが千葉吾一でした。(あと一人の共同設立者は、福原有信らと共に資生堂を設立した矢野義徹)
宮城県栗原郡の医者の家に生まれた千葉吾一は天皇の東北巡幸の折、侍医岩佐純の知遇を得、上京して五日市で應天堂医院を開業します。医院の扁額は山岡鉄舟の筆になります(吾一の御孫さんが横浜市で「應天堂中田町クリニック」を開業。扁額が現存します)。五日市憲法起草に関わった後、海軍軍医となります。軍医としての経歴は輝かしいものでした。軍艦軍医長を務め、日清戦争の際は旅順口海兵団軍医長も務めました。日露戦争直前に退役、逗子新宿に静養圏医院を開業し、後に千葉病院と改称しました。第二開成中学校の共同設立者となったのは、田越村村医千葉病院院長という立場からでした。少し時代が下りますが、大正2(1913)年に逗子松林堂より発行された増島信吉『逗子と葉山』には次のように記されています。(読みやすく一部書き改めています)

 ...この地に開業し一般の診察に応じてよりは町民の信頼深く本宅及び診察所と道路を隔てて病院を有し、内外科、産科、婦人科、耳鼻咽喉科、すべて最新式の設備をもって外来及び入院治療のもとめに応じるゆえに避暑避寒の客又は療養のため転地せる人々は白砂青松の間に所し、悠々養痾をなすと共に進歩せる医薬の治療をも受くるをうべきなり。

 明治43(1910)年1月の七里ヶ浜ボート遭難事故後の追悼会(2月6日)で学校を代表して「決別と慰霊の辞」と題された弔文を読み上げたのは千葉吾一でした。

 最後に一つのエピソードを。大正5(1916)年11月9日、葉山日蔭茶屋で神近市子に左頸部を刺された大杉栄は千葉病院に運ばれ、一命を取りとめました。関東大震災の際の甘粕事件で大杉栄が殺された時、吾一は日蔭茶屋での事件を回顧して、「大杉が自動車で運ばれてきたとき、ついてきた者たちが車から降ろそうとしたのを押し止め、車内で応急処置をした。あのときそうしなければ大杉は死んでいただろう。」と述懐したといいます。

 若き日に憲法草案起草に加わり、海軍軍医・市井の医者・学校経営者として生きた千葉吾一に思いを馳せて下さい。
 また、5月3日は日本国憲法施行から69年を迎える日です。一人一人が憲法のありかた、国のゆくえについて考える機会にして欲しいと思います。(町田市立自由民権資料館で「五日市憲法展」が開かれています。5月22日まで)

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 田邊新之助(向かって左)と千葉吾一(右)
   第1回卒業証書授与式記念写真(1907年3月28日)より

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新企画「校史余滴」スタート

2016/04/19

昨日4月18日(月)をもって、逗子開成中学校・高等学校は創立113周年を迎えました。県内で最も古い男子校として、歴史を刻み続けて参りました。これからも「開物成務」の気概をもって、新たな挑戦や改革を行って参ります。

さて100周年時には、900ページをこえる『逗子開成100年史』を発刊いたしました。発刊から13年が経ちました。この間にも、新資料をご紹介いただいたり、新事実が浮かび上がったりすることがございました。こういった取り組みを後世に残すためにも、新企画「校史余滴」をスタートいたします。不定期にはなりますが、本ホームページ上にて、100年史では紹介しきれなかった事実や新たに判明した資料等の紹介を行って参ります。是非ご注目ください。

校史余滴  第1回 田邊新之助、逗子・鎌倉と黒田清輝

 上野の東京国立博物館で特別展「生誕150年黒田清輝―日本近代絵画の巨匠」が開かれています(5月15日まで)。黒田清輝(1866~1924)は、逗子・鎌倉、また本校創立者の田邊新之助(1862~1944)と深い繋がりがあるのです。
 薩摩出身の黒田は伯父黒田清綱の養子となって明治5(1872)年に上京、小学校卒業後、二松學舎を経て、東京開成中学校の前身である共立学校に入学しました。明治11(1878)年のことでした。すぐに築地英学校に転じたので共立学校在学はごく短期間でした。田邊新之助が共立学校の漢文教師になるのが明治15(1882)年ですから、黒田清輝と田邊新之助はここでは擦れ違い。
 黒田は明治17(1884)年から26(1893)年までフランスに留学し、帰国後は明治29(1896)年に発足した東京美術学校西洋画科の教員となります。教授として日本洋画を牽引し、有名な「腰巻事件」が起きた頃、黒田のもとで洋画を学んでいたのが、田邊至(1886~1968 新之助の次男)でした。至は美術学校卒業後、研究科に進み、西洋画科の教員になりますので、黒田と親しく接したことでしょう。至の父新之助が共立学校の教員、開成中学校校長を務め、逗子(黒田が頻繁に滞在した)に中学校を創り、鎌倉(黒田の別荘があった)にも女学校を設立したことなどを黒田は耳にしたかも知れません。黒田が逗子の定宿にした養神亭は逗子開成中学校から歩いて数分のところ、田越川にかかる富士見橋の北側にありました。
 そうしたことから田邊新之助と黒田清輝に接点が生まれます。陸奥広吉(1869~1942 陸奥宗光の長男 田邊新之助の教え子で外交官 鎌倉女学校校長も務める)、大島久満次(1865~1918 台湾総督府民政長官 神奈川県知事)、黒田清輝らを発起人として大正4(1915)年に発足した「鎌倉同人会」の会名を選定し、趣意書を起草したのは田邊新之助でした。また、大正7(1918)年10月2日、鎌倉女学校創立14周年記念に黒田は同校で西洋画に関する講演を行っています。講演に先立ち、「静カナル秋ノ日和」に田邊新之助鎌倉女学校校長は鎌倉の黒田別荘を訪ね、講演を依頼したことを黒田は日記に記しています。
 上野の展覧会には黒田が「湖畔」などとともに1900年のパリ万博に出品した「木かげ」と題された印象派風の作品が展示されています。木の間を洩れる光が陽だまりを点在させる叢に寝転がる少女が茱萸の実に手を伸ばしているものです。明治31(1898)年、東京美術学校における岡倉天心排斥事件のゴタゴタを避けるかのように長期にわたって逗子養神亭に滞在していた黒田が、逗子柳屋の「つうちゃん」をモデルに描いた作品です。機会があれば上野に足を運び、黒田清輝と逗子・鎌倉、また田邊新之助のことに思いを巡らせてみてはいかがでしょうか。

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  「田邊新之助の肖像 1943年田邊至画」

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