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校史余滴 第五回 校舎全焼と復興

2016/07/06

校史余滴
 第5回 校舎全焼と復興


 
 敗戦からほぼ2年が経過し、戦争の痛手から回復しつつあった昭和22(1947)年4月、学園は新制中学という新たな体制でスタートしました。しかし、喜びも束の間、学園を震撼させる出来事が起こったのです。4月24日午前5時半頃、教室から出火、音楽・物理・化学・木工各教室260坪が全焼、地理生物教室130坪が半焼、進駐軍消防車3台が消火に参加し、鎮火したのは7時過ぎでした。葉山署が発火原因を取り調べたものの不明。焼失したのは特別教室だったため、授業には殆ど支障がなかったのは幸いでした。
また、2か月後の6月25日に再び出火事件が起こります。教員室からの出火で、机の下にと壁際に紙を積み重ね、マッチで点火したあとがあり、明らかに放火と考えられました。退校を命ぜられた者、退職教諭などを犯人とみて捜査が進められましたが、犯人は見つかりません。
 二度にわたる出火事件での厳重警戒にもかかわらず、7月には校舎全部を焼失する大火が起こります。7月6日午前2時20分頃、合宿中の野球部生徒と宿直教諭が発見した時には、既に火の手は広がり、手の施しようもなく校舎全部を焼失する大火となりました。現場臨検の結果、放火と断定されました。
 折から一学期末の試験を控える時期でしたが、試験を延期し、9日に終業式を行いました。新学期からは間仕切工事を行った講堂や残存教室を利用して二部授業が行わました。学校は犯人検挙の手掛かりを提供した者に一万円の賞金を出し、逗子住民の積極的協力を要望したのですが、一連の放火事件は迷宮入りとなりました。三回に亘る放火事件で「逗子住民は姿なき放火魔に戦々兢々とし、火災保険に加入する者続出」(『神奈川新聞』1947.7.10)と報道されました。
 戦後の悪性インフレで学校経営は苦しく授業料値上げが続く中、校舎焼失に伴う復興費はそれに拍車をかけまし。授業料値上げ(1947年4月35円 → 1948年4月150円 → 1949年4月300円)だけで校舎復興資金を賄うことは不可能であり、公的資金の援助も仰ぎました。学校債を発行して、父兄・有志に協力を呼びかけ、復興バザーも開催されました。
1948年春に行われた復興バザーに向けて、荒井惟俊校長は次のように呼びかけています。

 昨年火災で校舎の大部分を焼失しましたが去る四月の新学期に木の香も高い十六教室が出来上りましたので諸君には二部教授の苦痛もなく落着いて勉強が出来る事となりまして喜び堪へません。
 黒板も机も椅子もまた近々の内には全部整備されますので以前に優る立派な教室となります、全く嬉しい事です。
 然し皆さん! ここに困つたことがあるのです、
 それは新校舎は出来上りましたが建築者に支払うお金がない事です。
現在毎月諸君から五十円宛の復興資金を戴いて居りますから数年後には全部支払う事が出来ますが、さし当り支払う二百万円のお金が只今はないのです。銀行がお金を貸してくれますと、皆さんが毎月納付する復興資金で順次に返金して行かれるのですが銀行はどうしてもお金を貸して呉れません。
(1948年4月30日付 復興バザー開催の通知)


1947年12月には物象教室および図画工作室を含む平屋建校舎一棟が、1948年5月には、16教室二階建校舎一棟が落成しました。校舎が旧に復す中、5月18日には創立四十五周年記念式典が挙行されました。同年は新制高校が発足した年でもあり、学園の新たな出発と新校舎完成が祝われたのです。

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           事件を報ずる新聞記事

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