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校史余滴 第十回 三船久蔵と高野佐三郎

2017/01/20

校史余滴
 第10回 三船久蔵と高野佐三郎

大寒、寒稽古の時期です。寒稽古は、寒の時期に武道や芸事の修練を行い、技術の向上と共に、寒さに耐えながら稽古をやり遂げることで、精神の鍛錬をするという目的を持つものです。本校でも、武道が正課とされ、更に必修科目となった時期(大正末から戦前)に柔道部・剣道部を中心に寒稽古が行われ、寒稽古明けに義士祭を行っていました。
退役海軍少将岡田三善が第6代校長に就任し、文芸・講演・剣道・柔道・庭球・競技の六部から成るクラブの連合組織である「修養会」を発足させると、校長自ら柔道部の寒稽古に参加し、生徒に芋や蜜柑を出したといいます。
この時期の修養会の活動で特筆すべきことは、柔道の三船久蔵、剣道の高野佐三郎の指導を得たことです。
三船久蔵(1883~1965)は明治から昭和にかけての日本を代表する柔道家。後進の指導にも積極的で、東京大学・明治大学・日本大学その他多くの大学・高専などの柔道師範をも務めました。1923(大正12)年には七段に昇り、講道館指南役となります。色白で小柄な体格でした。小さい者が大力の巨漢に勝つ合理的な研究を一生追求し続けた点で、師の嘉納治五郎と共通するところが大でした。その研究と鍛練とにより隅落(空気投)・大車・踵返・諸手刈・三角固・球車などの妙技を創出したことでも知られます。1945(昭和20)年には講道館柔道十段。
本校柔道部の歴史を綴った貴重な資料である松本信彦(1918年 第12回卒 1920年より本校教諭)の「我が校の柔道部史」(『校友會雜誌』第十三号)に三船師範による指導のことが記されています。

暑中稽古も終つて涼しい風の立つた十月(1921年)、斯界の第一人者三船先生を我が校に聘し、柔道の大講演を二時間にも渡つてとかれ且つ実地練習、業の変化等を習ひ、終わつたのは五時頃でした、日本一の大先生の事ですが、この大熱心と論理の徹底、技の妙とに職員始め生徒は実に驚き入つたのでした、この刺激によつて吾々生徒全部は柔道の偉大なしかも神秘的な事を知り教員室の先生方で稽古しようと云ふ方もありました、部員は柔道の真価を悟り、稽古に対し趣味と豊富と自信が出て参りました。...(中略)...十二年一月から七段三船先生を我が師範として御招きする事が出来ました、先づ中学校校に於て、三船先生の如き大家を師範として戴く学校は東京以外他府県には絶対にないのであります、先生は来られる度毎に暗くなる迄熱心に稽古をされる事は我が校の誇りとする所であります、この寒稽古は九十五名程ありまして、前年よりも約三十名の多数の皆勤者がありました。

高野佐三郎(1862~1950)は明治から昭和時代にかけての剣道家・剣道教育家で、剣道の指導者養成にも大きな足跡を残しました。大日本帝国剣道形制定の主査委員を務め、剣道形の普及と近代剣道の完成に力を注ぎ、近代剣道界に多大な貢献をなし、昭和の剣聖ともいわれた人です。
剣道部史のようなまとまった記録がないので高野佐三郎が指導を始めた時期は判然とはしませんが、『校友會誌』の年表記録には、1926(大正15)年6月24日に「高野佐三郎講演」という記録があり、三船師範と同じころから逗子開成中学校で指導にあたったことが推察されます。
柔道・剣道における当時の日本を代表する二人が並んで写った本校所蔵の写真は、非常に貴重なものです。
この時期の十数年間、柔道はほとんど毎年全国中等学校の覇権を握り、開成の柔道は全勝横綱の貫禄を示しました。剣道も甲信越及び全国対抗に参加し優勝旗をもって帰って来たこと数回に及ぶほどの強剛ぶりでした。

20170120 三船久蔵と高野佐三郎 .jpg
  右:三船久蔵  左:高野佐三郎

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