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校史余滴 第十三回 「第一回卒業式」

2017/03/24

校史余滴
 第13回 第一回卒業式

 逗子開成高等学校の卒業式は毎年3月1日に行われます。桜には早く、寒い日もありますが、かすかに春の気配が感じられる時期です。
今回は、記念すべき本校(旧制逗子開成中学校)の第一回卒業式を紹介します。
第一回卒業式が行われたのは設立から4年後の1907(明治40)年3月28日でした。前年12月に初代校長田邊新之助先生が辞任し、校長は、理科大学を卒業後、東京開成中学校で教えており、本校創設者の一人で、設立後は数学を教えていた太田澄三郎に代わっていました。校舎も増築され、徴兵令による認可(文部省による徴兵猶予の恩典)も受けました。卒業生は29名で正装の教職員とともに撮影された記念写真が残っています。
 交叉する日章旗を背景に、総員45名の男性が写っています。28名の学生服姿の若者は筒状に丸めた卒業証書を手にし、教職員である年輩の男性17名は正装です。
 卒業生には、自由民権家で松山英学校(後の松山中学校)を創設し、初代校長となった草間時福(1853~1932 後に官吏に転ず)の長男時光がいました。草間時光(1887~1959)は1916(大正5)年京都大学法学部政治学科を卒業後、民間での勤務を経て東京市に入り、京橋・日本橋区長を歴任。戦後、1951(昭和26)年には、日本社会党・日本共産党などの推薦を受け、鎌倉市長選に立候補し、初の革新市長に当選しました。任期は一期で1955(昭和30)年に退陣。父時福が水原秋桜子に師事した俳人だった影響もあり、時光も俳句をよくし、時光の子時彦(1920~2003)も俳人として著名です。軽部三郎は横浜保土ヶ谷本陣軽部家の人。慶應義塾理財科を卒業し、横浜市会議員をつとめました。歴史に非常に興味を持たれて、軽部家や地域のことも研究し、大正末の『横浜市史稿』や昭和に入ってからの『保土ヶ谷区郷土史』編纂にその成果が取り入れられているそうです。
 また、卒業生の中には武濬源・林涵という二名の清国からの留学生がいたことが注目されます。二人は共に天津私立第一中学校を卒業後、日本に留学し、第二開成中学校に入学しました。西洋列強の侵略により困難な状況にあった清国では、中国の伝統的な文化の基礎の上に立って西洋の学問技術を導入すべきことが唱えられましたが、武・林両君も西洋の学問技術を習得する近道として、日本に留学したのです。在学中の記録がないのは残念ですが、卒業後は共に東京高等工業学校(現東京工業大学)に入学しました。また、創立40年を記念して1943(昭和18)年に作成された校友会会員名簿の武濬源の職業欄には「天津直隷高工長」と記載されています(林君の欄は記載なし)。東京高等工業学校卒業後には帰国し、革命後の中国のために働いたのでしょう。日本との長期にわたる戦争をどう感じていたのでしょうか。

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  第一回卒業式(1907年3月28日)

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