ニュース

校史余滴 第四回 綽名で結ばれた教師と生徒

2016/06/17

校史余滴 第4回 綽名(あだな)で結ばれた教師と生徒

 学園にとって最も大切なのは人と人(教師と生徒、教師どうし、生徒どうし)の繋がりです。中でも、優れた教師は学園に命を与えるものであり、逗子開成中学校の多くの卒業生に「立派な先生に教えを受けて感謝している」という回顧談が多いのは、嬉しい限りです。石井勇蔵先生(教頭)の「母校五十年」(『創立五十周年記念誌』所収)などを手掛かりに、生徒から親しみを籠めて綽名で呼ばれた先生のことを紹介します。

1.「大学」
 大学目薬の広告そっくりで「大学」と呼ばれ、生徒も父兄も多くが本名を知らなかったそうです。学校に来たある父兄に「御高名な大学先生はあなたでいらっしゃいますか」と言われ、本人が苦り切っていたことがあったそうです。東京開成中学校から来た生徒監兼体操の三村永一先生。帽子に金筋を巻いて馬に乗る堂々たる姿だったとか。

2.「ベヤア公」「ガンボーヂー」
 図画の教師で、口をきくのも損だといった風な無精者。どうみても「熊bear」という感じだったようです。別の綽名は「ガンボーヂー」。この先生はガンボージ(gamboge黄)とインディゴ(indigo)が大好きで、「もっとガンボーヂーを使って」が口癖。生徒の絵具を筆につけて生徒の絵を直したついでに自分の絵も描いてしまうという実に合理的な方法を駆使したそうです。用器画・投影画を黒板に書かせたら天下一品で、定規・分廻を使わないで、線と円の構成を描き上げてしまう見事なものだったとか。
 今となっては「ガンボーヂ」先生の姓名は不詳。

3「メタコウ」
「メタ」とは何か、「コウ」とは「センコウ」の「公」なのか。生徒たちがこの意味を身をもって知るのは歴史の成績が付けられてからでした。メタコウは無数の「乙」を驟雨の如くばら撒いたのです。当時の成績は甲乙丙の評価でしたが、メタコウが甲を付けるのは稀。そう「滅多甲」なのでした。大正7(1918)年から16年間、歴史を教え、『帝国史眼』(1926)という一般書も残している満木峯丸。本校に着任したのが53歳。袴の裾を踝よりも高く着用し、髪の方は大分さみしかったといいます。生徒にとっては「メタオツ」でなかったのは幸いでした。

4.「バケさん」
 最初の授業では必ず化け猫の怪談をしました。ぼさぼさの髪、不精髭、色褪せた羊羹色の紋付で、巧みな話しぶりが生徒を魅了した英語教師衣川嘉雄。第一高等学校、東京帝国大学法学部を卒業。官僚への道を勧める周囲の助言を無視し、恃むところがあったのでしょう、英語教員となりました。類稀な明断な頭脳、権威をものともしない豪毅さ、度量の大きさ、燃えるような情熱は周囲から讃嘆されたそうです。生徒からは「バケさん」と慕われました。軍靴の足音迫る時代、ユニークな英語の授業をしたと聞きます。戦局が悪化した昭和18(1943)年、先生は突然志願し、通訳官としてマニラに発ち、終戦直前の6月5日に戦死。40年の短い一生でした。昭和27(1952)年、教え子たちにより衣川先生の墓碑が逗子沼間の法勝寺の一角に建てられました。

 今日、生徒の間では密かに先生を綽名で呼んでいるのかもしれませんが、表立って、面と向かって先生を綽名で呼ぶのをあまり聞きません。何か淋しい気もしますがどうでしょう。

衣川嘉雄先生掲載.jpg
             「衣川嘉雄先生」

カテゴリー :
校史余滴

カテゴリ

最新の記事

アーカイブ

ページトップへ戻る