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校史余滴 第九回 橋健三先生

2017/01/08

校史余滴
 第9回 橋健三先生

「第二開成中学校創業費並特別経費」(田辺文書所収 鎌倉女学院所蔵)には明治36年2~3月、東京開成の首脳陣が足繁く逗子・鎌倉に通い、第二開成設立の準備に追われていたことが示されています。主要メンバーは東京開成の共同校主だった先生方で、第二開成の初代校長となる田邊新之助、第二開成教員となり、後に平塚育英学校を開いた太田澄三郎、そして、橋健三らでした。
橋健三は1885(明治18)年より東京開成で漢文・倫理を教え、第二開成が分離独立後、東京開成の第5代校長となり、1928(昭和3)年までの長きにわたって校長を務めました。今回は橋健三について紹介します。
 橋健三は万延2(1861)年、加賀藩士瀬川朝治の二男として加賀国金沢に生まれました。幼少より加賀藩学問所壮猶館教授の橋健堂に学び、12歳の時には学才を見込まれて健堂の三女コウの婿養子となって橋健三と名乗りました。その後、健堂の漢学塾「集学所」を受け継ぎ、教授となります。14、5歳にして、養父の橋健堂に代わって前田土佐守家前田直行(1866~1943)に講ずるほどの秀才だったといいます。
 1884(明治17)年、コウとの間に、長男の健行が誕生しますが、廃藩置県により覚束なくなっていた「集学所」をたたみ、妻子と共に上京、小石川に学塾を開きました。共立学校(開成中学校)に招かれて漢文・倫理を講ずるようになったのは1888(明治21)年のことでした。共立学校の設立者佐野鼎と橋健堂は加賀藩学問所壮猶館で深い親交があったからでしょう。妻の死に伴い、1890(明治23)年には、健堂の五女トミ(つまりコウの妹)を後妻とし、雪子・正男・健雄・行蔵・倭文重・重子の三男三女を儲けることになります。
 1894(明治27)年には開成中学校の共同設立者に加わり、第二開成中学校設立に奔走したことは既に述べたとおりです。東京開成中学校校長としては、学校の移転拡張を図るため、学園組織を財団法人とし、理事長に就任したこと、日暮里への移転を果たしたことが特筆すべきことです。三校主(橋健三、石田羊一郎、太田澄三郎)が学校の動産及び不動産の全部を寄付し財団法人の財産とすることが定められました。「この三校主の勇気決断は、この学校の出身者の特に肝に銘記しなければならないことである」と東京開成の学園史に記されています。
 1928(昭和3)年、校長辞職後は、夜間中学開成予備学校(昌平中学)の校長として、勤労青少年の教育に尽くしていましたが、太平洋戦争中の1944(昭和19)年、その職を四男行蔵に譲り、故郷の金沢に帰り、同年12月5日に亡くなりました。84歳でした。
 雪の如き白色の長髯と炯々たる眼光は教育界の名物で、祝祭日の儀式で賀表を朗読する最後に、名前を「けんそう」と濁らないで発音するのが生徒間の話題だったそうです。
 ところで、次女「倭文重(しずえ)」は1924(大正13)年に農商務省事務官(東京開成中学校、第一高等学校、東京帝国大学法学部卒)の「平岡梓」と結婚し、翌年長男「公威(きみたけ)」を生みます。公威は長じて小説を書き、作家「三島由紀夫」となります。橋健三は三島由紀夫の外祖父に当たるのです。
 昨年末、休みを利用して私は橋健三墓の掃苔に赴きました。金沢市中心部から南約4キロのところに野田山墓地があります。標高約180mの野田山山頂から山腹に広がる総面積43万㎡(東京ドームの約10倍)の広大な墓地です。山頂近く、前田家墓所の西の「平成墓地乙」墓域に橋家の墓があります。中央に橋一巴(健三の祖父、健堂の父)の墓、向かって左に健三の、その右に小さな橋健秀(不詳)、一番右に橋健行の計四基の墓があります。(橋健堂の墓はありません。) 健三の墓は正面に「橋健三墓」、右側面に「健住院釋清和 昭和十九年十二月五日没 八十四才」、左には「昭和廿七年十月十日建之 正雄 健雄 行蔵」と刻まれていました。


20170111 橋健三墓改.jpg
   橋家の墓(金沢野田山墓地)
   一番左が橋健三墓

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