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シネマ倶楽部 『マダム・イン・ニューヨーク』鑑賞文

2019/07/08

6月13日(木)に中学3年生が徳間記念ホールにて『マダム・イン・ニューヨーク』を鑑賞しました。何人かの生徒の鑑賞文を紹介します。

<物語概要>

シャシは、2人の子供と夫のために尽くす、ごく普通の主婦。彼女の悩みは、家族の中で自分だけ英語ができないこと。夫や子供たちにからかわれるたびに、傷ついていた。姪の結婚式の手伝いで1人NYへ旅立つも、英語ができず打ちひしがれてしまう。そんな彼女の目に飛び込んできたのは「4週間で英語が話せる」という英会話学校の広告。仲間とともに英語を学んでいくうちに、夫に頼るだけの主婦から、ひとりの人間としての自信を取り戻していく。しかし学校に行っている間に幼い息子がケガを負い、彼女は母親としての自覚や責任感に欠けていた自分を責め、卒業を目前に学校へ通うことを諦めてしまう。それでも学校の仲間たちは彼女とともに卒業しようと協力をするのだが、卒業試験の日が、姪の結婚式と重なり・・・ 。

マダム・インニューヨーク01.jpg

【注意】鑑賞文は時に映画の重要な内容や結末に触れる場合がありますので、お気を付け下さい。

J3B組 Oくん

僕はこの映画「マダム・イン・ニューヨーク」を観て、人は仲間がいるからこそ成長できるということを学んだ。

映画の初めの方でシャシがまだインドにいた時は家族とはなれてニューヨークへ旅立っただけでもさびしがり、泣いていたのにもかかわらず、最後の方にはニューヨークシティのカフェで完ぺきな注文をすることができるようになったのは英会話教室の仲間のおかげであり、彼女がバスの広告を見つけられず、教室にたどりつけず、一緒に英語を学んでくれる生徒がいなければたった四週間の間で結婚式でスピーチができるほどの英語力をつける事ができなかったであろう。

この映画を観ている途中、僕は自分がアメリカに引っ越し、現地校へ行きはじめた時の事を想い出した。小学四年生の頃、学校初日の日、勇気を出して人生初のアメリカ人しかいない教室に入った事をはっきり覚えている。その日から約三、四ヶ月自分は教室で何が起こっているのかすらも分からなかった。しかし自分は孤独感を感じることはあんまりなく、半年もしたら自分のクラスに溶けこむことができていたと思う。このようなことを実現できたのはあの英会話教室にいたような、親切でとてもフレンドリーに自分を受け入れてくれた仲間がいたからだと思う。人は成長する上でこのような仲間や友達は必要であり、孤独なままでは心を開き成長するのはとても難しいと自分は感じた。

僕はこの映画を観て仲間の大切さについて学んだが、将来大学や会社でもこのような仲間を作りたいと思った。

J3C組 Wくん

この作品の中でとても印象に残った言葉が一つあります。それは、『人生は長い旅』という言葉です。なぜならばこれはこの作品の主題に深く関わっていると思ったからです。ここからは少し自分の主張がまざりますが、物語同様人生には『起承転結』があり、この作品はシャシの人生における『転』を切り取ったものだと考えられます。もっと細かく言うのならば『転』の『起承転結』。つまり彼女の人生がいかに復活し、変わったのかを伝えるものであり、映画のキャッチコピーを借りて言うならば『人生を変えるためのスパイス』についての作品でした。

しかしこの作品で注目すべき点は内容だけでなく、演出にもあります。まずインド系作品特有のダンス要素はもちろんのことですが、もっともさえていた演出は物語の始まり方です。彼女が生まれる瞬間ではなく、かといって夫と出会う場面でもない、ごく普通の朝という始まり。なにがすごかったかというとそれだけで人生の途中ということが伝わってくるだけでなく主人公が自分達と近しいこと。つまりは映画を見終えた時『あなたにも起こるかもしれないこと』と実感させられるからです。そしてこれは始まりが最も目立っているというだけであり、作品の終わりがたったの一言であることです。そしてこのセリフが日常の中にでてくるかもしれない言葉、つまり先ほどと同じことを伝えると共に自分で伝えられるようになった、自分を再発見できたという彼女の成長をさりげなく描写し名言を出すわけでもなくあっさりと終わる。これも普通の人生であること、このあとも彼女の人生は続いていくことを示していて驚かされました。

この作品を通し、僕は多くのことを学ばされました。ここには書き切れないほどのものを。この作品に出会えたということに感謝します。

J3E組 Mくん

私は「マダム・イン・ニューヨーク」を見て、人間関係のあり方について考えさせられた。人間関係は人が生きていく以上必要で有り、それを避けるには山に小屋を立てて窓にカーテンを引き、世と隔絶しなければならない。しかしそうしていても得るものは何も無い上、生きていく意義さえ見失ってしまう。シャシでいう所の、ラドゥを作る技術さえ知られていない状況だ。「君はラドゥを作る為に生まれて来た人だ。」と夫に言われるシャシが、それすら人に認知されずに生きていくのはつらいだろう。人間関係を拒絶した当初は安心を覚えるかもしれないが、やがてはその事に気付き悲しくなる。人はやはり、人間関係なしには生きていけない生物なのだ。

では人間関係はどのようにあるべきなのだろうか。例えば、シャシの娘はシャシを傷つけてしまったが、何がいけなかったのだろう。シャシは敬意を払うことが必要といった。これは何に対する敬意だろうか。やはり、長年人生を歩んで来たことへの敬意ではないのか。家族に限らず、先輩や上司、見知らぬ老人への敬意もそういうことではないだろうか。それも自分を育ててくれたとしたらなおさらである。プライドの高いシャシの娘はそれを忘れ、但英語が話せない、学力のない母親が恥ずかしいと思い、母親の長年の人生、自分を育ててくれた努力に対する敬意を表さなかったのだ。もちろんシャシの娘はまだ小学生であるから、過ちを咎めることはできない。但、自分を変えて家族に認めてもらおうと努力したシャシの存在に感謝すべきだ。おかげで娘も自分の過ちに最後に気付いたようだ。娘はそこで成長できたのだ。シャシは「自分を愛することを知れば、古い生活も新鮮に見えてくる」といったが、果たして成長した娘はどの様に見えたのだろうか。

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