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映画『標的の村』鑑賞文ご紹介

2015/01/26

中3高1の生徒が、映画『標的の村』を鑑賞しました。この映画は沖縄にある米軍基地への、オスプレイ配備やヘリパッド建設に反対する東村・高江の住民たちの姿を追ったドキュメンタリーです。生徒たちは新聞テレビで知っているはずの問題を、新たな視点で見直すことができたようです。

【注意】鑑賞文は時に映画の重要な内容や結末に触れる場合がありますので、お気を付け下さい。

標的の村.jpg

高1 M君
 スクリーンに映し出されていたのは、圧倒的なリアルだった。これまでの映画鑑賞で観てきた映画とは一線を画す、ドキュメンタリー形式であるが故の、いっそ暴力的ともいえるリアル。スクリーンから片時も目が離せなかった。登場するのは架空の人物や出来事ではない。現実に起こったこと、現実に生きている人々、その中に演技は一切含まれていない。紛れもない「沖縄の現実」が、私たちの視覚と聴覚に訴えかけてきた。
 オスプレイの配備や、普天間基地の移転等、沖縄の米軍基地に関する問題は知識として知っていた人も多いだろう。私自身もニュースの報道等で度々目にし、状況はある程度把握しているつもりでいた。しかし、現実はそう生易しいものではなかった。想像してみてほしい。自分が住んでいる町が、「軍隊」に囲まれるのだ。彼らは訓練と称して町の上空を飛び回るのだ。オスプレイという名前の「兵器」に乗って。しかもあろうことか、彼らはあなたの住んでいる町を、自分たちの「標的」だと想定して訓練しているのだ。そんな状況に耐えられるだろうか。
 沖縄の人々は抵抗していた。実際にメディアで報道されたのは氷山の一角に過ぎなかったのだと痛感した。と、同時にショックを受けた。そこにあったのは、同じ沖縄県民同士、同じ日本人同士の争いだった。私たちが作り上げた日本政府の暴力に懸命に抵抗する、私たちと同じ日本国民の姿だった。そこに武器は無かった。けれども間違いなく、それは「戦争」だった。日本という国で起こった「内戦」だった。
 これを間接民主主義制の多数決主義による、ただの少数派の排除だと考えていいのだろうか。私たちは沖縄の現実を殆どなにも知らされないまま、ただ政府の決定を受け入れるだけだった。沖縄県民以外の日本国民全員が沖縄の状況を知っていたとしても、事態は同じように進行しただろうか。今の日本の政治は、政界の上層部の一部の人々によっていいように動かされている節がある。集団的自衛権の一件にせよ、消費税増税の一件にせよ、これからの日本の政治の在り方について、今一度考えなおす必要があるのかもしれない。

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