松坡文庫研究会
【松坡文庫研究会の活動】松坡先生と関東大震災
本年は関東大震災から101年目の年にあたります。本校では、地震・津波・火災等を想定した避難訓練を毎年秋に実施しており、本年は10月末に予定しております。このたび、「地震」に絡めて、松坡文庫研究会代表の袴田潤一先生から玉稿を賜りました。「災害」を強く意識する機会が多い本年。「防災の日」にあわせて執筆された本記事を通じて、改めて震災への心構えを深めていただければ幸いです。
【松坡文庫研究会の活動】 松坡先生と関東大震災
関東大震災から101年目の2024年は能登半島地震で明け、8月には日向灘を震源とする大きな地震が起き、それに対応する形で南海トラフ地震臨時情報が出されました。その後、大きな地震は起きていませんが、地震への備えは必要です。「天災は忘れた頃にやってくる」というよく知られた警句もあります。
関東大震災で被災した松坡先生は震災後、その体験を漢詩に詠み、震災を記憶に留めるための連作絵画や図巻に序文を捧げています。防災の日に当たり、松坡先生と関東大震災の関わりについて考えてみたいと思います。
震災直後に詠まれ、同年11月の『文字禅』という雑誌に発表された「地震行」という七言四十八句の長大な詩があります(「行」は「うた」の意)。「秋暑如燬日將午。輷然有響徹肺腑。直把大地供掀翻。碎山河兮覆屋宇。瀾濤驚走崩地維。巖石亂飛折天柱。(秋暑燬の如く、日将に午ならんとす。輷然、響き有りて肺腑に徹し、直ちに大地を把り、掀翻を供にす。山河砕け、屋宇を覆い、瀾濤驚走し、地維崩れ、巖石乱飛し天柱を折る。)」 秋にも拘わらず焼けるがごとく暑い日の正午前、轟然たる響きが肺腑を貫き、直ちに大地が上がり翻った。山河は砕けて屋宇を覆い、瀾濤が驚走し、大地を支える綱が崩れ、巖石は乱飛して、天を支える柱が折れたかのようであった。激しい地震の様子が表現されています。助けを求める人々の叫び声、倒壊した家屋と圧死した人、至るところで上がる火の手の描写が続き、「人間惨事何有此 人間の惨事、何ぞ此れに有らんや」とあります。しかし、第15句まで読み進むと「吾家數口幸無恙 吾が家の数口、幸いに恙無し」の句にほっとします。そして詩は更に朝鮮人に関する流言蜚語、街衢の混乱、交通の途絶を詠じ、「漫道科學凌天然 漫りに道(い)う、科学は天然を凌ぐと」との警句も見られます。そうした凄絶なさまが336字で詠じられています。
被災時の松坡先生の住まいは「神奈川縣鎌倉郡鎌倉町亂橋材木座飛地字中道一四六三番地」。位置の詳細は確認出来ませんが、横須賀線の線路と県道鎌倉葉山線の間、大町2丁目の旧車大路附近に中道橋があり、その辺りだと推察されます。津波の被害は免れたようです。無事だった「數口」は松坡先生夫妻、長女三千の遺児泰二、次女秀とその娘の武子、三男定だと思われます。長男の元と二男の至は文部省在外研究員として、それぞれドイツとフランスに留学中でした。別の詩に拠れば、家屋の被害はあったようですが、家族が無事だったのは幸いでした。
翌年、大正13(1924)年、松坡先生は松方正義の死を悼む七言四十八句の長詩(「奉輓海東松方公」鎌倉女学院所蔵の詩稿)の一部でも震災の日の出来事を詠じています。由比ガ浜の別荘「鶴陽荘」で被災した松方正義とのエピソードです。
憶昨鎌山地震日 憶う昨 鎌山 地震の日
倉皇往訪神惴懷 倉皇として往きて 神惴の懐を訪ぬ
覿面先喜兩無恙 覿面 先ず喜ぶは 両(ふたり)恙無し
排墻同是偶然免 墻を排し 同に是れ 偶然に免る
此時玉露恩霑深 此の時 玉露の恩 霑いて深し
西瓜療渇甜於蜜 西瓜 渇を療し 蜜よりも甜し
※神惴…心に抱く恐れ、不安
覿面…面と向かうこと、目のあたりに見ること
「排墻」「西瓜」の句については自注に「地震日余訪公於鶴陽荘、屋宇倒壊公為家隷抉出臥在後庭相見驚喜乃分賜西瓜(地震の日、余、公を鶴陽荘に訪う。屋宇倒壊し、公は為に家隷抉出し、臥して後庭に在り。相見て驚喜し、乃ち西瓜を分ち賜る)」とあります。地震の当日、松坡先生が海東公をその住まいに訪ねたところ、公は家の壁が倒壊したものの死傷を免れ、下僕によって救われ(松坡先生自身の家の壁も崩れたことが読み取れます)、お互いの無事を喜び、海東公から西瓜を分ち与えられて渇きを癒したことが判ります。地震の折の松方公に関する逸話は、亡くなったという誤報と併せてよく知られていますが、無事を確かめに駆け付けた松坡先生に西瓜を与えたという話は初めて知り、驚きました。松坡先生も松方公も嬉しかったに違いありません。松坡先生は西瓜で喉の渇きを癒したことを、生きて再会できたことをも含めて「玉露恩霑深」と感じたのではないでしょうか。
松坡先生と震災との関りは他にもあります。友人の藤原草丘が全長30メートルにも及ぶ「鎌倉大震災圖卷」(全六巻)を鎌倉国宝館に寄贈するに当り、松坡先生は序文を寄せています。更に大橋康邦が地震の直後に鎌倉市内の惨状を16点の水彩画に描き、昭和5(1930)年8月に「大正鎌倉大震災寫生画」として鎌倉国宝館に寄贈した折にも、「弁言」、即ち「序」を寄せています。これら二つの作品は昭和5(1930)年から同13(1938)年まで毎年鎌倉国宝館で開かれた「震災記念展」での重要な作品として位置づけられていたそうです。
これからも私たちは大きな自然災害に襲われることでしょう。大切なのは過去の災害を記憶に留め、防災・減災に活かすことです。松坡先生の詩作、藤原草丘や大橋康邦の創作活動もそうした努力だった筈です。防災の日に合わせて、自然災害、自らの生命について考えたいと思います。
※ 松坡先生と関東大震災との関りについては、次の記事もお読み下さい。
https://www.zushi-kaisei.ac.jp/news/3669/
「地震行」の冒頭部分