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校史余滴 第二十一回「ボート遭難事故の語られ方~「真白き富士」への不満~」

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校史余滴 第二十一回「ボート遭難事故の語られ方~「真白き富士」への不満~」

校史余滴 第二十一回「ボート遭難事故の語られ方~「真白き富士」への不満~」

本年2026年は、ボート遭難事故から116年目となります。ボート遭難事故は、明治43(1910)年1月23日に、本校生徒11名と逗子小学校生徒1名が、鎌倉七里ガ浜沖で遭難し、全員亡くなった出来事です。二週間後におこなわれた追悼法要では、鎌倉女学校の学生さんたちによって哀歌が歌われました。この後、同曲は「真白き富士の根」として、全国で知られることになります。

逗子開成生徒にとって忘れてはならない出来事です。本年も26日(月)に追悼集会が実施されます。毎年、生徒全員で黙とうをささげます。

校史編纂委員会では、この「ボート遭難事故」や「真白き富士の根」に関する資料収集を継続して行っています。116年前の出来事ですので、当時のことを新たに明らかにする資料や証言を見出すことは難しい状況です。しかしながら、「語られ方」に着目して各資料を見直してみることで、ボート遭難事故への新たな光の当て方を見出すことができそうです。その際にあぶり出さねばならないのは、小説や映画によって増幅されて語られてきたボート遭難事故のイメージや言説だと考えています。各時代の各個人が語ってきたボート遭難事故は、事実とイメージが混同されていることも多いのかもしれないと考えているのです。いま一度、言説がそれぞれに残された当時の価値観や時代観に立ち返り、ボート遭難事故の語られ方を丁寧に読み直す作業が求められています。

さて、そんな視点をふまえつつ、今回は、「真白き富士の根」への「不満」をタイトルにしている『佐賀新聞』掲載記事を新出資料として紹介したいと思います。なお、本資料は、松坡文庫研究会唐津調査の際に、佐賀県立図書館にて見出したものです。同研究会の活動があって紹介できますことを明記しておきます。

さっそく、もう一つのボート遭難事故を紹介する記事を見てみましょう。この新聞記事は、1910年から約半世紀の、1959年6月7日(日)に、「日曜随想」という欄に三根寿太氏が執筆した一文(部分、原文ママ)です。

 

「日本海の風雲急を告げる明治三十八年四月三十日、唐津中学(いまの唐津東高)の生徒九人が、校友会端艇部の「第二舞鶴号」にのりこんで、遠く唐津湾を横断、福岡県糸島郡の玄武岩の奇勝、芥屋の大門(ケヤのオウト)に遠漕し、帰途遭難した。九人中一人を残して、玄界灘のモクズと化した。これはおそらく、日本のボート遭難の最初の大事件だった。しかしバルチック艦隊来航というビッグニユースのかげにかくれて、さまで喧伝されずに終つた。(中略)

 明治四十一年の逗子開成中学のボート遭難は「真白き富士の嶺、緑の江の島」の歌となつて全国に広められた。そして、日本ボート史上最大の悲劇として祭りあげられている。しかし、これに先立つこと三年、玄界灘は私たちの先輩の八つの魂を呑んだのである。『真白き富士』に私たちが、なにがしかの不満を抱くのも、故なしとしない。(後略)」(『佐賀新聞』1959年6月7日)

 

【写真説明】鏡山より虹の松原、ボート遭難事故方向をのぞむ(2025年撮影)

 

【写真説明】タイトル「玄海の奇勝芥屋大戸の全景」(『唐津名勝絵葉書』佐賀県立図書館 絵葉書・写真データベースより) 福岡県糸島市にある日本最大の玄武岩洞で、国の天然記念物です。六角形や八角形の柱状節理が見所で、現在、遊覧船が運行され、高さ64m、奥行き90m、間口10mの洞窟を観ることができます。

 

三根寿太氏は、早稲田大学校友会発行の『會員名簿』(1928年)等によれば 「高等師範部國語漢文科及び國語漢文及歴史科」を大正8年度に卒業され、母校唐津中学校に戻り、国語・漢詩を担当されたようです。教えを受けた方々の自伝などでは、漢詩の手ほどきをうけたこととあわせて、「寿太やん」(小島健吉郎『遥かなり わが道』(1992))「じゅたさん」(楢崎直次郎氏「漢詩と私(所収『泉―次代への贈ものー〈佐賀編〉』(星文社1995)と愛称が紹介されています。また、『唐津市史』(1962)編集後記によれば、「近代、現代の政治の部」を担当されていたようです(惜しくも刊行前に亡くなり執筆者が変更されたことが記されています)。地域の歴史に造詣が深かったことをうかがえます。この「ボート遭難事故」についても資料を博捜されまとめられた第一人者でした。

 

この記事で取り上げられている明治38(1905)年の唐津中学校の遭難事故は、三根氏も同記事中で紹介されていますが、全国区で大きくは話題となっていません。一方で、五年後に起こった明治43(1910)年(*記事中の「明治41年」は誤り)の逗子開成中学校の遭難事故は全国紙各紙で紹介され、「真白き富士の根」は全国区で知られるようになります。

バルチック艦隊と日本帝国海軍の連合艦隊による日本海海戦は、1905年5月27日から28日にかけてのことです。唐津中学校の生徒たちの遭難事故が、戦時下の出来事であることは間違いありません。しかしながら、それを割り引いても、逗子開成のボート遭難事故との語られ方の違いは明らかです。唐津中学校関係者の立場を想像すれば、約半世紀後の、「不満」という表現も理解できます。

 

唐津中学校生徒のボート遭難事故について、別の資料を参考にして、もう少しみてみましょう。

 

明治41(1905)年4月30日朝、唐津中学校裏手海岸を端艇部生徒9名が、端艇部所有の舞鶴二号に乗り込み、遠漕にでました。「佐賀縣立唐津中學沿革史話」(*注)では、恒例のボートレース(当時は海上運動会と呼ばれる、地域をまきこむ一大イベントだったそうです)が日露戦争によって中止になってしまったゆえ、血気さかんな端艇部生徒が、芥屋の玄武洞(現在の福岡県糸島市)を目指したと紹介されています。帰途、遭難。1名が救助され、8名が溺死しました。当時の『佐賀新聞』には、しばらく遺体捜索が続いている状況や、教職員・生徒、近隣の村々の人々が必死に捜索活動をしていることが報道されています。これら捜索活動は、私たちの視点でみると、小坪村の漁船が動員され必死の捜索活動をおこなった逗子開成のボート遭難事故を想起させます。なお、全員の遺体が収容されたのは、5月19日だったとのことです。岩松要輔氏による「唐津中ボート遭難事件」(松浦史談会『末盧國 第一巻』742・743頁)の記事には「日露戦争の最中 近松寺で追悼法要 日本海では砲撃戦」との見出しが付されています。この法要は、日本海海戦と同じ5月27日でした。

【写真説明】タイトル「唐津舞鶴公園より虹の松原領巾振山を望む」(『唐津名勝絵葉書第一輯』佐賀県立図書館 絵葉書・写真データベースより)なお、タイトルにある「唐津舞鶴公園」は唐津城の跡地の公園のこと、同じく「領巾振山」は「ひれふりやま」と読み、「鏡山」のことです。

 

そして、岩松氏の論考では、当時の端艇部長の西村祐弁教諭の作による「遭難生徒を弔う」の歌を、唐津中学校の学生さんによって後々まで口ずさまれたこととあわせて紹介しています。

 

あゝ、わが校の八健児  卯月三十日の暁の空  舞鶴城頭磯の辺に  汝は船出を急ぎつゝ

あかぬ眺の鏡山  虹の松原後に見て  目指すは芥屋の玄武洞  汝が笹舟は進みけり

われ玄海の岸に立ち  仰ぎて星に尋ぬるも  北斗黙してまたゝかず  返らぬ浪に君待てど

友呼ぶ千鳥声もなく  応うるものは浪の音  磯馴松の梢吹く  風寂しくぞ身には沁む

 

今現在、逗子開成関係者でなくとも、ある一定の世代より上の方は「真白き富士の根」にはじまる哀歌の記憶を持っている方やメロディを口ずさめる方がまだいらっしゃいます。

ここまでの違いが生じている理由はどこにあるのでしょうか。今現在、その詳細に立ち入る準備はありませんが、はっきりしていることは、「真白き富士の根」の伝播過程が、メディア史や大衆文化史の中できわめて重要な位置をもつ事例であることです。すでに『逗子開成百年史』(2003)でも、柄谷行人や平岡正明の著作をもとに紹介していますが、様々な要素を比較の視点で分析することが求められています。今後も分析を続け、何らかの形で紹介したいと思います。

以上、逗子開成のボート遭難事故に先駆けて起こっていた「もう一つのボート遭難事故」について紹介してみました。最後に言及しなければならないことがあります。

それは、ボート遭難事故当時、校主として対応にあたった田辺新之助先生のことです。田辺先生は、1910年の事故の対応にあたった際、郷里唐津で5年前に起こっていた、この唐津中学校生徒によるボート遭難事故について把握していた可能性が高いのではないでしょうか。先生は、郷里で起こった出来事をどのように認識していたのでしょうか。また、帰郷の際、唐津の人々や唐津を支える旧友たちとこの二つの出来事をどのように語り合ったのでしょうか。そして、唐津や逗子・鎌倉から見渡す「海」を、どのような眼でながめていたのでしょうか。

当時の資料による裏付けを考慮にいれながら、想像の翼を広げて考え続けたいと思います。

 

【写真説明】明治44(1911)年刊行の『佐賀県写真帖』掲載の唐津中学校の写真です。「東松浦郡唐津町ニ在リ、明治三十二年ノ開校ニシテ敷地六千七百餘坪。校舎百六十餘坪、現在生徒數約五百人ナリ。」との説明文が附されています。端艇遭難事故で亡くなった八人の学生さんは、写真の校舎に通っていたはずです。

『佐賀県写真帖』,佐賀県,明44.11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/766631 (参照 2026-01-05)

 

注)原書を手にいれることができませんでした。佐賀県唐津市にある山内薬局HPにまとめられている「唐津関係郷土史資料集」中の「佐賀縣立唐津中學沿革史話」を利用させていただきました。https://tamatori.sakura.ne.jp/news/karatutyuugakusi1.html

☆本記事は神奈川県私立中学高等学校協会 2025年度研究指定校 研究委託「学校所蔵資料をきっかけとする探究活動の試み」研究成果の一部です。

 

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