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【松坡文庫研究会の活動】 幻の「春洞西川翁碑銘」

松坡文庫研究会

【松坡文庫研究会の活動】 幻の「春洞西川翁碑銘」

【松坡文庫研究会の活動】 幻の「春洞西川翁碑銘」

【松坡文庫研究会の活動】幻の「春洞西川翁碑銘」

(松坡文庫研究会代表 袴田潤一)

 

明治、大正にかけて活躍した書の大家に西川春洞という人物がいます。漢字の各体に優れ、その門に学ぶ者2,000人を数え、明治の漢字書道界で最も多くの門下を擁した日下部鳴鶴と双璧を成していたといわれます。

 

西川春洞(にしかわ しゅんどう、名は元譲 1847~1915)は代々医をもって唐津藩に仕えた家に生まれ、始め祖父の西川亀年に、のち中沢雪城の門で学びました。6歳のときには楷書千字文を書いたといいます。尊攘を唱え国事に尽くし、維新後は大蔵省に出仕しましたが、まもなく辞して書道に専念しました。

 

唐津藩出身であった春洞と松坡田辺新之助先生は親しい交友がありました。松坡先生が幹事を務めた旧唐津藩の育英団体久敬社での活動がきっかけになったことでしょうし、先生自身、日下部鳴鶴のもとで書を学んでいたということがあります。松坡先生は鳴鶴が主宰していた大同書会の機関誌『書勢』の漢詩欄の撰者を務めていました。

 

明治36(1903)年に出版された『中等習字帖』(全三冊)という本は「田邊新之助編 西川元譲」とあり、先生が選んだ語句を春洞が書いた習字のお手本帖で、中学校での書道の授業で使用されたものだと思われます。出版元は「田沼書店」とありますが、東京開成中学校や第二開成学校で用いられた私家版的なものだったのかもしれません。残念ながら現物を見るには至っていませんが、漢籍から選ばれた秀句が春洞による正楷で書かれているのでしょう。

 

ところで、『書勢』第5巻第4号(1921.4)に田辺松坡による「春洞西川翁碑銘」と題された文章が掲載されています。碑文の定型に従い、その人の経歴・為人・追悼詩・撰文の経緯が記されています。春洞の没年、碑陰の年紀「大正十年八月」から考え、春洞の七回忌を期して建碑が企てられ、松坡先生が撰文者として指名されたのでしょう。稿には、「頃者門人胥謀樹碑於目黒瀧泉寺。徴余文。余與翁有舊。誼不可辭。」 頃者(このごろ)門人胥謀(あいはかり)碑を目黒瀧泉寺に樹てんとし、余に文を徴す。余、翁と旧有り、誼しく辞すべからず、とあります。

 

しかし、目黒龍泉寺(目黒不動)に建つ高さ5m余、幅2m弱の「春洞西川先生碑」の碑陰には「門人武田白謹撰 豊道慶中謹書」と刻まれているのです。武田白、豊道慶中は「春洞門七福神」と称えられた七人の高弟のうち武田霞洞と豊道春海です。松坡先生の「春洞西川翁碑銘」はいったいどうなったのでしょうか。「ボツ」になったと考えるのが普通でしょうが、その経緯や理由については長年不明のままでした。

 

さて、最近、松坡先生の詩軸を手に入れました。共箱の蓋表に「田辺松坡詩書」と書かれ、中には軸だけでなく封筒に入った古い新聞の切り抜きが二枚収められていました。『日本経済新聞』で長く連載されている「私の履歴書」で、豊道春海が扱われている2回分でした。詩軸の旧蔵者が切り抜いて封入したものに違いありません。一読して吃驚。春洞西川先生碑建碑の経緯、田辺先生の撰文がボツになった事情について春海が詳しく語っているではありませんか。長くなりますが、昭和43(1968)年9月20日の記事から引きます。

次は撰文をどうするかであるが、ヘタな文章を書いて恩師の恥になってはいけないので、恩師と同じ肥前唐津小笠原藩出身の詩文の大家田辺松坡先生にお願いすることにし、鎌倉だったと思うが私が先生のお宅に伺って承諾を得た。ところが出来上がった撰文を拝見すると、文中に”春洞先生は下町書家であった″というような表現があった。当時春洞先生と並び称された書家の日下部鳴鶴翁は官についてその方の旗頭であり、春洞先生は在野の巨頭であった。その対比から田辺先生は下町書家と書かれたのであろう。われわれには単なる「町書家」であるような印象を与えた。後世に残る碑文にそのような感じを与える個所があってはならない。この点だけはどうしても直してもらおう――と衆議一決した。…(中略)…案の定、田辺先生は「わしにはわしの考えがある」といって、いくら嘆願しても頑として耳をかしてくれない。

結局、建碑は弟子が行うのが筋であり、撰文は武田霞洞が、書は豊道春海が行い、田辺先生が心血を注いで書いた文章は長く西川家に保存して貰うということで、田辺先生も納得したと続きます。

 

長年の疑問が氷解し、松坡先生の気性の一端を知ることも出来ました。それにしても新聞記事を切り抜いて詩軸の箱に入れたのは誰でしょうか。想像は膨らみます。

※ 参考までに「春洞西川翁碑銘」の冒頭部分を書き下しで紹介しておきます。

東京の地勢、古来分れて二つとなる。高部は山手と曰い、侯伯官人多く住む。低部は下町にして、即ち市街なり。風気亦た同じからず。寛政中、亀田鵬齋は磊落不羈、下町の儒者を以てし、官儒と拮抗す。下りて明治に逮(オヨ)び、官人の書を能くするは巖谷一六・日下部鳴鶴たり。之れと鼎立するに、春洞西川翁有り。下町の書家を以て自から居り、標持すること頗る高し。

「春洞西川翁碑銘」稿冒頭(部分)『書勢』第5巻第4号(1921.4)より転載(鎌倉市中央図書館蔵)

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