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【松坡文庫研究会の活動】 久敬社と田辺新之助先生

松坡文庫研究会

【松坡文庫研究会の活動】 久敬社と田辺新之助先生

【松坡文庫研究会の活動】 久敬社と田辺新之助先生

松坡文庫研究会の毎月一回の定例会も今月で83回目を数えました。また、先月開催された講演会は12回目を数えました。ともに継続することで、少しずつ研究成果を積み重ねています。あわせて、この間、田辺新之助先生を介してつながるご縁をいくつもいただいてまいりました。

このたび、「久敬社」とつながったことを紹介する文章を、研究会代表袴田先生より預かりました。久敬社とは?そのつながりとは?お時間あります時に、是非お読みください。

                  

【松坡文庫研究会の活動】 久敬社と田辺新之助先生

川崎市麻生区に久敬社塾という学生寮があります。現在は首都圏に学ぶ大学生・大学院生に広く門戸が開かれていますが、2009年まで入寮者は唐津出身者とその関係者に限られていました。淵源は明治11(1878)年に東京麴町区番町(現、千代田区)の旧唐津藩小笠原家当主小笠原長行の屋敷の一角に設けられた久敬社にまで遡り、今年(2026年)で創立148年になります。

創立当時の会員(社員)には、唐津の洋学校「耐恒寮」で高橋是清の薫陶を受け、是清の東帰の後に上京した掛下重次郎・大島小太郎・河村藤四郎・辰野金吾・曾禰達蔵・天野為之・吉原政道、麻生政包らがいました。彼らは毎月一回の会合を持ち、茶話会を開き、研学修養を積み、日本の近代化に大きく貢献する有為な人材として育っていったのです。

幼少年期を唐津で過ごした田辺新之助先生は、年齢が達せず耐恒寮には通うことができませんでしたが、高橋是清の謦咳には接し、一歳年上の天野為之はじめ、大島小太郎・辰野金吾・曾禰達蔵は先輩、河村藤四郎は恩師の一人でした。明治11(1878)年に上京し、東京大学予備門に入学した田辺新之助青年は直ちに久敬社の会合に参加したに違いありません。

明治16(1883)年、久敬社内に捜天吟社が誕生します。『佐賀県教育史 第二巻 資料編(二)』(佐賀県教育委員会 1990)の「久敬社沿革」には、「社中風雅を好むもの數名相謀り捜天吟社員を設けて毎月一回相會することゝなす。」と記されています。漢詩の会である捜天吟社で指導に当たったのが、田辺新之助の唐津での恩師で久敬社幹事を務めていた中沢見作(1822~1889 号は機堂)でした。参加したのは当時22歳で共立中学校教授の田辺新之助、大隈重信・小野梓らと東京専門学校の創設に加わり、講師を務めていた天野為之23歳、工部大学校助教授32歳の曾禰達蔵などでした。明治17(1884)年5月、田辺新之助は中沢見作によって向山黄村・杉浦梅潭らの晩翠吟社に参加するようになり、中沢見作から「松坡」の号を授けられます。なお、この時、天野為之には淞村、曾禰達蔵には鶴洲の号が与えられました。新之助青年の共立学校への就職を周旋したのが天野為之、曾禰達蔵と田辺新之助先生は生涯を通じて親しく交際しましたが10歳年長の達蔵は田辺新之助を「松坡先生」と呼んだそうです。
田辺新之助は明治19(1886)年には久敬社で主計という役職に就き、社の運営にも携わっています。

久敬社塾に「醵金原簿 明治十八年ヨリ 久敬社」という史料があります。毎年の寄附金額が記載されているもので、「社員 田辺新之助」による寄附についても記されています。史料に拠れば、田辺新之助の寄付金額は、

明治18(1885)年2月から同年5月まで毎月30銭     計1円20銭
明治19(1886)年1月から同年12月まで毎月30銭    計3円60銭
明治20(1887)年1月から同年12月まで毎月30銭    計3円60 銭
明治21(1888)年1月から同年12月まで毎月30銭      計3円60銭
明治22(1889)年1月から同年12月まで毎月40銭      計4円80銭
明治24(1891)年1月から同年7月まで毎月40銭      計2円80銭

とあります。明治23(1890)年の記録がないことと、明治24(1891)年7月で寄附が途絶えた理由は不明です。醵金原簿に記された義捐者には、中澤見作、辰野金吾、天野為之、曾禰達蔵、麻生政包、吉原政道らの名も見えます。月額30銭乃至40銭が現在の貨幣価値でどれほどになるのかは厄介な問題ですが、ざっと一万倍だと考えれば、3,000~4,000円、年額では3万数千円から4万円程になります。中学校教師の待遇は比較的よかったとしても20代半ばで家庭を持ち、二人の子(元と至)を抱えていたことを考えれば立派なことです。加えて、後年、田辺新之助は父幸左衛門(明治15 1882年死去)の遺産として相続した金禄公債証書(額面150円)の償還分(返済金)実額87円の全額も久敬社に寄附しています。田辺新之助先生は久敬社への感謝の思いを形として表したのだと思います。

『佐賀県教育史 第三巻 資料編(三)』(佐賀県教育委員会 1990)所載の「久敬社年譜(抄)」の大正11(1922)年の項には「田邊新之助氏の教育功勞表彰式を本社に擧げ、ステーションホテルに祝賀會を開く。(二月五日)」と記されています。久敬社側でも田辺新之助の久敬社への、そして教育界全体における大きな業績と努力を称えたのです。

松坡文庫研究会の昨年10月の第11回講演会、本年4月の第12回講演会に久敬社の理事を始め役員の方々が足を運んで下さいました。上で紹介した「醵金原簿」の史料の複写はその折にご提供いただいたものです。私たち研究会と久敬社塾との繋がりが生まれたことを白玉楼中に住まう田辺新之助先生は必ずや喜んでいるに違いありません。

 


「醵金原簿」より(久敬社塾所蔵)