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校史余滴 第二十三回「「鵬翼をどる相模灘」と内藤清五」
松坡文庫研究会会長の袴田先生から玉稿を預かりました。校歌にまつわる校史余滴をぜひお読みください。
校史余滴「鵬翼をどる相模灘」と内藤清五
逗子開成中学校の校歌が制定されたのは大正14(1925)年10月、101年前のことでした。作詞は当時の校長岡田三善の要請を受けた井上司朗。東京大学文学部国文科在学中ながら、大正13(1924)年から講師として本校で教鞭を執っていました。作曲は東京音楽学校教授で多くの名曲を残している弘田龍太郎。制定の経緯などは下記HPで紹介しています。
https://note.com/zk_koushi/n/n7e984bbb423b
校歌制定から19年後の昭和18(1943)年、創立40周年を機に新しい校歌が制定されました。作詞は校長鹿江三郎、作曲は海軍軍楽長内藤清五でした。これまで公にされた楽譜などでは作曲は「海軍軍楽隊」と記されています。歌詞には時勢を反映して「八紘為宇の御心を 膽に銘じて後の日に」、「すめらみくにに生をうく 吾等は常に忠孝の教へを忘ること勿れ」などの句が含まれていたことから、この校歌は太平洋戦争後に廃止され、元の校歌「天地分くる富士ヶ嶺の 裾にひろごる秋津島」が再び歌われるようになり、今日に至っています。
昭和18(1943)年の校歌を作曲した海軍軍楽長の内藤清五は明治22(1889)年、熊本県益城郡(現熊本市)に生まれ、明治39(1906)年に佐世保海兵団に入りました。以後、一貫して軍楽隊員を務め、軍楽長となったのは昭和12(1937)年7月のことでした。この間、軍務に加え、日比谷大音楽堂などでの国内演奏はもとより、七つの海を越えて各国で訪問演奏を行っています。音楽は作曲家・指揮者の瀬戸口藤吉(1868~1941)や海軍軍楽隊の吉本光蔵(1863~1907)、東京音楽学校に学びました。昭和4(1929)年から同20(1945)年まで、東京音楽学校嘱託として教務に就いています。
戦後は、東京都音楽団、東京都吹奏楽団、東京消防庁音楽隊の指揮者を歴任し、昭和37(1962)年を以て退職。最後は東京学芸大学の講師となり、昭和54(1979)年に亡くなるまでの一生を音楽に捧げました。
内藤清五については『海軍軍楽隊 日本洋楽史の原典』(楽水会編 国書刊行会 1984.5)に「軍楽長・内藤清五の業績」という一節が設けられており、詳細な年譜も付されています。また、古い音源から復刻されたレコード等で内藤清五が作った曲、指揮した演奏を聴くことができます。
ところで、昭和20(1945)年、坊ノ岬沖海戦で戦艦大和が爆枕し、第二艦隊が全滅した後、海軍内では軍楽隊の音楽会を開催しようという動きが起りました。杉田主馬書記官が海軍次官井上成美に申し出たのです。杉田は英国留学中、ケンブリッジ大学管弦楽団のメンバーでしたし、井上はピアノを始め多くの楽器演奏に優れ、音楽への造詣も深かったのです。演奏会で軍楽隊を指揮したのが内藤清五でした。阿川弘之の『井上成美』にはその時の様子が記されています。少し長くなりますが、引用します。
「そうだ、よし。みんな滅入ったような顔ばかりしているから、毎週曜日に此処の中庭で軍楽隊の演奏会をやってやろう」
三田に横須賀海軍軍楽隊の東京派遣所があった。
『曲目は君が楽長の内藤と相談して決めればいい。僕のために一つ、ウェーバーの舞踏への勧誘』を入れといてくれ。あんまり勇ましいものはやらせるな」
沖縄への特攻作戦が始まって以後彼は、大本営海軍部発表に附き物の軍艦行進曲をとりわけ嫌っていた。次官の発議による海軍省中庭の定期演奏会が実現し、若い士官連中にも中々好評だったけれど、内藤清五少佐指揮の海軍軍楽隊が演ずるのは、「舞踏への勧誘」、ヨハン・シュトラウスのワルツ、ラヴェルの「ボレロ」など、西欧のポピュラー・ミュージックが殆どであった。
(阿川弘之『井上成美』 新潮文庫版 p.495)
明治41(1908)年4月から毎年、1,2、3月を除く毎月の第2、4の土曜日或いは日曜日に、日比谷大音楽堂で東京市主催の定期演奏会が行われ、内藤清五は演奏者・指揮者としてしばしばステージに立ってきました。昭和37(1962)年4月14日、日比谷大音楽堂で内藤清五の東京消防庁音楽隊長退任を送る演奏会が開催され、12,000人の聴衆を前に各音楽団が演奏を披露しました。最後は内藤清五自身の指揮で内藤の師である瀬戸口藤吉作曲による「軍艦行進曲」が演奏され、内藤清五の挨拶はただ一言、「私の音楽を長いこと聞いていただいたことを心から感謝します。」だったそうです。
