松坡文庫研究会
【松坡文庫研究会の活動】唐津に響く「真白き富士の根」 田辺新之助先生を顕彰
ボート遭難で有名な「真白き富士の根」が唐津に響く?なぜ唐津に?
松坡文庫研究会の袴田先生より興味深い原稿を預かりました。お時間あります時にぜひお読みください。
幕末から明治初期にかけての難局を乗り切った唐津藩では、文武算三学所を設置し、新設の洋学校「耐恒寮」には高橋是清を招きました。教育の充実により人材を育成し、近代化に臨もうとしたのです。
時移り、昭和の初め、唐津において近代化に貢献した多くの人々を「先覚者」として顕彰しようという動きが起こります。東松浦郡教育会主宰による第一回先覚者顕彰祭が行われたのが昭和7(1932)年、昭和15年には唐津神社神苑広場に先覚者顕彰碑が建設され(書は小笠原長生 現在は唐津城跡南側の駐車場に移設されています)、以来年を追って顕彰祭は継続されてきました。
昭和50(1975)年10月20日、唐津市文化会館で郷土先覚者顕彰会が開催され、9人の先覚者が追頌されました。松浦史談会の郷土史誌『末盧國』第53号(1975.11.20)に詳細が記されています。
顕彰会は旧藩主小笠原家祖霊祭を兼ね、各界から百余人の参列者を迎えました。同年の先覚者追頌は9名で、昭和7(1932)年以来167名となりました。式典では先覚者之霊位に対し、在世中における先党者の人徳と功績とを称える祭主瀬戸尚唐津市長の顕彰の辞に始まり、参列者代表の献花のあと、進藤坦平による記念講演(奥東江先生の「奥流の学」について)が行われました。
この年、郷土先覚者第160人目として追頌されたのが田辺新之助先生でした。先生の業績については『末盧國』第54号(1976.3.1)に次のように紹介されています。
田辺新之助(教育家)文久二年~昭和十九年82
小笠原侯江戸藩邸で誕生。六歳の頃両親と共に庸津に移住。先進的な藩風に育くまれ、激動する明
治期の時勢に誘発され明治十一年上京、大学予備門に学ぶ。漢詩人として名をなしたが、明治三十
年東京開成中学校校長、逗子に第二開成中学校を、また鎌倉女学院を次次に設立して校長に就任経
営するなど生涯を教育一途に打ちこんだ。(田辺穣=鎌倉)
執筆したのは新之助先生の二男田辺至(洋画家1886~1968)の長男で、新之助先生のお孫さんに当たる田辺穣(洋画家 1916~1983)。教育者としての業績の前に「漢詩人として名をなした」と書かれているのはまことに正しいことだと思います。文中、「先進的な藩風」は洋学校耐恒寮の創設などをいい、「激動する明治期の時勢に誘発された」ということでは、福沢諭吉の『学問ノスゝメ』などが思い浮かびます。田辺新之助青年は明治11(1878)年9月、17歳で東京大学予備門に入学しました。
昭和50(1975)年10月の顕彰祭の様子は更に次のように記されています。
最後、松下又彦氏指揮による城内婦人合唱団が「小笠原記念館を讃える歌」と「真白き富士の嶺(ママ)」を献唱。厳粛な祭典に興趣を添えた。「真白き富士の嶺」は、逗子開成中学校創立者田辺新之助先生の霊位に手向けられたものである。
ボート遭難事故から65年後、遠く唐津の地に遭難者への追悼の歌の響きが田辺新之助先生の業績を称える意味をこめて流れたのです。「地下有知(地下に知有らば)」、寿福寺に眠る新之助先生に知(知覚)があれば、その歌声をどんな思いで聴いたのでしょうか。

「唐津神社神苑広場の先覚者顕彰碑(右) 左は高取伊好彰徳碑」
『唐津市史』(唐津市 1962)より転載

「現在の先覚者顕彰碑」
写真提供は村松洋介氏