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【松坡文庫研究会の活動】海軍少将従四位勲二等功三級小田喜代蔵墓(東京白金台・清岸寺)

松坡文庫研究会

【松坡文庫研究会の活動】海軍少将従四位勲二等功三級小田喜代蔵墓(東京白金台・清岸寺)

【松坡文庫研究会の活動】海軍少将従四位勲二等功三級小田喜代蔵墓(東京白金台・清岸寺)

10/12(日)開催の、松坡文庫研究会第11回講演会は、本校保護者を含む、熱心な参加者を得て盛況のうちに終えることが出来ました。その直後、会長の袴田先生より新たな調査報告をまとめた玉稿を預かりました。立て続けに新たな歴史的事実を掘り起こしていく袴田先生、同研究会に頭が下がります。今回は、「機雷の「小田式自働繋維器」考案者」として有名な方が取り上げられています。お時間あります時にご覧ください。

                   

鎌倉市中央図書館近代史資料室に保管されている松坡先生の原稿類の中に、400字詰原稿用紙一枚に「海軍少将小田君碑陰銘」の題で記された原稿があります。345字に書かれた内容から、唐津の算術家小田周助の三男で機雷の「小田式自働繋維器」考案者として名高い小田喜代蔵の墓銘の原稿だということが判ります。松坡先生が撰した他の墓銘には埋葬地(寺院)が記されていることが多いのですが、この墓銘稿にはそれもありません。小田喜代蔵の墓所は長く不明のままでした。

去る7月末の「小田先生碑銘」(唐津弓鷹町浄泰寺)の調査以来、小田周助について調べていたのですが、松浦史談会(唐津)が発行している郷土史誌『末盧国』第123号(1995.9.30)所載の小田周助についての論考に「東京都品川区上大崎の清岸寺にある小田喜代蔵の墓碑の撰幷書もまた田辺新之助である(明らかな誤記は訂正 袴田)」と記されているのを見つけました。

清岸寺は寛永7(1630)年創建の浄土宗の寺院で、山号は法性山。目黒駅から歩いて10分程、白金台にあります。9月初め、まだ暑い中でしたが、清岸寺を訪ねました。

本堂の南側の墓域のほぼ中央、正面に「海軍少将従四位勲二等功三級小田喜代蔵墓」と刻まれた角柱の墓石があります。高さ125㎝(台座含まず)、幅35㎝ 奥行き30㎝の大きなものです。右側面(向かって左)には戒名と没年月日「真諦院殿聖譽天尊智劔大居士 明治四十五年四月廿五日兦」。法号最高位の院殿号と位号最高位の大居士が用いられています。そして、背面全体に墓銘。1行35字、10行にわたり細字の正楷で銘文が刻まれていました。末尾には「大正二年三月田邉新之助撰幷書」。墓銘は鎌倉市中央図書館にある稿と同じです。唐津浄泰寺の碑が建てられたのが明治44(1911)年8月ですから、小田喜代蔵の墓銘はその1年7か月後に刻まれたということになります(これについては後述)。

小田喜代蔵は唐津の算術家小田周助の三男として文久3(1863)年に生まれました。海軍兵学校を卒業(第11期)し、日清戦争では水雷艇長として武勲を挙げます。30歳から3年程の英国留学を経て、日露戦争では連合艦隊付属敷設隊司令として旅順口でロシアの旗艦ペトロパヴロフスを沈没させる戦功を挙げました。戦後、勲三等功三級に叙され、呉海軍工廠水雷部長となるも、明治45(1912)年4月25日、病のため現役のまま亡くなりました(享年50)。「小田式自働繋維器」の考案者であることは冒頭に記した通りです。

墓銘末尾には次のように記されています。

君少余一歳生同版籍有竹馬之舊趨嚮雖異披瀝相許余嚮銘令考碑今復記君墓不禁涕下也

 君、余より一歳少(わか)く同じ版籍に生まる。竹馬の旧有り。趨嚮は異ると雖も、披瀝、相い許す。
余、嚮(さき)に令考の碑に銘し、今復た君の墓に記す。涕の下るを禁じず。

進む先は異なったけれども、互いに心のうちを包み隠さず打ち明けてきた。私はさきに君の父君の碑に銘し、その僅か一年七か月後の今、君の墓に銘を記すことになった。涕滂沱として禁ずることができない。

喜代蔵の墓には新しい卒塔婆があり、現在でもご遺族によって供養が続けられていることが知られます。

◎ 小田喜代蔵の父小田周助の碑については下記をご覧下さい。
https://www.zushi-kaisei.ac.jp/news/10649/

「海軍少将従四位勲二等功三級小田喜代蔵墓 正面」

 

「同背面、墓銘の一部」