松坡文庫研究会
【松坡文庫研究会の活動】 小田先生碑銘(唐津・浄泰寺)

松坡文庫研究会代表の袴田潤一先生に唐津調査に関する一文を寄稿していただきました。調査結果の一部は、10/12(日)予定の第11回講演会「唐津の松坡・田辺新之助」でも報告予定です。講演会案内記事もご確認ください。
【松坡文庫研究会の活動】 小田先生碑銘(唐津・浄泰寺)
7月末、5日間をかけて、逗子開成の片山健介先生とともに唐津・佐賀で田辺新之助先生に関する調査を行いました。多くの収穫がありましたが、中でも唐津市弓鷹町の清凉山浄泰寺(浄土宗)にある「小田先生碑銘」の調査は充実していました。調査には佐賀県立名護屋城博物館学芸員の村松洋介君(専門は考古学、特に東アジアの金属器製作技術 逗子開成高等学校1997年3月卒(高49回))の協力もあり、心強い限りでした。
「小田先生碑銘」と篆額に刻まれた碑が浄泰寺にあるということは、『吉田竹里・吉田太古遺文集』(吉田俊雄編 1942)所収の田辺先生自身の文章で数年前にわかっていました。その時点ですぐに村松君にお願いして、碑及び浄泰寺本堂の床の間に掲げられている拓本の写真を撮って貰いました。今回の調査では、碑・拓本の調査とご住職からの聞き取りが目的でした。
村松君が予め調査の依頼をしておいてくれた浄泰寺に三人で赴き、先ずは拓本の写真撮影。先代のご住職に拠れば、採拓の時期は不明で、三本の拓本のうち良本を軸装にしたのが平成14(2002)年とのこと。拓本も素晴らしく、比較的新しい軸物だということもあり非常に状態のいいものでした。碑そのものの刻字の状態もよく、文字は鮮明です。
次いで、本堂左手前にある碑の調査。学芸員による精緻な採寸等には、素人はただただ賛嘆。明治44(1911)年8月の年紀のある碑は全体300㎝、下台の高さ104㎝、台座の高さ43㎝、碑の本体は高さ153㎝、最大幅103㎝。厚さ15㎝。まことに立派な碑です。
碑の篆額「小田先生碑銘」は海軍大佐従三位勲三等功四級子爵小笠原長生によるもので、800字に垂んとする長文の碑文は田辺新之助先生の撰と書です。碑文の定型に従って、小田先生の略歴、家族と為人、田辺先生が碑文を撰するに至った経緯、最後に四言詩。
小田周助(1821~1878)は唐津藩士で、幕末から明治にかけて唐津を代表する算術家の一人。唐津南郊の見借村の宗田運平の算学塾愛日亭の俊才で、江戸で長谷川善左衞門に算学を、京都では暦法を小松純濟に学び、また欧米人に測量を学んだといいます。唐津藩では家老某とともに弾道の研究に励みました。海軍少将となった三男の喜代蔵が機雷の「小田式自働繋維器」の発明をしたことは父周助の影響があったと思われます。維新後は唐津藩が創設した文武算三学所の算学教授となり、伊万里・佐賀二県を歴官、唐津伝習所、唐津準中学校(唐津中学校)で教鞭を執りました。副区長を務めたこともあります。田辺先生が撰文に当たったのは、唐津での修学時代、唐津伝習所で小田周助の教えを受けたことによります。建碑は明治44(1911)年8月、田辺先生は中央漢詩壇を代表する詩人の一人でもありました。
ところで、この碑文が活字となったのは建碑に先立つこと16年の明治28(1895)年11月のことです。博文館の雑誌『太陽』第1巻第11号に全文が掲載されています。明治28(1895)年は小田周助の没後17年にあたり、田辺先生が碑銘を認めたに違いありません。また、建碑の明治44(1911)年は没後33年に当たり、前年の33回忌に建碑の議が起こったのだと考えられます。
ご住職に「小田家の墓はありますか」と尋ねたところと「ええ、あります」と墓所の「小田氏之墓」に案内して下さいました。残念ながら周助の墓誌は刻まれていませんでしたが、大きな発見がありました。墓石右前に小さな灯籠があり、正面に「算學生徒」と刻まれ、左側面(向かって右側)に小田周助の没年である明治11(1878)年10月の年紀、台座には正面と右側面(向かって左側)に計10名の氏名が刻まれています。10名は小田周助の算学の教えを受けた生徒で、灯籠の奉納者です。残念ながら文字は読めません。すると、村松君、やおらスマートフォンを取り出し、台座の写真を連写。画角を変えて撮影した複数のデジタル画像から刻字付近の三次元モデルを作成し、判読し辛さの原因であるテクスチャを取り除き、凹凸表現をそれぞれ強調処理し、刻字を判読するというのです。その日の夜、ホテルに戻ると村松君から「名前が読めました」との連絡がありました。その中に「山田謙吉」の名を見つけて些か感動を覚えました。
山田謙吉は唐津藩藩儒山田忠蔵の長男です。山田忠蔵は田辺先生が少年時代の「句読の師」。田辺先生は大正2(1913)年夏の唐津への帰省の折、恩師山田忠蔵の墓に詣で、その子山田謙吉を訪ねているのです。しかも、山田謙吉は田辺先生よりも年長ですが、唐津伝習所で机を並べ小田周助に数学を学んでいます。これまで、文献だけでしか知らなかった人物の名が灯籠の台座の刻字という「モノ」と結びつきました。
唐津・佐賀での調査の成果は整理した上で今後の田辺新之助研究に反映させたいと思います。