松坡文庫研究会
【松坡文庫研究会の活動】田辺元と松坡先生

海外のある研究者から「田辺元と逗子開成」の関係について問うメールをいただきました。田辺元は、西田幾多郎とともに京都学派を代表する哲学者・思想家として知られています。校史編纂を預かる立場として、今までそのような事実を把握していませんでした。創立者の田辺新之助とは親子関係ですので、「あり得ないことではない」と考え、思い当たる資料を見直してみました。
結局・・・・、田辺元と逗子開成の直接の関係を示す資料は「ない」 ということが分かりました。しかしながら、松坡文庫研究会として、改めて田辺元関係のいくつかの資料を検討してみると、今まで見逃していた事実が!?研究会代表の袴田潤一先生より玉稿を賜りました。
【松坡文庫研究会の活動】 田辺元と松坡先生
田辺元(たなべ はじめ1885~1962)は日本を代表する哲学者の一人で、京都学派の絶対弁証法の哲学者。東京帝国大学を卒業し、東北帝国大学講師を経て京都帝国大学大教授。昭和22(1947)年、学士院会員、同25(1950)年には文化勲章を受章しました。『科学概論』『カントの目的論』など多くの著書があり、筑摩書房からは『田邊元全集』(全15巻1963~1964)が刊行されています。いうまでもなく、田辺新之助先生のご長男です。田辺元の業績や為人については多くの書物で紹介されていますから、ここでは、あまり知られていないエピソードを幾つか紹介しましょう。
「田辺元(public domain)」
元に関する逸話で最も古いものは明治27、28(1894、1895)年頃のもの。田辺家(麴町区飯田町4丁目、現千代田区飯田橋3丁目)の隣に住んでいた荒浪担(1870~1955 速記者・漢詩人 号は煙厓)が文章に記しています。
當時隣家にあった松坡氏宅の家庭は、子息二人娘一人に老母と夫婦の六人暮しであり、竹の垣根を隔てた丈けであり、子供らの騒ぐ聲など手にとる様であった。長男は元と云ひ、…(中略)…二男は至と云ひ、後に洋畫の大家となった。此兩人の喧嘩などすると、それを制するのがいつも老母の聲ばかりで、ハジメ、イタルと云ふ聲は頻に聞えるが、一向主人公の聲を聞かぬ。先生は留守かなと思ふ位であった。
(荒浪煙厓『名流の風概』1954 非売品)
元は10歳でひとつ年下の弟至(いたる1886~1968)とは兄弟喧嘩が絶えなかったのでしょう。「老母」が田辺先生自身のお母様か、奥様鍈さんのお母様かは不明。
田辺家は明治37年頃鎌倉に居を移しますが、東京帝国大学に入学していた元は弟至とともに東京に住み続けていたと思われます(文京区小石川か?)。
明治41(1908)年に帝国大学を卒業すると、元は大学院に進み、その傍ら中学校で英語教師を務めます。父新之助の東京開成中学、次いで、府立四中(元の出身中学校である城北中学校の後身 現、都立戸山高等学校)では嘗ての同窓生で、同じく英語を教えていた横地良吉(1885~1917)と同僚になります。横地良吉は同校を首席で卒業した秀才。東京外国語大学を優秀な成績で卒業し、将来を嘱望される英語研究者・英語教育者でした。その良吉は明治45(1912)年1月に新之助・鍈の次女秀と結婚することになります。良吉は「人格の高きこと君の如く學殖の富贍なること君の如く教授の老練なること君の如く先輩朋友の推挽あること君の如く」、間然する者は皆無だったと称えられた人物です(深井鑑一郎「横井良吉君を弔す」『英語青年』第36巻第11号 通号498号 1917.3)。秀の結婚相手にと元が秀及び新之助に勧めたのではないでしょうか。惜しいことに良吉は秀との結婚後僅か5年で、幼い一人娘武子を残して亡くなりました。
元は明治45(1912)年に大学院を退学し、翌大正2(1913)年8月に東北帝国大学理学部講師となります。仙台に住んでいましたが、元が西田幾多郎に招かれて京都帝国大学に転ずる直前の大正8(1919)6月に、その住まいを新之助(松坡)が訪ねています。鎌倉女学院が所蔵する「日記」(「田辺文書総合目録」より(*注))に松坡先生の「游仙臺宿元家(仙台に游び、元の家に宿す)」と題された詩があります。詩稿にはその詩の前に那須の松方正義別邸(千松苑、萬歳閣)で詠じた作がありますから、松坡先生は那須から仙台に赴いたのでしょう。
游仙臺宿元家 仙台に游び、元の家に宿す
當年雄藩有重名 当年の雄藩 重名有り
東都東北百餘程 東都東北 百余の程
來投兒宅忘覉思 来たりて 児の宅に投じ 覉思を忘る
暮雨新鵑靑葉城 暮雨 新鵑 青葉城
雄藩は仙台藩、覉思(きし)は旅先での物思い、旅愁。梅雨どきの雨と杜鵑、青葉城。元は大正5(1916)年に蘆野千代と結婚していますから、仙台の「児の宅」ではお嫁さんの手料理で歓待されたのかも知れません。松坡先生のことですから、当然一献傾けたに違いありませんが、元が酒を嗜んだかどうかは寡聞にして知りません。
元夫妻が京都に移った翌年、大正9(1920)年の夏、松坡先生は京都に行っています。上村賣劍に宛てた松坡先生の手紙(日付不詳)に「老生長男京都に居候者盲腸炎にて入院に付明日見舞に參り候一週日位にて歸京可致」(『文字禅』第9巻第9号 1920.9.1)とあります。元36歳、松坡先生59歳、優しいお父さんです。
最後は松坡先生の逝去を知らせる元の上村賣劍宛書簡(昭和19年3月)。
…(前略)…亡父多年御好誼を辱なくし眞に感銘措く能はず候 虔みて深謝の意を奉表候 本月十日前後發病 初は感冒の様に有之候ひしが十三日氣管支加答兒に肺炎を併發し 廿日危篤に陥りしも 彌ゝ持直し 廿二日廿三日兩日は愁眉を開き候も 廿四日昏睡状態に陥り 同夜十一時永眠仕候 時局重大の際 何れへも御知らせ致さず 内々にて簡單に葬儀相濟まし候 御供物等は固より御弔問をも拜辭致候次第 不惡御諒恕奉願上候 時下御攝養專一に奉祈候…(下略)
(『漢詩春秋』第28巻第4号 1919.4.1)
科学者らしく、発病から亡くなるまでの経緯が克明に記されています。「何れへも御知らせ致さず 内々にて簡單に葬儀相濟まし候 御供物等は固より御弔問をも拜辭致候次第」が元の考えによるのか、松坡先生の遺志によるのか、知るすべはありません。
(*注)…資料名「日記」の内容は全て詩稿です