松坡文庫研究会
【松坡文庫研究会の活動】第8回世界日曜学校大会の一行963名、鎌倉に来たる

松坡文庫研究会代表の袴田潤一先生より「第8回世界日曜学校大会の一行963名、鎌倉に来たる」をご寄稿いただきました。大正時代の「世界日曜学校大会」と「田辺先生」にはどんな関係があるのでしょうか。いや、そもそも「世界日曜学校大会」とは?今回の活動報告では、同大会を記念して発行された記念葉書(個人蔵)とあわせて文章をお預かりしました。田辺先生の関わりに着目した、貴重な活動報告をお楽しみください。
【松坡文庫研究会の活動】 第8回世界日曜学校大会の一行963名、鎌倉に来たる
日曜学校は主にキリスト教会が日曜日・祝祭日に青少年を集めて宗教教育や一般教育を行うことをいいます。今日の日曜学校は、1780年にイギリスのグロスターで開設されたことに始まります。その後、日曜学校は欧米諸国に伝わり、1889年第一回世界日曜学校大会がロンドンで行われました。世界大会は、以後、4~5年おきに各地で開催され、その第8回大会が大正9(1920)年に日本で行われたのです。来日したのは100名を越える外国人幹部を含む総勢1,500名余。帝国劇場での大会の外に、一行は各地を訪れ大歓迎を受けました。日本側の総委員長は江原素六、副委員長は井深梶之助、後援会は会長が大隈重信、副会長が渋沢栄一で、宮内省からの下賜金もあって大成功を収めました。この時期の日本には、人種差別を撤廃し、国際的地位を高めたいという強い願いがありました。
大会の準備が進められる中、9月初めに日本委員接待部長神学博士鵜飼猛から陸奥広吉に対して参加者のうち1,000名程が鎌倉観光を希望しており、款待についての依頼がありました。陸奥は鎌倉在住の友人数十名と協議したところ、外交上からも、大いに歓迎すべきであるとして、直ちに世界日曜学校大会鎌倉歓迎会(会長は陸奥広吉、委員は42名)が組織され、準備が進められました。観光客が増えていたとはいえ、人口1万8千余の小さな町には一度に1,000人もの人を接待する場所がありません。そこで、1,000名を7組に分け、7ヵ所の休憩所、岩上幸太郎邸(50名)、鎌倉海浜ホテル(350名)、朝吹常吉邸(50名)間島弟彦邸(50名)、鎌倉高等女学校(150名)、鎌倉小学校(200名)、箕田定吉邸(150名)に案内し接待することにしました。
10月11日、午後1時40分、特別列車で鎌倉駅に到着した一行963名を、陸奥広吉ら委員がプラットホームで出迎え、海軍軍楽隊が歓迎の音楽を演奏しました。一行は逗子や横須賀からも駆り集めた人力車に分乗して長谷の大仏見学に向かい、見学後は各休憩所に移動しました。移動の道すがら、歓迎会委員が鎌倉史跡の説明をしたのです。各人には記念の銅メダルと陸奥広吉夫人イソによって作られた英文パンフレットが配られました。
陸奥広吉が理事長を、田辺新之助先生が校長を務める鎌倉高等女学校が150名を接待したことは目をひきます。休憩所ではサンドイッチ・菓子・紅茶などで和やかに歓談したそうです。夕方5時発の東京行きの汽車に乗るまでの短い時間でしたが、一行は楽しい時を過ごしたに違いありません。大会終了後、大会幹事長のフランク・ブラウンからの鎌倉歓迎会長陸奥広吉宛の礼状には、歓待を感謝する言葉に添えて、「特ニ一行ノ為ニ作製寄与セラレタル優美ナル記念品ニ対シテモ亦同一深ク深謝スル次第ニシテ、此ノ記念品ハ世界各地ニ携帯セラレ、鎌倉ノ歴史ト其ノ厚遇トヲ語ル人々ニ依リテ多数ノ国民ニ展示セラルベク候」とあったそうです。歓迎に要した莫大な費用2千6百円は全て寄付金でまかなわれました。前々年に米騒動が起こっていることを考えると、この歓迎は鎌倉町挙げてのイベントだったのです。
鎌倉高等女学校での一行の様子についての田辺先生の漢詩があります。鎌倉女学院が所蔵する「日記」(詩稿)に記されています。「十月十一日歡迎世界日曜学校會員百五十名於鎌倉高等女學校講堂席上賦似(十月十一日、世界日曜学校会員百五十名を鎌倉高等女学校講堂に歓迎し、席上賦し似す。)」という長いタイトルが付されています。
鎌山十月歓聲涌 鎌倉の十月 歓声涌く
萬國聖徒来訪時 万国の聖徒 来訪の時
信仰異同非所問 信仰の異同 問う所に非ず
性情融合自相冝 性情融合し 自ら相宜し
但慚供具大微薄 但だ 供具の大だ微薄なるを慚ず
偏把素心標切思 偏に素心を把り 切思を標す
少女如花迎遠客 少女は花の如く 遠客を迎え
周旋座上悉嬉々 周旋の座上 悉く嬉々たり
信仰は異なれど気持ちは通い合い(第3、4句)、供したものは粗末でも真心からのものである(第5、6句)、鎌倉高等女学校の生徒が遠来の客人を迎え、会場では皆の楽しそうな笑い声が響いていた(第7、8句)。
ところで、記念の銅メダルを誰がデザインしたのかは不明ですが、鎌倉同人会発起人にも名を連ねている黒田清輝が関わっていたのかも知れません。陸奥イソによる観光案内の英文パンフレットが彼女自身の” Kamakura Fact and Legend”(1918)に基いて作られたことは言うまでもありません。
大正九年十月十一日世界日曜學校大會代員鎌倉觀光(個人蔵)
「停車塲(鎌倉駅)」
「大佛」