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【松坡文庫研究会の活動】 童話作家 水谷まさる

松坡文庫研究会

【松坡文庫研究会の活動】 童話作家 水谷まさる

【松坡文庫研究会の活動】 童話作家 水谷まさる

松坡文庫研究会の袴田先生から原稿を預かりました。タイトルは、「童話作家「水谷まさる」」。「水谷家」については、近年、研究会でも話題になるようになりました。田辺先生とどのような関係にあるのか。ぜひお時間あります時にご確認ください。

                    

【松坡文庫研究会の活動】 童話作家 水谷まさる

逗子開成中学校・高等学校(学校法人逗子開成学園)には校史編纂委員会という部署があります。創立百周年記念事業の一環として1997年に発足しました。2003年の『逗子開成百年史』刊行後も校史に関する地道な調査・研究を続けています。私たち松坡文庫研究会では松坡先生に関して、校史編纂委員の調査・研究の成果を提供していただくことがあり、幾つかのテーマについては同委員会と松坡文庫研究会との共同研究といった趣があります。

校史編纂委員会では学校所蔵の学籍簿のうち、田辺新之助先生が保証人となっている生徒を抽出し、田辺先生と生徒(及びその父母)との関係について調査しました。大変興味深い調査です。2024年末に、校史編纂委員会よりその調査・研究の一部を研究会で報告していただきました。

田辺新之助先生が保証人となっている生徒は第二開成創設から大正初めまで10数名に及びます。その中に、水谷姓の三兄弟がいることが判り、保証人欄の田辺新之助先生が「叔父」であると記されていました。「水谷」姓は田辺先生の奥様である「鍈」さんの旧姓ですから、水谷三兄弟の父は鍈さんの兄だということになります。2024年末の時点では、それ以上立ち入った調査には至りませんでした。

昨年秋頃、水谷三兄弟の一人「勝」が、童話作家として活躍した「水谷まさる」だということが判り、それを手掛かりに、「水谷家」の人々について多くのことが判ってきました。田辺元について研究している研究会最年少の会員の精力的な調査に負うところが大きいのです。

ここでは「水谷勝(まさる)」について紹介します。上で「水谷三兄弟」と書きましたが、現時点では少なくとも「四兄弟」だということが判っています。四兄弟の父「悦造」(1863~1909)は陸軍軍人で野砲兵中佐。野砲兵第三聯隊長を務めています。明治29(1896)年8月に再婚しており、最初の妻(名は不詳)との間に長男武、二男勝が、後妻ヨネとの間に三男貞・四男勝成が生まれています。水谷四兄弟の「武・勝」と「貞・勝成」は異母兄弟ということになります。

水谷勝は明治27(1894)年12月15日に東京で生まれました。生地の詳細及び、その後、逗子開成中学校に転入(明治44年、18歳?)するまでの履歴は不明です。父悦造は明治42(1909)年に亡くなっていますので学籍簿の戸主の欄には「武」とあります。勝が逗子開成中学校を卒業したのは大正2(1913)年3月25日、第7回卒業生でした。早稲田大学英文科(早稲田への入学の時期は不明)で浜田広介などと共に学び、大正7(1918)年に同校を卒業しています。卒業後、コドモ社『良友』の編集者、東京社『少女画報』の主筆などを務めました。昭和3(1928)年には千葉省三らと同人誌『童話文学』を創刊し、詩人・児童文学作家として活躍しています。著書・訳書が数多くあります。浜田広介は昭和3(1928)年の評論「大正昭和の童話界」(『浜田広介全集』第12巻 集英社1976)で、水谷まさるの旺盛な創作・翻訳活動に言及しています。

水谷まさるによる『トルストイ童話集』(冨山房 1927)は優れた翻訳として名高く、2024年に冨山房企画より復刻版が出されています。また、『新訳 世界童謡集』という翻訳書があります。大正13(1924)年に西条八十との共訳で冨山房から出版されました。タイトルのとおり、世界の童謡382篇の翻訳が採録されています。英語圏以外の国の童謡については英訳から訳したもの、友人の力を借りたものがあるようです。冨山房の「模範家庭文庫」第一輯第十二巻として刊行されたもので、同文庫は質の高いものとして今日でも高い評価を受けています。収められている382篇の童謡のうち、水谷まさるの翻訳にかかるものが330篇と圧倒的に多く、巻頭の「おぼえがき」も水谷まさるの手になるものです。この訳書は実質的には文庫全体の編集者であった横山正雄と水谷まさるの手によって出来上がったと言っても過言ではありません。『新訳 世界童謡集』は1991年に冨山房百科文庫の一冊として復刻され、手軽に入手することができます。

最後にひとつ。陸奥宗光の子で外交官であった陸奥廣吉とガートルード・エセル・パッシングハムの間には一粒種の陽之助がいました。一家は明治末から鎌倉に住んでいましたが、陽之助は混血児であることから小学校には通わせず、家庭教師のもとで勉強しました。下重暁子さんの『純愛 エセルと陸奥廣吉』(講談社 1994)には次のように記されています。

(1914年)一月十四日、七歳の誕生日を迎えた陽之助の家庭教師が決まった。鎌倉高等女学校校長の田辺新之助の甥の水谷に頼み、三月十四日かがはじめての授業であった。(同書p.240)

この「水谷」が当時23歳の武だったのか、21歳の勝だったのかを決める材料が現時点で見出せないのが残念です。(貞は東京開成中学校在学中、勝成はまだ小学生でした。)

※ 水谷勝の履歴調査に際しては開成学園資料室より貴重な資料を提供していただきました。心より感謝いたします。

 

 

『新訳 世界童謡集』の冨山房百科文庫版(冨山房 1991)