松坡文庫研究会
【松坡文庫研究会の活動】松坡先生と逗子

【松坡文庫研究会の活動】 松坡先生と逗子
東京開成中学校校長の田辺新之助先生が逗子池子(東勝寺)に第二開成学校を開いたのは明治36(1903)年4月です。ところが、田辺先生と逗子との関りはそれ以前から、恐らく明治20年代終わり頃からのことだと思われます。
松坡田辺新之助先生は23歳で晩翠吟社に参加し、漢詩壇で活躍していました。『毎日新聞』(今日の『毎日新聞』とは無関係です。『横濱毎日新聞』が『東京横濱毎日新聞』と改称し、更に『毎日新聞』と称したもの)には漢詩欄があり、大家の詩を撰者が撰び、評を加えていました。今日の歌壇・俳壇がアマチュアの作品を撰んで掲載するのとは異なります。松坡先生の作品が初めて撰ばれて(撰者は森槐南)漢詩欄に掲載されたのは明治22(1889)年2月21日、先生は28歳でしたが、一人前の漢詩人として認められたことになります。以後、多くの作が掲載され、明治30(1897)年1月からは松坡先生自身が漢詩欄「鐵網珊瑚」の撰者となります(明治38年3月まで)。『毎日新聞』漢詩欄には徳富一敬(1822~1914 号は淇水)の作がしばしば掲載されています。徳富一敬は肥後出身の漢学者・教育者で、徳富蘇峰・徳冨蘆花の父です。松坡先生は漢詩を通じて徳富淇水と知り合い、親しく交際するようになり、淇水の逗子の別荘「老龍庵」(富士見橋東詰の北、現逗子市桜山8-8-1)を何度となく訪れています。
明治30(1897)年9月29日の『毎日新聞』「鐵網珊瑚」欄には松坡先生が撰んだ淇水の詩が掲載されています。タイトルは「田邊松坡見訪湘南隱居賦似(田辺松坡、湘南の隠居を訪わるる 賦し似す)」とあり、松坡先生が老龍庵を訪問したことが判ります。更に、明治32(1899)年8月6日には松坡先生自身の連作七首が掲載されており、その引(詞書)には「己亥七月遊逗子」とあります。その一首は「登老龍庵後峰、有三山十洲集眼下之想、淇水求詩、即賦所見(老龍庵の後峰に登り、三山十洲眼下に集まるの想い有り 淇水、詩を求め、即ち所見を賦す)」と題されており、「老龍庵後峰」すなわち、「桜山」に登って詩を詠じたことが判ります。
第二開成学校設立準備のため、松坡先生はしばしば逗子に来ていますが、その折には「養神亭」(田越川を挟んで老龍庵の向かい側、現逗子市新宿1-6-15)に宿を取り、老龍庵も訪れています。
第二開成学校は池子で発足し、9月には新宿に移転しますが、その間(或いは翌年の鎌倉女学院創設の頃まで)、松坡先生は逗子に仮寓していました。明治36(1903)年7月29日の「鐵網珊瑚」には池田梅所の「寄懷松坡先生在逗子(松坡先生の逗子に在るに懐を寄す)」、8月8日には太田耻堂の「寄懷松坡詞伯在逗子(松坡詞伯の逗子に在るに懐を寄す)、9月10日には久保木江南の「寄松坡先生在逗子(松坡先生の逗子に在るに寄す)」と題された詩が掲載されています。池田梅所の詩に次韻した松坡先生自身の詩、「次韻寄梅所(次韻し、梅所に寄す」は「江村卜隱居。心境始安舒。(江村に隠居を卜し、心境、始めて安舒たり。)」と詠み起こされます。「隠居」は世の中の煩わしさを避けて閑静な所に引き籠って暮らすこと、その住まいをいい、ここでは詩的修辞でしょう。第3句以下は次の通り。
松韻圍軒動 松韻 軒を囲みて動き
茶煙出竹疎 茶煙 竹を出でて疎なり
月窺吟苦枕 月は窺う 吟苦の枕
風弄讀殘書 風は弄ぶ 読残の書
待爾來游日 爾の来游の日を待ち
相携去釣魚 相携えて 釣魚に去(ユ)かん
夏の逗子でのひとときの実景が詠じられており、「逗子に遊びに来たら、一緒に釣りにでも行こう」と梅所に呼び掛けています。
そう言えば、初代逗子町長をつとめた菊池兵之助の墓銘(松坡撰 逗子延命寺 1925.4)には「余曽寓君家(余、曽て君家に寓す)」と刻まれており、先生が菊池家に仮寓していたことも判ります。
松坡先生は、明治37乃至38年から鎌倉に住み、第二開成(逗子開成)校長として大正2(1913)年まで逗子に勤務、その後も老龍庵の淇水をしばしば訪ねています。更に先生の最も親しかった詩友上村賣劍が逗子に声教社を構え、住んでいたことから逗子には頻繁に足を運んでいます。先生は、亡くなるまで鎌倉に住み、鎌倉の文化人として評価されていますが、逗子との長い関わりを考えると、逗子の文化人として改めて見直すことも必要なのではないかと考えています。
徳富淇水の詩稿「奉寄懐松坡先生上國勝遊(松坡先生の上国勝遊に懐を寄せ奉る)」
末尾に「右乞郢政(右、郢政を乞う)」とあり松坡先生に添削を請うている