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教職員が八方尾根に慰霊登山〈120周年記念事業関連・報告〉
前期を終えた秋休み中に、校長をはじめ教職員有志10名で八方尾根慰霊登山を行いました。
今回の目的は、120周年記念事業で修復された「八方ケルン」(注1)の視察、八方尾根を訪れ歴史を語り継ごう、この2つです。
10月2日(月)早朝に学校を出発、午後1時過ぎに長野県白馬村に到着しました。
標高770メートルの山麓から、スキー・リフト3本を乗り継いで標高1830mの八方池山荘に到着。この山荘は遭難事故当時、捜索の拠点でした。
ここから歩行開始です。少し雲がかかっていますが良いお天気で雄大な景色を存分に楽しめます。空気はひんやりしていてほてる体に気持ちいいです。ごつごつした岩の上を歩き一歩一歩高度を上げていきます。八方池山荘から1時間ほど登って「八方ケルン」(標高2035m)に着きました(注2)。修復されたケルンを目にして安心しました。土台がコンクリートでしっかり固められ、岩のすき間もコンクリートで丁寧に埋められていたからです。
これであと何十年か登山者の道標の役割を果たせるでしょう。稜線を見わたし、深い谷を見下ろし、亡くなった先生・生徒たちに思いを馳せた後、一同で黙祷を捧げました。
その後、さらに上の八方池(標高2060m)へ足を延ばし、白馬連峰の絶景を堪能しました。
何とここで思いもよらぬサプライズ! 本校で英語を教える外国人講師フィリップス先生と遭遇したのです。週末を麓のキャンプ場で過ごし、慰霊登山に加わろうと待っていてくれたというのです。おしゃべりをしながら一緒に下山しました。
夜、宿舎では食事をしながら参加者どうしで語り合いました。「初めて高い山に登って大自然に圧倒された」「教員どうしで歩いたからこそ、生徒を守ろうと必死だったはずの先生の気持ちを想像できた」「合宿を楽しみに出かけて行った息子が二度と帰って来なかった親の気持ちを想像した」「ここに来てみて、語り継ぐべきは、やはり命の尊さなのだと思った」など、八方尾根に来てそれぞれに感じたことが語られました。「現場だからこそ体感できることがある。今後も教職員による八方尾根登山を続けたい」というのが共通の願いになりました。
翌日は、白馬村内にある山岳遭難者慰霊碑「山に眠る人々」を訪れました。
この慰霊碑は長野県白馬山岳遭難対策センターの隣にあり、後立山連峰の山域で遭難により亡くなった多くの方々のお名前が刻まれています。その一角に本校の先生、生徒計6名の名前も刻まれています。
慰霊の黙祷を捧げ、白馬村を後にしました。
ここ八方尾根は、逗子開成にとって特別な場所です。「行ってきます」と言って出かけた息子が帰らぬ人となった親の悲しみ、夫を亡くした妻の悲しみ、教え子・同僚を亡くした教師の悲しみに思いをいたし、命の重さをかみしめるべき場所だからです。命を守ることの大切さを、折に触れ学校で語り継いでいこう、そんな決意を新たにしました。
(注1)本ホームページ内の、ニュース「逗子開成学園八方ケルン修復工事完成確認及び竣工式報告」(8月29日)をご参照ください。
(注2)ケルン(英語cairn)とは石を積み上げて作られた山道の道標のことです。
森林限界以下なのに尾根筋が樹木に覆われていない八方尾根には、スキー場の最上部から唐松岳(標高2696m)までの間に6つのケルンがあります。そのうちの1つが、本校が建てた「八方ケルン」です。標高2035mのこの場所に建てられた理由は次の通りです。
1980年12月、本校山岳部のパーティーは、第3ケルン(標高2080m)からテントを設営してある第2ケルン(標高2005m)付近に戻ろうとしましたが、猛吹雪でルートを見失いテントにたどり着くことができませんでした。第3ケルンから下山する場合、視界が悪いと尾根続きに南側へ下ってしまうか、あるいは第2ケルン上部の派生尾根を北側に行ってしまう例が見られ、いずれも遭難の危険を伴います。確実な道標があればこれらの失敗を防げるという趣旨でこの場所を選んだのでした(『逗子開成百年史』より)。
この場所は中部山岳国立公園内のため、環境庁と地元・白馬村の許可を得てケルンは建設され、1984年7月12日に除幕式が行われました。高さは4.5m。積雪期にも道標の役割を果たせる高さです。使われている自然石は、当時、教員有志と山岳部OBが集積しました。
建設から40年経つのを目前に、120周年記念事業の一つとして逗子開成学園校友会に多大なご協力をいただき補修工事が行われました。