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【松坡文庫研究会】田辺松坡、晩翠吟社にデビュー

松坡文庫研究会

【松坡文庫研究会】田辺松坡、晩翠吟社にデビュー

【松坡文庫研究会】田辺松坡、晩翠吟社にデビュー
明治17(1884)年4月5日の晩翠吟社詩会参会者一覧
田辺新之助と向山黄村の名が並んで記されている
(鎌倉市中央図書館蔵) 明治17(1884)年4月5日の晩翠吟社詩会参会者一覧
田辺新之助と向山黄村の名が並んで記されている
(鎌倉市中央図書館蔵)

松坡文庫研究会の袴田潤一先生よりご寄稿いただきました。先生は、先日デジタル公開されたばかりの『晩翠吟社詩巻』(鎌倉市中央図書館蔵)を活用され、田辺松坡の晩翠吟社デビューについてはじめて言及されています。今後の史料分析が楽しみとなる本文です。

 

【松坡文庫研究会の活動】田辺松坡、晩翠吟社にデビュー

松坡先生は晩翠吟社の詩会の記録である『晩翠吟社詩巻』について次のように記しています。

「晩翠吟社詩巻は岡崎春石君に由りて保存せられ、首巻より十一巻迄は余が宅に在り、十一巻は明治
十七年十二月に終り居るが、翁(吉田竹里 袴田注)の作は未だ見當らぬ。以下十二巻より廿二巻ま
では春石君の處に在れば之を調べれば分明ならん。」

(田邊新之助「吉田竹里翁逸事」『吉田竹里・吉田太古遺稿集』1942 p.22)

この文章が書かれた1942(昭和17)年頃、『晩翠吟社詩巻』の初めの十一巻が松坡先生の手許にあったということから、鎌倉市中央図書館の松坡文庫にそれが含まれているのではないかと考え、調査したところ幸いにも発見することができました。2019年6月末のことでした。翌年2月の研究会にゲストとして参加された町泉寿郎先生(二松学舎大学教授 中国文学科)にお見せしたところ、「ここにあったのか!」と大変に驚かれた貴重な資料です。その重要性から鎌倉市中央図書館では資料のデジタル化を進めることにしました。鎌倉市図書館振興基金を利用して、全十一巻について、和綴を一旦解体した上で、全丁を写真に撮ってデジタル化し、再び綴じ直すという作業が行われました。現在、全デジタルデータは図書館のホームページで閲覧できるようになっており、近代日本漢詩研究者が自由に閲覧できます。鎌倉市図書館の大きな財産です。

『晩翠吟社詩巻』第一巻から第十一巻は、同社の明治11(1878)年11月5日の第三回詩会から明治18(1885)年4月15日の別集までの全79回の詩会(月一回)について、参会者の掲題詩及び当日の席上分韻詩が漏れなく記載されています。例えば、第三回詩会の掲題は「月前菊」「過桶峡」、席上分韻は「瀧川觀楓」といった季節感溢れるもので、盟主である杉浦梅潭はじめ、東久世竹亭(通禧)、中澤機堂(見作)、鎌田醉石(景弼)ら12名の参会者の詩が記録されています。作者名を伏せて記録された全ての詩は批正者(初期は大沼枕山)の朱筆が加えられています。批正を経た記録に作者名を記入し、詩会毎にまとめられ、更にほぼ一年分を綴ったのが各巻になっているのです。『晩翠吟社詩巻』は明治期を代表する漢詩人が詠んだ詩を、大沼枕山や岡本黄石などの第一人者がどのように添削したかが如実にわかる資料なのです。詩会ごとの掲題・席上分韻・参会者を調査すると、漢詩研究者でない私にとっても非常に興味深いことがわかりますので、漢詩研究者にとっては貴重な研究資料でしょう。

詳細な研究は専門家に任せるとして、私たち研究会にとって関心があるのは田辺新之助先生のこと。先生は若い頃から晩翠吟社に参加し、明治23(1890)年頃から幹事を務めて杉浦梅潭を助けて、毎回の詩巻の整理や、会日の事務などを処理していました。

『詩巻』から田辺新之助、田辺松坡の名前を探したところ、第九巻 第六十八号詩巻 明治17(1884)年4月5日の詩会の18名の参会者一覧に、

神田猿楽町三丁目三番 田邊新之助君

と初めて出てくるのを発見しました。記録されている漢詩は「田辺松坡」の名で四首(「讀呉梅村集」二首、「病僧」一首、「江寺春殘」一首)。田辺新之助は「松坡」の号で晩翠吟社にデビューしたのです。多くの大家に混じっての23歳の青年で、共立学校の英語・地理教員として勤め始めて3年目のことでした。

ところで、「田辺新之助君」の号「松坡」については、同郷の建築家曾禰達蔵の死を悼んで書いた「曾禰鶴洲博士を偲びて」(『建築雑誌』昭和12年2月)という文章の中で松坡先生自身が語っています。

明治十七年頃と記臆(ママ)しますが、唐津の先輩、中澤機堂先生を頂きて、下二番町の小笠原子爵邸の一室に捜天吟社と稱する詩會を開いた。參會した者、曾禰、天野、百束の三氏と私であつた。時に中澤先生は我等の雅號を選定せられた。曾禰君は鶴洲、天野君は淞村、私は松坡と號した。

松坡先生が記憶しているという「明治十七頃」は新之助が晩翠吟社にデビューした時期です。晩翠吟社例会への参加に当り、雅号が必要だろうとのことで、唐津の先輩であり晩翠吟社社員でもあった中澤機堂が号を選定したのだと思われます。中澤機堂はアーネスト・サトウの日本語の先生で、唐津滞在中の高橋是清に漢籍の手ほどきをした人物でもあります。

第68回詩会以後、松坡先生は晩翠吟社例会にほぼ毎回参加するようになります。そして、その2年後、同じく晩翠吟社に参加していた脇屋清齋(義助)の編になる『日本名家詩選』で若き漢詩人として漢詩壇に颯爽と登場することになるのです。

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