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【松坡文庫研究会】田辺嫰さんの肖像レリーフ

松坡文庫研究会

【松坡文庫研究会】田辺嫰さんの肖像レリーフ

【松坡文庫研究会】田辺嫰さんの肖像レリーフ

松坡文庫研究会の活動 田辺嫰さんの肖像レリーフ

小さな肖像レリーフ(円形 径150㎜ 銅製)があります。象られているのは微笑む若い女性。着物姿で洋髪、髪飾りをつけているようです。

田辺新之助先生の次男、黒田清輝門下の洋画家田辺至(1886~1968)が制作したもので、左下に篆体の「至」字が刻まれています。

女性の名は田辺嫰(たなべ ふたば)、制作されたのは昭和15(1940)年頃です。同じようなレリーフは複数制作されたようですが、これはそのうちの一つです。

田辺嫰は大正7(1918)年6月14日に至とその妻である操(田澤雄太郎の長女、青鞜社に参加。)との間の長女として生まれました。兄に穣(1916~1982 画家)、弟に茂(1920~1923)がいました。至は大正11(1922)年から文部省在外研究員として美術研究のためヨーロッパ諸国に赴き、その後、妻の操は渡欧した(大正12年の前半だと思われる)ため、穣・嫰・茂の三人は操の妹である光(画家吉村芳松の妻)に預けられました。吉村芳松・光夫妻も至がアトリエを構えていた東京田端光明院敷地内に住んでいました。至夫妻の帰国は大正13(1924)年末で、幼い嫰は4歳から3年間ほど寂しい思いで過ごしたに違いありません。嫰は長じて東京女子大学に進んで勉学に勤しみ、友人にも恵まれていたようですが(親友の一人が外相を務めた園田直に嫁いだ松谷天光光でした。)、卒業を間近にした昭和14(1939)年12月30日、盲腸の悪化により死亡。

至・操夫妻にとっても、嫰の祖父にあたる新之助先生にとっても大きな悲しみでした。

松坡先生(田辺新之助先生)に「己卯十二月三十日、傷孫女嫰急亡(孫女嫰の急亡を傷む)」と題された七言絶句(二首)があります。其の一は次のようなものです。

歳云暮矣冽風霜           歳ここに暮れ 風霜冽し
菊後梅前景太荒           菊後 梅前 景 太だ荒たり
殘臘一庭斜照下           残臘の一庭 斜照の下
山茶花落有微香           山茶花落ちて 微香有り

冽は寒い、冷たい。菊後梅前は菊も咲き終わった後で、梅はまだ咲かない時期。殘臘一庭は残り少ない蠟月(陰暦十二月の異称)の庭。斜照は斜めに照らす夕日です。菊は散り、梅はまだ咲かないけれど、咲いていた山茶花(中国では椿をいいます)が落ちてしまった。山茶花(椿)の花は花びらが一枚ずつ散るというのではなく、花ごとぽたりと落ちるので、ここでの「山茶花落」は嫰の急死に譬えています。「微香」は嫰の思い出です。山茶花は香り高い花です。

嫰の父である至がその思い出のために制作したのが、写真を掲出したレリーフです。至のお孫さんが何点か所蔵されています。

ところで、嫰の死の5年前の昭和9(1934)年の初め、新之助は次女秀の一人娘武子を喪っています。武子は22歳の若さでの自死でした。武子の死を悼んだ詩(「悼横地武子」)の第二句には「掌中之玉一宵摧  掌中の玉 一宵にして摧(くだ)ける」とあります。

至の制作になる嫰の肖像レリーフを前に、至や操、新之助、鍈の気持ち、また武子のことを考えました。

三男四女に恵まれた新之助・鍈夫妻ですが、三人の男児(元、至、定)に比して、四人の女児は幸薄かったと言えます。長女三千は男児を生んだ直後に20歳で死去、次女秀は武子出産後まもなく寡婦となり、女手一つで育てた娘武子は22歳で自死、四女信は生後僅か11日で夭折。三女の淑は野沢氏に嫁し三人の男子(謙、協、敬)を生み育て、83歳まで生きましたが、最期は蓼科の山荘の二階の階段からの転落死だったそうです。(松坡文庫研究会)

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