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【松坡文庫研究会】荒浪煙厓と松坡田辺新之助

松坡文庫研究会

【松坡文庫研究会】荒浪煙厓と松坡田辺新之助

【松坡文庫研究会】荒浪煙厓と松坡田辺新之助
<荒浪煙厓 『名流の風概』口絵> <荒浪煙厓 『名流の風概』口絵>

明治27、8年頃、飯田町練兵場近くの松坡先生宅の隣人が、田辺家の様子を記しています。

 

當時隣家にあった松坡氏宅の家庭は、子息二人娘一人に老母と夫婦の六人暮しであり、竹の垣根を隔てた丈けであり、子供らの騒ぐ聲など手にとる様であった。長男は元(はじめ)と云ひ、後に京大教授文博、文化勲章拝受者である。二男は至と云ひ、後に洋畫の大家となった。此兩人の喧嘩などすると、それを制するのがいつも老母の聲ばかりで、ハジメ、イタルと云ふ聲は頻に聞えるが、一向主人公の聲を聞かぬ。先生は留守かなと思ふ位であった。

 

これは『名流の風概』(1954 非売品)に収められた「田邊松坡」の項の一節で、書いたのは荒浪坦(あらなみ はじめ 号は煙厓、通称市平1870~1955)。駿河島田の人で貴族院速記者として40年近く務め、同時に漢詩人としても活躍した人物です。『昭和詩文』の編輯・撰者をその廃刊まで務め、生涯を通じて松坡先生と親しい交誼を持ち続けました。

 

煙厓が「ハジメ、イタル」と叱りりつける老母の声を聞いた頃、元は9歳か10歳、弟の至は一歳年下でした。悪戯盛りでよく喧嘩もしたのでしょう。隣人同士だった縁もあり、煙厓は松坡先生に詩の指導を仰ぎ、仁香保香城、萩原錦江らと共に茗礀吟社で活動もします。煙厓はまた松坡先生が幹事を務めていた晩翠吟社の詩会にも何度か参加しました。

 

こんなエピソードも書かれています。

或時予はその學校(鎌倉高等女学校)の向側の小學校に講演があって招かれて行った序でを以て、先生を女學校に訪問すると、折柄昼食時分であったが、先生は久しぶりにて逢ふのでユックリ話したいから四時頃今一度來て呉れと云ふのでその時間にお尋ねすると、先生は自動車を命じ鎌倉山の内の香風閣と云ふ料理兼温泉屋に案内され饗應された。その折の言葉に人は三十年間も交際出來るのは稀であるが、君と僕とは三十年の交誼を得て居る。洵に懷しいことだと云はれ歸途も同乘して鎌倉驛まで見送つて呉れた程だった。予はその時五律一首を作って似(おく)つたが後に次韻して下さった。

 

昭和6(1931)年晩夏の出来事ですが、この時の詩の応酬は煙厓の『清遠居詩鈔』(1943)所収の「鎌倉香風園松坡翁招飲」と『漢詩春秋』(第15巻第10号)に収められている松坡先生の「香風園小酌 次韻煙厓詩」です。煙厓の詩の一節に「果識人生樂 交游情斷金(果たして識る 人生の楽 交游の情 金を断つがごとし)」とあり、風雅な交わりが窺われます。

また、何年のことか不明ですが、ある夏煙厓が材木座水道路の松坡先生宅(菱花山館)を訪問した折のことも。

 

軈(やが)て夕方になつたので奥様が態々風呂を立てゝ一浴を勸められたので、予も一浴してあとで晩餐の饗に預つたが、其節先生自身の浴衣を貸して予に着せられた事を覺て居る。遂に一泊御厄介を掛けたのであった。

鍈さんも含めた三人の打ち解けた様子が手に取るようにわかる微笑ましい逸話です。

松坡先生最晩年の昭和16、17年頃、煙厓が松坡先生に寄せた詩があります(『清遠居詩鈔』)。

 

寄菱花山人      菱花山人に寄す

湘雲咫尺白帆風    湘雲 咫尺たり 白帆の風

花竹窓前鷗語通    花竹 窓前 鷗語通ず

文勢如潮老逾健    文勢 潮の如く 老いて逾々健なり

海東復見一坡翁    海東 復た見る 一坡翁

 

老いてますます盛んな松坡先生の創作を称えた詩です。漢詩を通じて育まれたこうした友情の在り方は羨ましいものです。

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