松坡文庫研究会
松坡文庫研究会の活動 梅田隧道之碑
松坡文庫研究会ではここのところしばらく、鎌倉市中央図書館近代史資料室に眠っていた「松坡文庫関連資料」を調査しています。大正3年から数年間の「墓碑銘稿・碑文稿」が多く見られますが、その中に「梅田隧道碑銘」と題された三つの原稿がありました。稿を比較すると推敲のあとがよく判り、貴重な資料です。
ところで、梅田隧道碑は横須賀市浦郷町(浦郷町2丁目31 京浜急行の追浜駅と京急田浦駅のほぼ中間の東、直線距離で約1㎞ほど)に現存します。
梅田隧道は1887(明治20)年に完成した、軍用以外のものとしては横須賀で最初のトンネルです。1886(明治19)年、船越新田一帯に海軍水雷営と水雷修理工場ができたため、田浦・船越・浦郷の一帯は舟運の便をとざされてしまいました。また生業を奪われた漁民は水雷修理工場等の従業員に転じ、いくつかの山路を越えて工場へ通勤するようになりました。そこで通勤者のため、また浦郷地区の発展のために梅田坂新道開鑿工事が計画されたのです。浦郷村渡辺富太郎・山田市左衛門・田川三郎兵衛・渡戸市郎衛門らが発起人となり、関係者(民間)の手で、同年起工、竣工は翌年3月でした。民営でしかも地元の人たちの出資・寄附によってトンネルが完成したのは特筆に値することで、それに刺戟されて、筒井・深浦、次いで田浦などのトンネル、また長浦―田の浦間卜ンネルも開かれたのでした。横須賀には多くのトンネルがありますが、梅田トンネルはその嚆矢となったのです。(以上『新横須賀市史 通史編近現代』2014による)
「梅田隧道之碑」が建てられたのは1915(大正4)年11月。碑は梅田隧道の北側口から約140mのところにあります。高さ160㎝ほどで、1行35字、18行にわたり田辺新之助による漢文と詩が刻まれた立派なものです。上部の題額を書いたのは海軍大将樺山資紀。田辺新之助先生と樺山資紀とは親しい間柄でした(樺山資紀が大磯の別荘で年数回開いていた詩会に田辺先生は参加していましたし、樺山没後、その詩稿をまとめた詩集『二松庵詩鈔』を編んでいます)。
碑文は梅田隧道開鑿の経緯を述べ、そのことを詩に詠み、碑陰には発起者4名と賛同者39名の名が刻まれています。隧道完成から四半世紀後に碑が建てられたことについても刻まれています。
大半物故恐久而其功将湮滅
(関係者の多くが亡くなり、その功績が消えてなくなってしまうことを恐れ)
今茲十一月 天皇行即位大禮
(時恰もこの十一月に(大正)天皇即位の大礼がとり行われるのに合わせて)
郷人某等相議欲建碑伝不朽以為紀念
(浦郷の人たちが、功績を不朽に伝えるため碑を建てて記念とするよう議した)
とあります。当時、鎌倉女学校校長であり、漢詩人としての名声も確立していた田辺先生に浦郷の人たちが碑文の撰を依頼したのです。題額については、田辺先生が樺山大将にお願いしたのでしょう。
軍港の街横須賀とそこで生きる人々の関わり、浦郷村及びその周辺の人たちの逞しさ、そうしたことに恐らくは強く共感した田辺先生が立派な碑文を書いたのでしょう。そしてそれが刻まれて今日まで残っていることを嬉しく思います。
機会があれば是非足を運んでみて下さい。
(アクセス:京浜急行追浜駅または京急田浦駅からバスで10分ほど 榎戸下車)