松坡文庫研究会
松坡文庫研究会の活動 山田先生紀徳之碑
私たち松坡文庫研究会では、松坡田辺新之助についての新しい資料を集め、それに基づいて松坡先生の事蹟や為人を明らかにすることを目指しています。資料は、松坡先生の詠んだ詩(これまで、1,050首ほどを確認しました)や、墨蹟、雑誌・新聞記事などです。
ところで、今年7月半ばのこと、鎌倉市中央図書館の近代史資料室にある資料箱の中に、松坡先生関連の資料が相当数存在することが判りました。資料は、鎌倉で亀廼舎を主宰していた歌人海上寿子氏の資料(「扇ガ谷海上家文書」)の中に混在していました。松坡先生関連資料は3つある海上家文書資料箱のうち一箱分ほどに当たるかと思われます。それらの資料がどういう経緯で鎌倉市中央図書館の所蔵になったのか、海上家文書との関連はどういうことなのか、松坡先生関連資料の内実はどういうものなのかを調査することが必要となりました。
海上寿子と松坡先生は交流があったことは確かですが、松坡先生の資料が一旦海上家文書に入った上で中央図書館の所蔵になったとは考えにくいので、松坡資料は別ルート(時期も含めて現時点では不明)から中央図書館の所蔵になり、何かの折に海上家文書の混在するに至ったと思われます。資料の来歴に関する厄介な問題は当面保留にするとして、8月以降、資料の確認作業を進めています。
資料の殆どは詩稿です。松坡先生自身のものもあれば、先生が若い頃から関わり、その幹事を務めた詩社「晩翠吟社」の詩人の詩稿がかなり含まれています。主宰者であった杉浦梅潭や、同社の創設者の一人である稻津南洋、また、蓮舟田辺太一、何蠡舟など、明治期を代表する漢詩人の詩稿(多くが批正のための朱筆が加えられている)が多くあることは驚くべきことです。勿論すべて毛筆で書かれており、判読するには骨が折れ、整理作業はなかなか進みませんが。
松坡先生のものとしては碑銘の原稿が多く含まれ、間島弟彦とその長男道彦の墓銘稿が数種あったのは大きな収穫でした。間島家の墓は青山霊園にあり、そこに刻まれている墓銘との比較対照が可能となるからです。また、「山田先生紀徳之碑」と題された原稿が数種ありました。文中には「先生名専成」とあり、山田先生が長く中和田小学校校長を務めた「山田専成(もろなり)」であることが判ったことが糸口になり、「山田先生紀徳之碑」が大正3(1914)年に建てられたことも判りました。
「山田先生紀徳之碑」は横浜市泉区の中和田公園に現存します。先日、相鉄いずみ野線いずみ中央駅にほど近い中和田公園に足を運んで確認してきました。幅約1m、高さ4m弱の大きな碑で、篆額は樺山資紀。43文字17行の長大な碑文で、末尾に「鎌倉高等女學校長田邊新之助撰併書」とあり、文字を刻んだ石工の名「望月久吉」も記されています。碑陰には「報恩會建之」。
碑銘は山田専成先生の履歴、為人を述べ、最後に「銘曰」として4字24句の詩が詠まれています。田辺新之助先生が山田専成と相識だった訳ではなく、山田専成の校長退職を機に、その門人たちが先生の徳を称えるために碑を建てることを謀り、碑銘を田辺先生に依嘱したと記されています。「余亦從事教育聞先生之名久矣乃不敢辭因叙梗槩(余亦た教育に従事し、先生の名を聞くこと久し。仍て敢えて辞さず、因て梗概を叙す)」と刻まれています。
碑が建てられた大正3年と言えば、田辺先生は53歳。既に東京開成中学校長、逗子開成中学校長を辞し、鎌倉高等女学校の校長に専念していました。教育者・漢詩人・書家としての名も揚がっており、碑文の撰と書が依頼されたのでしょう。
無造作に紐で括られた原稿の束、不規則な折れ目が付けられ、ところどころ蟲に食われた原稿用紙。それらを一枚一枚確認することで、今後新たな発見が得られることを期待しています。