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【松坡文庫研究会の活動】河村城址碑

松坡文庫研究会

【松坡文庫研究会の活動】河村城址碑

【松坡文庫研究会の活動】河村城址碑

松坡文庫研究会代表の袴田潤一先生より原稿を預かりました。中世の山城跡にたつ石碑と松坡先生の関係とは?是非ご一読ください。

【松坡文庫研究会の活動】河村城址碑
JR御殿場線山北駅の南側の標高225.0mの城山の頂上付近、かつて河村城の本城郭址西側に高さ3.5m、幅1.2mほどの立派な石碑が建っています。碑題は徳富蘇峰(筆名 菅原正敬)の書で「河村城址碑」。碑陰には歴史学者で紋章学の権威である沼田頼輔(1867~1934)の700字に垂んとする撰文が田辺新之助の端正な書き振りの楷書で記されています。昭和4(1929)年4月に川村町青年団(川村町は山北町の旧名)によって建てられたものです。

河村城は古代末期に藤原秀郷の流れを汲む河村秀高によって築かれたとされ、南北朝時代には南朝方の河村氏と北朝方の畠山氏との攻防の舞台となりました。その後、畠山氏、上杉氏、大森氏、後北条氏の手を経て、16世紀末、豊臣秀吉による小田原征伐後で廃城とりなりました。1990年代に城跡の調査研究が行われ、城が連郭式(本丸・二の丸・三の丸が一列に並ぶ)山城であったことがわかり、一帯は「河村城址歴史公園」として整備され、城の遺構は1996年に神奈川県内の山城としては初めて県指定史跡となりました。

さて、遡って大正期、川村小学校校長で郷土史家でもあった長坂邨太郎(生卒年不詳)が町の祖でもあり、町名のもとになった河村氏を顕彰することを目的に、河村氏及び河村城の研究に努めました(研究の成果は『河村城址記』1931や『歴史上より見たる河村氏』1937などに結実しています)。そうした機運の高まりの中で、昭和天皇即位奉祝記念事業として川村町青年団が建碑を企図したのです。青年団は保勝会を組織し、2千数百円の寄付を集めたといいます。

碑を建てるに当たっても長坂邨太郎は奔走します。碑題を尊敬する徳富蘇峰に依頼し、蘇峰はそれに応えて「河村城址碑」の立派な題を書いたのです。撰文は沼田頼輔に依頼しました。長坂と沼田は神奈川師範学校の同窓で、長坂は明治19(1886)年2月22日に、沼田は同年9月14日に同校を卒業しています。古くからの知友であることに加え、沼田氏が波多野河村氏族の出であることも関係していました。建碑に先立ち沼田は同僚で小田原出身の相田二郎らとともに川村町を訪ね、川村小学校で河村氏及び河村城についての講演を行っています。

ところで、碑文を田辺新之助先生が書くに至ったのはなぜでしょう。これまで調査した田辺先生関連の資料から長坂邨太郎と田辺先生の交友について窺われるものは皆無です。碑題を書いた徳富蘇峰からの依頼の可能性はあります。蘇峰と田辺先生とは長きにわたる交友があり、徳富蘇峰記念館(二宮町)には明治42(1909)年から昭和3(1928)年までの田辺先生の蘇峰宛書簡10通が保管されています。一方、撰文者である沼田からの依頼の可能性はどうでしょうか。私は沼田が田辺先生に書を依頼した可能性が高いと考えています。沼田は師範学校を卒業すると鶴嶺村(現・茅ヶ崎市)の小学校訓導、高座郡一之宮学校(現・寒川町)校長兼訓導、尋常高等茅ヶ崎小学校(現・茅ヶ崎市)校長兼訓導を経て、明治30(1897)年に東京府開成尋常中学校教諭となっているのです。同校では田辺先生が英語・地理を講じており、先生は沼田が赴任してきた年の末に同校校長になりました。沼田が鳥取県米子中学校に転ずる明治34(1901)年までの短い間でしたが、沼田にとって田辺先生は同僚であり上司だったのです。私的なことを言えば、沼田の娘は田辺先生と昵懇の仲だった澤田カズ(金偏+和)義の長男に嫁いでいます。

建碑のために多額の寄付を集め、巨大な石材を酒匂川から運び上げたのは川村町青年団の団員でした。碑はそうした熱意に動かされた徳富蘇峰、沼田頼輔、そして田辺先生の協力によって竣成しました。碑が建つ河村城本城郭址へは、山北駅から標高差100m余を登って約30分で辿り着きます。御殿場線の本数が少ないのが残念ですが、乗り換えがスムーズに行けば逗子駅から山北駅までは1時間半もかかりません。爽やかな日に、ちょっとしたハイキング気分で足を運んでみてはどうでしょう。河村城址公園南側からの太平洋方面の眺望も素晴らしいものです。

河村城址碑正面 河村城址碑正面
河村城址碑碑陰 河村城址碑碑陰
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