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校史余滴 第十二回 ああ壮烈 義人 廣枝音右衛門

2017/02/24

校史余滴
 第12回 ああ壮烈 義人 廣枝音右衛門

 廣枝音右衛門という卒業生がいます。太平洋戦争末期に自らを犠牲にして日本軍の台湾人兵士の多くの命を救ったと顕彰される人物です。

廣枝音右衛門は1905(明治38)年に神奈川県足柄下郡片浦根府川(現 小田原市根府川)に生まれ、1924(大正13)年に逗子開成中学校4学年に編入しています(編入前の履歴は残念ながら不明です)。2年後の1926(大正15)に卒業し、日本大学予科を経て、1928(昭和3)年に佐倉歩兵第57連隊に入隊、軍曹にまで昇進しました。満期除隊後、一時湯河原町で小学校教員を務めますが、1930(昭和5)年に台湾総督府巡査を志願し晴れて合格、台湾に渡りました。植民地台湾の治安維持にあたるだけでなく民生向上にも貢献したそうです。温厚な人柄で、部下のみならず島民からも慕われたと言います。

 太平洋戦争の戦線拡大により、軍属部隊である海軍巡査隊の総指揮官を拝命したのが1943(昭和18)年で、台湾の警官を中心に編成された約2,000名の隊員は12月マニラに到着し、治安維持にあたりました。ルソン島への連合軍の上陸が迫ると、マニラ海軍防衛隊が編成され、海軍巡査隊はその指揮下に入りました。1945(昭和20)年、連合軍がルソン島に上陸し、激戦が繰り広げられる中、海軍防衛隊は隊員に敵戦車への体当たりを命じたのです。

 2月24日、廣枝は部下に向けて次のように語り、拳銃で頭部を撃ち自決したのです。
「此の期に及び玉砕するは真に犬死に如からず 君達は父母兄弟の待つ生地台湾へ生還しその再建に努めよ責任は此の隊長が執る」

その後、廣枝の部下数百人が米軍に投降、約一年間の捕虜生活を経て故地台湾に生還しました。

 戦後、廣枝の部下だった台湾人警官らによって元台湾新竹州警友会が結成され、時を経て、1976(昭和51)年、台湾北部の苗栗県獅頭山に廣枝の位牌を祀りました。慰霊祭も毎年執り行われています。
 1977(昭和52)年には日本在住の有志らにより茨城県取手市弘経寺内廣枝家墓域に顕彰碑が建立されました。

 顕彰碑に刻まれた文章を掲載しておきます。

 ああ壮烈 義人 廣枝音右衛門
君は明治三十八年十二月二十三日神奈川県小田原に生まれ長じては東京日本大学に学ぶ昭和五年意を決し台湾警察に身を投ず頭脳明晰資性温厚而も剛毅果断 台湾島民の信頼殊の外厚し昭和一二年七月日華事変勃発続いて昭和一六年一二月大東亜戦争に拡大其の門銃後の守りに挺身昼夜の別なし昭和一八年一二月新竹州警部にして竹南郡行政主任たりし時台湾青年の海軍巡査を以て組織せる軍属部隊の長として比島に派遣さる部下への愛情深く慈父と仰がる されど戦況吾に利あらず遂に昭和二〇年二月米軍の上陸侵攻を受けるや吾に防御の術さえ無し軍の命令たる其の場に於いて全員玉砕すべしと既に戦局の前途を達観したる隊長は部下に対し「此の期に及び玉砕するは真に犬死に如からず君達は父母兄弟の待つ生地台湾へ生還しその再建に努めよ責任は此の隊長が執る」と一言泰然自若として所持の拳銃を放ちて自決す時に二月二四日なりその最期たる克く凡人の為し得ざる所
 宜なるかな戦後台湾は外国となりもこの義挙に因り生還するを得た数百の部下達は吾等の今日在るは彼の時隊長の殺身成仁の義挙ありたればこそと斉しく称賛し此の大恩は子や孫々に至るも忘却する事無く報恩感謝の誠を捧げて慰霊せんと昭和五一年九月二六日隊長縁りの地霊峰獅頭山勧化堂にその御霊を祀り盛大なる英魂安置式を行う
この事を知り得た吾等日本在住の警友痛く感動し相謀りて故人の偉大なる義挙を永遠に語り伝えてその遺徳を顕彰せんとしてこの碑を建立す
  昭和五二年一一月吉日 元台湾新竹州 警友会
    因に遺族は取手市青柳に住す

遺徳顕彰碑と廣枝家之墓改.jpg

遺徳顕彰碑と廣枝家之墓(取手市 大鹿山弘経寺)

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