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校史余滴 第八回 校歌制定

2016/10/18

校史余滴
 第8回 校歌制定

 第7回でお話しした校章に関連して、今回は校歌制定についてです。本校の校歌が制定されたのは大正14(1925)年10月、91年前のことでした。ペン・剣に桜の校章 制定に先立ちます。そもそも、「校歌」を制定する慣行がいつごろから諸学校に広まったかは、定かではありません。中学校・高等女学校などについていえば、おそらく府県立中学校・高等女学校などが多く成立する日清・日露戦争間あたりではなかったかとされ、高等教育機関では、1890年代以降旧制高等学校の寮歌が学生歌・準校歌として作られ、慶応義塾塾歌(1904)、早稲田大学校歌(1908)などが続々と作られました。歌詞の特徴は、尚武・貞淑・研学・国家の使命などを盛った漢文調のものが中心でした。

 本校校歌の詩を書いたのは東京大学文学部国文科在学中ながら、大正13年から講師として本校で教鞭をとっていた井上司朗(1903~1991)で、岡田三善校長の要請を受けてでした。それに曲をつけたのは弘田龍太郎(1892~1952)です。

 井上司朗は立教中学校から第一高等学校を経て、1924年、東京帝国大学文学部国文科に入学。在学中から本校で英語と国語と漢文の講師を務めました。その後、東京帝国大学法学部政治学科に入り直し、1928年に卒業。戦中は内閣情報部で働きましたが、戦後は公職を辞し、後楽園スタヂアムに入社し同社取締役を経て、1954年、ニッポン放送の創立に参画しました。逗子八郎の筆名で、多くの短歌を詠み、歌集も残しています。1960年代に本校の理事の一人となっています。
 逗子八郎の名で書いた随筆「五遷の松」(『月刊時事』【身辺閑話】第66回 月刊時事社 1983年1月)に本校の校歌制定について触れた部分があります。

 やがて校長から、逗子開成の校歌をつくるようにと御命令があり、潜心二週間、ようやく成った『天地分くる富士ヶ嶺の』以下、一節六行、六節の歌詞を、校長先生が非常によろこばれ、予算はいくらかかってもよい、之に日本一の作曲家に作曲をお願いしろ、とのことで、私の立教中学の保証人杉浦千歌子先生(東京音楽学校教授)を通じ、同校教授弘田龍太郎先生(当時日本一の大家)におねがいし、一ヶ月の後、全国高校校歌中、屈指の壮重華麗な名曲を得た。今にして思えば、私の逗子開成の厚恩に対する、心ばかりの感謝のしるしとなった。
 
 一方、作曲をした弘田龍太郎は東京音楽学校本科を卒業した作曲家で、本校校歌を作曲するまでに、「鯉のぼり」「靴が鳴る」「浜千鳥」「叱られて」「雀の学校」「春よ来い」などを作曲しています。本校校歌以外に全国各地の小中高等学校の校歌を多数作曲しました。

 この時作られた校歌はもちろん現在の校歌ですが、実は1943年、太平洋戦争中、創立40周年を記念して、この校歌が廃止され当時の鹿江三郎校長の作詞、海軍軍楽隊長内藤清五作曲による新たな校歌が制定されました。しかし敗戦とともにこの校歌は廃止され、従来の校歌に戻ったのです。

20161011 弘田龍太郎墓所掲載用.jpg

弘田龍太郎墓所(谷中・全生庵)

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