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校史余滴 第七回 校章の変遷

2016/09/21

校史余滴
 第7回 校章の変遷

 「ペン・剣・桜」の校章が定められてからこの9月で88年になります。創立113年なのに、校章は88年?
現在の校章は30年前の中学校再開を機に、「ペン・剣・高」を改めたものですが、もとの意匠は奥宮衛校長時代に制定されたものなのです。
第二開成学校としてスタートした本校では長く「ペン・剣・二」の校章を使用していました。開成中学校の校章(徽章)が「ペン・剣」と定められたことについては、『東京開成中學校校史資料』(1936)という書物に、

明治十九年 十二月 初めて生徒の帽子及徽章を制定す。徽章は剣とペンとを交
叉したるものにして英国の俚諺「ペンは剣に優れり」(The Pen is mightier than the Sword.)より採りたるものなり。

と記されています。この「俚諺」は当時広く知られていたのですが、イギリスの作家・政治家である Edward George Earle Bulwer-Lytton(1803~1873 有名なリットン調査団の「リットン卿」の祖父)の5幕から成る戯曲"Richelieu"の第2幕第2場のRichelieuの科白によります。

リシュリュー(何かを書こうとペンを持ち上げて)
そうだ、これだ! 完全に偉大な人間の統治下では、ペンは剣よりも強いのだ。

リットンの作品は西南戦争前後に広く読まれるようになり、この言葉も武力よりも言論が重視されるようになるなか、次第に「俚諺」化して人口に膾炙していったのです。第二開成学校として発足した本校は、東京開成中学校の校章であるペンと剣の交叉の中央に、第二を表す「二」の文字を置いたものを校章としたのです。

大正9(1920)年、開成中学校から独立して11年目の楠公祭の記念メダルがありますが、その裏面に刻まれた校章はペンと剣の交叉に「二」。また、昭和3(1928)年10月の講堂落成校友大会記念のメダルにもペン・剣に「二」。逗子開成中学校となった後、19年間もの長きにわたって第二開成を表す校章を使っていたことになります。

加藤義雄(1942年 第36回卒)から寄贈された写真・絵葉書の中に、何枚かの新聞記事の切り抜きが挟み込まれていました。その記事の一つ(掲載紙・掲載年月日不詳)に「校章の由来」という連載記事の第23回があり逗子開成中学校が取り上げられているのですが、そこには「昭和三年九月現在の通り改められた」とあります。講堂落成大会の前後に「桜」に改められたものの、メダル製作発注の段階では「二」だったのでしょうか? 新聞記事との時期のズレは不明です。

当時の校長は奥宮衛。「桜」はいうまでなく、国学以来日本精神発揚のシンボル(本居宣長の歌など)であり、学級呼称を「中隊・小隊」など軍隊風に改め、「振武隊」(現吹奏楽部)を創設した奥宮校長時代のこととして意味深いものがあります。
 「ペン・剣・桜」の校章は、戦後の新たな学制で「ペン・剣・中」と「ペン・剣・高」。中学校募集が停止されて「ペン・剣・高」のみ、前述のように中学校が再開され、中高一貫教育を掲げ「ペン・剣・桜」と今日の姿になったのです

20160921 校章.jpg


※校章の変遷 「二」「桜」「高」

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