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校史余滴 第六回 長柄運動場

2016/08/13

校史余滴
 第6回 長柄運動場

 85年前の夏休み、逗子開成中学校の生徒・教師は葉山長柄で運動場をつくる作業に汗を流していました。
 当時、現在の校門のところからセミナーハウス手前まで道路が通っており、校舎敷地は三角形で狭く、運動には不都合でした。ところが、校主神田ライ(金偏+雷)蔵の所有地(5,200坪、約17,000㎡)が長柄にあり、そのうち2,640坪(約8,700㎡)を運動場に造成したのです。造成を決定したのは前年発足した自治会でした。
造成作業が行われたのは7月26日から11月30日までの68日間、夏休みには集中的に行われました。作業に参加したのは(延べ人数)、生徒3,437名、教職員361名でした。
 当時5年生だった横尾義貫(1932年卒 静岡高校・京都大学を経て京都大学教授・名誉教授)が「長柄運動場整理記事」(『修養會雑誌』第19号 1932年1月)を残しています。(一部読みやすく書き改めてあります)

福井、長谷川両先生の測量、計算の結果割りだされた数字によって、8月中、一日に二組ずつ(又は三組)、一組四日ずつ、労働する事となった。7月26日、先ず準備作業として、応援団幹部、競技部員等の手によって、夏草の繁茂した荒れ果てた此の長柄の地の運動塲開拓に着手した。福井、長谷川両先生をはじめ、田中、衣川、石川の諸先生も親しく我々を指導せられた。この作業は30日を以て打切りとして31日より愈々本作業にうつった。
 本作業は7時半に作業塲に集合、朝の太陽を斜に受けて、朝つゆを踏みつけながら、シャベルで大地を掘りかえす。愉快に作業は着々と進捗して、10時半に終えるのを常とした。9時、10時となると、こんな山に繞まれた所では全く風が無い事があって、汗が自然に滲み出たが、作業は順調に運ばれて、北側は低められ、南側は高められ、日に日に平になって行った。9月に入ってからは、なお欠席者等によって続行され今日に至って、遂にその予定を終了したのである。
 この作業は、我校の体育を益々向上せしむる目的を以て実施されたのであるが、それは唯にその崇高なる目的において尊いのみならず、平常得難い神聖なる労働を体験するの機会を得た事において更に尊い。
 我等の手になり、我等の心の打込まれたこの運動塲は、永久に記念され、永久に我等の誇であらねばならぬ。

 造成作業から70年を経た2002年、柴崎二郎氏(1932年卒)から校史編纂委員会宛に届いた手紙には、当時の作業の様子が次のように綴られています。

 わたしはこの作業に参加して、山際の高いところから土を削り、リヤカーで低いほうに運び出すなど、夏休み中も大いに汗を流したものでした。わたしの作業相棒の木下君の大きな額からも汗が流れて、片手でリヤカーの取っ手を握りながら、手拭いで顔をふく笑い顔は、今でも目に浮かぶほど鮮やかです。あそこは、学校からはかなり離れている所なので、日常的に利用するには不便ですが、その広さは毎日見ている校庭からすれば格段の相違で、鍬やスコップをかついだ長い行列が、行幸道路に繋がる暗いトンネルの中に吸い込まれていく有り様などは、今日では誰も想像できない姿であったのではないでしょうか。夏休みも返上でしたが、誰も苦情も言わずに作業をしただけに、完成した時の満足感は大したものでした。

 このように生徒・教員が心を込めて造成した運動場でしたが、「永久に」という思いとは逆に短命に終わってしまいました。1940(昭和15)年にこの長柄の土地(神田没後、遺族が相続し、学校は貸借していた)を売却する話が出たのです。学校が買収するという案も出されましたが、まとまらず、結局この土地から撤収することになったのです。本校敷地の拡張も進み、長柄運動場に執着する必要もなかったことと、買収費用の点で折り合いがつかなかったからでした。

運動場造成作業.jpg
運動場造成作業の様子

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