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校史余滴 第二回 千葉吾一のこと

2016/05/03

校史余滴 第2回

本年の創立記念日にスタートした新企画「校史余滴」。

本企画は、『100年史』以降に新たに発掘された事実や伝えきれなかった事実をご紹介するものです。

憲法記念日に、「憲法」と「逗子開成」について考えてみませんか?

千葉吾一のこと

日本の憲政史の上で大きな意義を持つ「五日市憲法(日本帝国憲法)」は君民共治に立ちながらも、充実した人権保障、司法権の独立を特徴とします。五日市の青年らによって組織された五日市学芸講談会が明治14(1881)年に私擬憲法として起草したものです。昭和43(1968)年に五日市深沢村の旧名主の土蔵から発見され、注目を集めました。講談会の設立者であり起草者の代表が千葉卓三郎(1852~83)ですが、卓三郎と同郷でやはり起草者に名を連ねているのが千葉吾一(1861~1927)です。あきるの市に建てられている五日市憲法草案の碑には千葉卓三郎と千葉吾一の名が並んで刻まれています。(同じ碑が千葉卓三郎の生地宮城県志波町、墓所仙台市にも建てられています)
明治36年に誕生した本校は翌年5月に、私立第二開成中学校として認可されますが、田邊新之助と共に共同設立者(兼校医)となったのが千葉吾一でした。(あと一人の共同設立者は、福原有信らと共に資生堂を設立した矢野義徹)
宮城県栗原郡の医者の家に生まれた千葉吾一は天皇の東北巡幸の折、侍医岩佐純の知遇を得、上京して五日市で應天堂医院を開業します。医院の扁額は山岡鉄舟の筆になります(吾一の御孫さんが横浜市で「應天堂中田町クリニック」を開業。扁額が現存します)。五日市憲法起草に関わった後、海軍軍医となります。軍医としての経歴は輝かしいものでした。軍艦軍医長を務め、日清戦争の際は旅順口海兵団軍医長も務めました。日露戦争直前に退役、逗子新宿に静養圏医院を開業し、後に千葉病院と改称しました。第二開成中学校の共同設立者となったのは、田越村村医千葉病院院長という立場からでした。少し時代が下りますが、大正2(1913)年に逗子松林堂より発行された増島信吉『逗子と葉山』には次のように記されています。(読みやすく一部書き改めています)

 ...この地に開業し一般の診察に応じてよりは町民の信頼深く本宅及び診察所と道路を隔てて病院を有し、内外科、産科、婦人科、耳鼻咽喉科、すべて最新式の設備をもって外来及び入院治療のもとめに応じるゆえに避暑避寒の客又は療養のため転地せる人々は白砂青松の間に所し、悠々養痾をなすと共に進歩せる医薬の治療をも受くるをうべきなり。

 明治43(1910)年1月の七里ヶ浜ボート遭難事故後の追悼会(2月6日)で学校を代表して「決別と慰霊の辞」と題された弔文を読み上げたのは千葉吾一でした。

 最後に一つのエピソードを。大正5(1916)年11月9日、葉山日蔭茶屋で神近市子に左頸部を刺された大杉栄は千葉病院に運ばれ、一命を取りとめました。関東大震災の際の甘粕事件で大杉栄が殺された時、吾一は日蔭茶屋での事件を回顧して、「大杉が自動車で運ばれてきたとき、ついてきた者たちが車から降ろそうとしたのを押し止め、車内で応急処置をした。あのときそうしなければ大杉は死んでいただろう。」と述懐したといいます。

 若き日に憲法草案起草に加わり、海軍軍医・市井の医者・学校経営者として生きた千葉吾一に思いを馳せて下さい。
 また、5月3日は日本国憲法施行から69年を迎える日です。一人一人が憲法のありかた、国のゆくえについて考える機会にして欲しいと思います。(町田市立自由民権資料館で「五日市憲法展」が開かれています。5月22日まで)

20160502 千葉吾一.jpg

 田邊新之助(向かって左)と千葉吾一(右)
   第1回卒業証書授与式記念写真(1907年3月28日)より

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