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新企画「校史余滴」スタート

2016/04/19

昨日4月18日(月)をもって、逗子開成中学校・高等学校は創立113周年を迎えました。県内で最も古い男子校として、歴史を刻み続けて参りました。これからも「開物成務」の気概をもって、新たな挑戦や改革を行って参ります。

さて100周年時には、900ページをこえる『逗子開成100年史』を発刊いたしました。発刊から13年が経ちました。この間にも、新資料をご紹介いただいたり、新事実が浮かび上がったりすることがございました。こういった取り組みを後世に残すためにも、新企画「校史余滴」をスタートいたします。不定期にはなりますが、本ホームページ上にて、100年史では紹介しきれなかった事実や新たに判明した資料等の紹介を行って参ります。是非ご注目ください。

校史余滴  第1回 田邊新之助、逗子・鎌倉と黒田清輝

 上野の東京国立博物館で特別展「生誕150年黒田清輝―日本近代絵画の巨匠」が開かれています(5月15日まで)。黒田清輝(1866~1924)は、逗子・鎌倉、また本校創立者の田邊新之助(1862~1944)と深い繋がりがあるのです。
 薩摩出身の黒田は伯父黒田清綱の養子となって明治5(1872)年に上京、小学校卒業後、二松學舎を経て、東京開成中学校の前身である共立学校に入学しました。明治11(1878)年のことでした。すぐに築地英学校に転じたので共立学校在学はごく短期間でした。田邊新之助が共立学校の漢文教師になるのが明治15(1882)年ですから、黒田清輝と田邊新之助はここでは擦れ違い。
 黒田は明治17(1884)年から26(1893)年までフランスに留学し、帰国後は明治29(1896)年に発足した東京美術学校西洋画科の教員となります。教授として日本洋画を牽引し、有名な「腰巻事件」が起きた頃、黒田のもとで洋画を学んでいたのが、田邊至(1886~1968 新之助の次男)でした。至は美術学校卒業後、研究科に進み、西洋画科の教員になりますので、黒田と親しく接したことでしょう。至の父新之助が共立学校の教員、開成中学校校長を務め、逗子(黒田が頻繁に滞在した)に中学校を創り、鎌倉(黒田の別荘があった)にも女学校を設立したことなどを黒田は耳にしたかも知れません。黒田が逗子の定宿にした養神亭は逗子開成中学校から歩いて数分のところ、田越川にかかる富士見橋の北側にありました。
 そうしたことから田邊新之助と黒田清輝に接点が生まれます。陸奥広吉(1869~1942 陸奥宗光の長男 田邊新之助の教え子で外交官 鎌倉女学校校長も務める)、大島久満次(1865~1918 台湾総督府民政長官 神奈川県知事)、黒田清輝らを発起人として大正4(1915)年に発足した「鎌倉同人会」の会名を選定し、趣意書を起草したのは田邊新之助でした。また、大正7(1918)年10月2日、鎌倉女学校創立14周年記念に黒田は同校で西洋画に関する講演を行っています。講演に先立ち、「静カナル秋ノ日和」に田邊新之助鎌倉女学校校長は鎌倉の黒田別荘を訪ね、講演を依頼したことを黒田は日記に記しています。
 上野の展覧会には黒田が「湖畔」などとともに1900年のパリ万博に出品した「木かげ」と題された印象派風の作品が展示されています。木の間を洩れる光が陽だまりを点在させる叢に寝転がる少女が茱萸の実に手を伸ばしているものです。明治31(1898)年、東京美術学校における岡倉天心排斥事件のゴタゴタを避けるかのように長期にわたって逗子養神亭に滞在していた黒田が、逗子柳屋の「つうちゃん」をモデルに描いた作品です。機会があれば上野に足を運び、黒田清輝と逗子・鎌倉、また田邊新之助のことに思いを巡らせてみてはいかがでしょうか。

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  「田邊新之助の肖像 1943年田邊至画」

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