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9月の映画 [鑑賞文]

2013/10/21

映画「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」生徒の鑑賞文

【注意】鑑賞文は時に映画の重要な内容や結末に触れる場合がありますので、お気を付け下さい。

高3D 西田白峰

 正直な気持ちを吐露するならば、はじめ見終わったときには、取り留めのない話だとしか思えなかった。辛うじて神への信仰は伝わってきたが、魚を殺したときのほかは特にいのちを貴ぶような様子もみられず、奇特な人物というわけでもない。自分の神に対する価値観とも相容れず、神の名を叫ぶことで神の押し売りをされている気さえした。  しかしほかの人の話を聞いてみるとどうも、ただのぱっとしない「トラとの漂流記」ではないようなのだ。「そもそもトラとの話はパイの作り話で、ふたつ目の内容こそが本当にパイが経験したものなのではないか」という意見さえあり、僕もその意見に従いたい。そもそもあらすじを知った際に、何故わざわざ第三者に対して主人公が語るという興ざめな形式をとる必要があるのかと憤慨を覚えていたのだが、その理由さえもここに収斂してしまうのだ。つまり、語り・騙りという行為を通してパイの嘘から本質を見抜くことこそがこの話の主題なのだ。そこへの大きな足がかりとしてパイの語ったふたつ目の話と、小説家の洞察のことばは用意されていた。  「トラとの話のほうが良い話だ」と小説家が述べた折、パイはその同意に感謝を示した。彼には動物に仮託した物語としてそれを語りたい気持ちが強くあったのだ。  「トラ」が小説家の言ったようにパイ自身の投影であるならば、彼は生命の危機に瀕し顕露させてしまった内に秘めたる猛獣を、神への信仰という理性、そして神の助けによって飼いならしたが、危機が去れば猛獣もまた風のように去ってしまい、それを彼は惜しんでいた、と考えることができる。彼の見た「トラ」こそ、彼の本質たるものだったのだ。自らの内奥に潜むものをも引き括めてこそ自身の姿なのであり、それを掴めなかったことは、自らを見失ったにも等しい。  彼がトラの寓話を練り、語り始めたのは多くの事実を受け入れ難かったからなのかもしれないが、年月を経てなお同じ話を繰り返すうちには、明らかな心情の変化を窺える。トラという仮の姿を与えることによって、彼は本当の自分を、自分の弱さを知り得た。そしてその弱さを受け容れることこそが彼の望んだ「ハッピーエンド」なのだ。小説に仕立ててもらう心構えでいたのも、彼がいまだその「トラ」を希求し続けているからなのかもしれない。

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