「資料(モノ)が語る逗子開成の歴史」 連載2 岩崎航介

連載2 岩崎航介 1.「研師厨子野耕介」

 吉川英治(1892〜1962)の長編小説『宮本武蔵』は剣の求道者「武蔵」の生涯を描くことで、「生涯一書生」という作者自身のモットーを具象化した作品だといえます。1935(昭和10)年8月から足掛け5年、1013回にわたり「朝日新聞」夕刊に連載され、国民の大喝采を浴び、「武蔵物」の決定版となった作品です。

岩崎航介先生
岩崎航介先生
昭和6年卒業アルバムより)

  武蔵が江戸に出て来て馬喰町の安宿へ泊まるあたりになって、「御たましい研所本阿弥門流厨子野耕介」という看板を掲げた貧乏研師が登場しますが、その研師は刀のことについて武蔵に講釈を垂れるのです。『宮本武蔵』空の巻「蠅」「かたな談義」(吉川英治歴史時代文庫19 pp.122-153)で読むことができます。

…わしは刀を研ぐとは看板に出しておらぬ。お侍方のたましいを研ぐものなりと―人は知らず―わしの習うた刀研の宗家では教えられたのじゃ…その教えを奉じますゆえ、ただ斬れろ斬れろと、人間を斬りさえすれば偉いように思うているお侍の刀などは―この耕介には研げんというのじゃ

とは、刀の研ぎを依頼された厨子野耕介が武蔵に(この時点では相手が武蔵とは知らずに)答える言葉です。一癖も二癖もある研師として描かれており、TVドラマでも、今福正雄(1975)・大滝秀治(1990)・田中邦衛(2001)と、異色とも言える名優によって演じられています。『宮本武蔵』においてある意味で重要な役どころであることがわかります。

  この「厨子野耕介」は実は「逗子」「の」「航介」で、大正末から昭和初めにかけて、逗子開成中学校で教鞭をとっていた「岩崎航介」先生がモデルなのです。岩崎先生は「鍛治屋」という渾名を付けられていたのですが、本校教員を辞した後、本物の「鍛治屋」として名を揚げました。

  岩崎先生の経歴などは追って紹介するとして、厨子野耕介が『宮本武蔵』に登場するに至った経緯を、その遺稿集『刃物の見方』(三条金物青年会 1969)に収められた「刃物一代」という文章から拾いましょう。

 吉川英治氏の長篇新聞小説『官本武蔵』が大評判になり、私も愛読していたのだが、その中の一節に、二乗寺下り松の決闘の後、武蔵が本阿弥光悦と会うくだりがあった。光悦と云えば本職は研ぎ師なのに、吉岡一門との激戦後の武蔵が彼と出合って茶器の話などばかりしているはずがないではないか、刃のかけた刀を研いでくれと云うべきだろう、吉川英治ともあろう者がそれくらいのことが分らないのかと、私は大いに気焔をあげ、とうとう吉川邸へ乗り込んだのである。
  何時間か、私は日木刀をめぐってぶちまくったが、吉川氏は静かに私の話を終わりまで聞いて下さった。それからしばらくして、武蔵が江戸へ出て馬喰町の安宿へ泊るあたりまで小説が進んできた時、私は目を丸くしてしまった。逗子に住んでいた私の名前をもじったものか、厨子野耕介と云う研ぎ師が登場して、私が吉川氏に対してぶちまくったのと、全く同じ内容のことを武蔵に向かって説教しているではないか。
  「刀の事となると、耕介は眼中に人もない。青い頬は少年のように紅らみ、口の両端に唾を噛み、ともすれば、その唾が相手へ飛んで来ることも意に介さない。」
 これは正に私のことである。文学者と云うものは、あんな静かな顔をしながら、よくもまあ観察しているものだ、と改めて感心したが、その耕介が、相手を武蔵と知ると「よもや武蔵様とは知らずどうぞ真っ平おゆるしの程を」と詑びるくだりを見て、私は「なんで詑びる必要がありますか、はなはだ不愉快です」と手紙を出した。するとすぐに返事がきて「しばらく御許しあれ」と人柄のにじみ出たような文面であった。

 岩崎航介先生と吉川英治との交際は以後長く続き、吉川英治から岩崎先生に宛てた手紙も残されています。

 岩崎先生の刀剣への情熱がどこから生まれたのかは興味深いところです。

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連載2 岩崎航介 2.「八幡大菩薩への誓願」

 岩崎航介は1903(明治36)年元旦、新潟県三条町の刃物問屋の家に生まれました。第一次世界大戦後、ドイツと日本はインドへの刃物輸出をめぐる壮絶な競争を繰り広げますが、結局日本は敗れてしまい、三条ナイフは全滅、岩崎家も財産が傾きました。旧制新潟高等学校を卒業した航介青年は、ドイツ刃物の中心地ゾーリンゲンを「父の仇」と考え、八幡大菩薩に三十年計画での仇討を誓願したのです。

 岩崎航介は、世界一の刃物である日本刀を研究し、その製法を応用することで、ドイツの刃物を破ることを考えました。1922(大正11)年、鎌倉で永野才二という研師に学びながら、東京帝国大学文学部国史学科に入学しました。日本刀の秘伝書である古文書を読むための学問を積まなくてはならないと考えたからです。「刃物一代」(『刃物の見方』所収)には次のようにあります。

 たまたま逗子にいた知り合いの東大生が中学校の教師をやりながら、その余暇に学校へ出ていることを知ると、私は矢も盾もたまらず、彼の勤めている中学校の校長のところへ教師に採用してくれるよう押しかけ談判に出かける仕儀となった。
  三条一万人の刃物鍛治をひきいて、ドイツ刃物への仇討ちを企てる私を拾って下さい、と私も二十歳の稚気丸出しの強談判となり、とうとう校長に「よし、来い。」と云わせてしまった。

日本刀を手にする岩崎航介
日本刀を手にする岩崎航介
(角利産業株式会社提供)

 1925(大正14)年1月のことで、この時の逗子開成中学校校長は第6代の岡田三善です(在職1919〜1927)。押しかけ談判に来た岩崎航介も、「よし、来い。」と引受けた岡田校長も大時代的人物ではありませんか。

 岩崎航介はその後1934(昭和9)年10月まで逗子開成中学校講師を務めました。「足の悪い、色青白き橋本竜伍という秀才」が教え子の中にいました。後に厚生大臣・文部大臣を務めた政治家で、橋本龍太郎元首相の父上です。

 岩崎航介の夢は一教師で終るというのではありませんでした。東京帝国大学国史学科を卒業後、工学部と大学院で冶金を学び、刃物の道を本格的に歩みます。大学院を修了したのは1938(昭和13)年で、この年に吉川邸に乗り込んだのです。

 岩崎航介は大学での副手を経て、1945(昭和20)年5月に三条に帰り(長男の重義は逗子開成中学校に在籍していました)、日本刀・切込刀の研究製作に没頭します。特に、不純物の非常に少ない玉鋼(たまはがね)を使用した優秀打刃物の研究により、玉鋼を使用した世界最高の切れ味を保つ剃刀の本格的製造に成功しました。三条刃物を世界一の地位に押し上げた功績は大きく称えられています。晩年には病身でありながら宮内庁正倉院刀身調査員を拝命、正倉院の刃物類・刀剣類の科学的調査を進めているさなかの1967(昭和42)年8月、癌のため亡くなりました。享年64歳の若さでした。

 岩崎航介による鋼の科学的分析による研究成果は長男重義に引き継がれ、岩崎重義は1998年、ミュンヘン国際匠の技メッセにより、匠の技の大賞である「バイエルン州政府首相金賞」を授けられました。ドイツ刃物への対抗意識から芽生えた「鍛治屋」岩崎航介の夢が実現したのです。

 青年の日に大きな夢を抱き、生涯それを忘れることなく、実現に向けての努力を重ねた「鍛治屋」岩崎航介先生が逗子開成中学校で教えていたのです。先生の熱い夢は授業を通じて生徒にも伝えられたのではないでしょうか。岩崎先生の授業を受けた生徒たちは幸せだっただろうなと思いつつ、私たち(私)がそうした熱い気持を持っているのかと自らを省みもしたのです。

 付記:本稿執筆に際しては、新潟県三条市の角利産業株式会社ホームページの「岩崎重義の世界 越後鍛治の巨匠岩崎重義の半生とその作品」を参考にさせていただきました。また、岩崎航介氏の写真も御提供いただきました。記して感謝いたします。

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